明日から五連休という仕事終わり、なんとなくコンビニへ入り、レッドブルを買った。
エナジードリンクは「ここぞ」というときに飲むものだろうが、明日から五連休、なにも頑張るものなどなく、この仕事終わりは全身が弛緩しきってすべての緊張から解放されている場面でなぜ「ここぞ」のドリンクを飲んだのか、自分でもわからない。
疲れた体が糖分を欲していたのかもしれないし、昨日は暑かったから冷気を放つ青い缶が魅力的に見えたのかもしれない。
ぐいと缶を傾けて冷たい炭酸を流し込むと、息がつまる晩春の暑苦しさから解放されてようやく呼吸ができたような心地がした。
疲れた脳の細部に至るまで圧倒的な糖分が行き届く。多幸感が毛細血管の先にまで至る。またひと口。きつい炭酸が目の奥に刺さる。
ハタからみたら、コンビニのそばでレッドブルをあおってるサラリーマンなんぞ、これからもうひと仕事あるように見えたことだろう。
だけど私のその後の予定といえば、帰宅して米を炊き、食事の用意をするくらいで、エナジーを補給する必要は一切なかった。
無駄に翼を授かってしまった。
駅のホームを歩きながら、自分が天使だったら、と考える。
生まれながらに翼を持っていたら、ひねくれ者の私は翼を使わずに、地面を蹴って走ることへ固執するだろうな。
翼の方がはやく移動できるのに、人間と同じように大地に足をおろして、地上からビルを見上げ、空の高さを測りかね、雲のかたちを笑うだろう。人間になりたい、と思うかもしれない。
でも翼がある私が走るのと、翼のない人間が走る意味はまったく異なる。
人間が走る・歩くのは移動手段だけど、私の走る・歩くは「目的」なのだ。
走るために走っていて、歩くために大地に立っている。なぜならどうしても、翼の方が移動は速くて便利だから。
その点で天使の私は永久に、人間になれない。
人間になるには授かった翼を自ら折るしかないのかもしれない。
そのようなことをちょっと考えてみたが、微塵もエネルギーは消費していない。もうすこし難しいことを考えて糖分を消費しないとエナジードリンクに申し訳が立たないではないか。
ちょっと乗り換えで回り道するか、といつもとは反対側の階段を登ってみる。
翼を授けられても使いどころがないんじゃな。
無駄に溜めたエネルギーを発散できず、乗り換えで駅のホームを移動することにとりあえず消費を試みていた私は、図らずも授かった翼を折っていたと言える。