蟻は今日も迷路を作って

真面目な話からそうでない話まで。本当の話から嘘の話まで。蟻迷路(ありめいろ)という人が書いてます。

『男はつらいよ』を初めてちゃんと観る

マプラに『男はつらいよ』の第一作が入っていたので観てみる。

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アマプラは映画開始時に画面左上に年齢対象が表示される。

男はつらいよ』は、

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G評価で「薬物使用、暴力」だった。

G評価は「ジジイくらい物わかりのある年齢になれば問題ない」と私は解釈している。

男はつらいよ』ってそういう映画だったっけ?

小学生のころうっすら見た記憶のある場面を思い出そうとするが、それは食卓で、なにか会話で、とぼやけた印象しか浮かばず、「寅さん」を高度に抽象化した雰囲気だけが像も結ばず靄になる。

私は「寅さん」をちゃんと観たことがないのだ。

それにも関わらず、柴又とか、フーテンの寅とか、向後万端(きょうこうばんたん)とか、『男はつらいよ』にまつわるワードや雰囲気は知っているのは、周囲の大人たち(昭和生まれ)の中に寅さんが深く根付いているからなのだろう。この映画はかつて国民的な人気シリーズだったのだ。

 

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寅さんはテキ屋で全国を放浪している様子。故郷の柴又には20年くらい帰っていないらしい。それがなぜ急に帰ってきたのかというと、「桜が咲くころに故郷を思い出すから」がたぶん理由だ。

なんだそれ。

じゃあ毎年帰って来いよ。

 

ところで、テキ屋商売とは今どき無形文化財に指定されてもいいくらい見かけない。

映画冒頭で渡し舟が登場したり、当時の国鉄の駅構内の様子や、服飾、生活様式が、当然だけど現代とは異なっている。

言葉遣いも「昔だなぁ」とわかる。私たちの知らないところで言葉は常に変化しているのだ。たぶん、声帯の使い方のレベルで。

テキ屋や当時の生活様式は、令和の時代から見ると、「理解はできるけどもう見かけない昔のもの」になっていて、あと50年もしたら、江戸時代の生活を見るような感覚に近くなっていくんじゃないかと思う。(もちろんそれは私たちの今の生活だって、100年経てば同じことが言える)

「寅さん」は当時国民の大衆映画で、特別な教養や知識が無くても楽しめるものだったが、もうそろそろ当時の世相や言葉の意味や「テキ屋」商売について知識がなければすんなりとは理解できない時代になっていくだろう。

男はつらいよ』はちょうどその過渡期にあって、もうすぐ「歴史資料」になりかねないところに差し掛かっている。

 

寅さんは現代から見ても、おそらく当時の目からしても結構野蛮な人間で、対照的に妹の さくらは人間ができているというか、ほとんど聖母みたいな存在だ。

さくらみたいな、美しくて、朗らかで、優しく、だけど自分の意志も強く持っている、内面も外面も美しい人間は側にいてほしいけど、寅さんみたいな、はっきり言ってやくざ者はどこか遠くにいてほしい。

あらゆる配慮に欠け、自分勝手で、時には暴力をふるい(さくらを殴る)、気に入らないとどこかへ行ってしまう(第一作では二度故郷を離れる)。

暴言もすごくて、ちょっと今では考えられないようなことを言ったり(まぁ当時の倫理観なのだ)15分に一回は寅さんが暴れたりまくし立てたり物凄いので、耐性のない人には無理かもしれない。

映画の前半だけ観て寅さんを好きになる人はたぶんいない。

ヤバイ人だから。

「薬物使用、暴力」はあながち間違いじゃない。

なにが「男はつらいよ」だ。さくらの方がつらいだろ。

 

 

だけど、それでも寅さんを信じて最後まで観れたのは、冒頭のワンシーンがあったからだ。

寅さんが原っぱを歩いているとパターゴルフの球が寅さんの足元を転がってくる。ボールがカップに入りそうなところを、寅さんは親切心で拾ってやり、プレイヤーにポイと返して、へへ、と笑う。寅さんは「ボールを穴に入れるゲーム」を知らずに勘違いして、「穴に入りそうになったボールを危ないところで助けてやった」と満足している。

散文的な映画ではなく、詩的な映画だ。

すべてを説明しないけど、シーンや人物の表情や間の取り方と演出で、どういうことなのかわからせる、映画にしかできない芸術だ。

このワンシーンで、ああ、車 寅次郎は「そういう人」なのね、と了解し、彼を最後まで信じることができた。

 

このワンシーンの「説明なき説明」によって寅さんの巻き起こす騒動は彼の勘違いやある意味の世間知らずに端を発していて、寅さん自身は彼なりの善意と思いやり、彼なりの楽しさのつもりでやっている、ということがわかる。

だが、寅さんにヘイトが溜まらないかというと、そうでもない。ちゃんとヘイトは溜まる。

前半は特にヤバくて、さくらがただただ可哀相、っていうか さくらも さくらでどうしてそんな聖人なの?さくらもヤバイ人なの??って全然感情移入できない。

 

 

 

彼を魅力的に映すことができたのは、最後の失恋があったからだ。

 

寅さんは最後失恋をして、再び根無し草の西から東へ旅に出る。

結構惨めで可哀相な失恋だ。

本気の恋愛に敗れた寅さんは暴れるかと思いきや、しおらしくなって、旅に出る。舎弟にも「実家に帰って親孝行しなさい」などと言う。寅さんは一人になりたい。

ここで寅さんが私の心をぎゅっと掴んだ。一気に人物像が深くなった。と同時に「寅さんでも失恋をする」ことがある種の「許し」を与えている。

たぶん、恋愛が成就してウハウハしていたら私はこの作品を駄作と見做していただろう。

失恋したからこそ、寅さんを許せた。寅さんが魅力的になった。

ああ、寅さんは、素直なんだ。可哀相なんだ。

傍若無人な寅さんでも大失恋をするし、並の人かそれ以上に悲しむのだ。寅さんは遠いところにいる人ではなく、私と同じように悲しむ、すぐそばにいる人なのだ。

 

寅さんはどこまでも奔放で、すべてのことに素直で、100%の気持ちで喜んだり悲しんだりできる人間である。そんな姿を目にしているうちに愛しくなってくる。憎めなくなってくる。こうやって子どもみたいに、いや、子ども以上に素直であれたことって、私にはあっただろうか。

そうわかっているから、寅さんが失恋してそこに「許し」があるけれど「ザマアミロ」とは思えず、自然と感情移入していて、しんみりと悲しい。

 

寅さんの恋が成就したとき、この映画は本当の終りで、調べてみるとこれ以降どの作品でも寅さんは「失恋して旅に出る」終わり方をするらしい。

「失恋」が許しとなり、同調となり、寅さんと私たちをグッと近づけるからこそ、なのだろう。

 

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ここまで気持ちよく裏表のない人間はいまも昔もなかなかいない。

いつの時代であっても寅さんの存在は時代錯誤で、しかし普遍(不変)の人間的魅力を備えている。

観る機会は減ってしまうだろうし、歴史考証資料となっていく運命は避けられないだろうけど、作品として、そして寅さんという人物としての魅力はこれまでもこれからも変わらない。

 

 

基本的に喜劇で結構笑えたので、続きが視聴可能ならちょくちょく観よう。