『シン・エヴァンゲリオン劇場版 :||』の二回目を観てきた。
一度目を観たあとは作品に大きく揺さぶられて正直あまり冷静になれていなくて、あのシーンはどういうことだったのだろうとか、場面の意味とか謎を多く残したまま、ただ物語の結末(あるいは過程)に感動していたばかりで、正味一度の鑑賞では作品を受け止めきれたとは言えなかった。
また、初回鑑賞から一カ月ほど経って脳内に再生される場面が薄っすらしてきたのもあり、自分の解釈による記憶の改ざんで原作が希釈されはじめていた。
像がぼやけてきたのだ。
などとゴタクを並べつつも、結局のところ「面白かったからもう一回観たい」それに尽きた。
以下、雑然と、気に合った部分の感想を並べていく。
かなり散文的なメモなのでつまんで読んでください。
冒頭。
『シン・エヴァ』の冒頭は「これまでの新世紀エヴァンゲリオン」として新劇場版「序」「破」「Q」の場面がまとめられ「あらすじ」として流れるのだけど、そこで泣いてしまった。
まさか「あらすじ」で泣くとは思ってもいなかったので自分でも吃驚した。
『シン・エヴァ』の結末を知っているからさまざまな場面が意味を持ったものとして捉えられ、キャラクターの一言一言、苦難、日常、表情、に、目頭が熱くなる。
二度目の鑑賞ではこの冒頭が最も泣けた。
パリ市街戦。
皆が何を言っているのかさっぱりわからない。
基本的に作中の専門用語やなにが起こっているのかの説明は、特に『Q』以降、ほとんど説明の意味をなしていない。「なにかが起こっていて、なにやらピンチらしい」ことがまずわかり、次に「なにかをすればなんとかなるらしい(?)」ことがわかる。
だが、なぜ、その「なにか」をすれば「なんとかなる」のかがわからない。
はっきり言ってノリである。
でも、面白いんですね。理解できなくとも。
登場人物たちが早口で、大声で、難しい言葉を淀みなく並べていく。それだけで焦燥感が伝わってくる。熱量がこもっている。
この面白さ、格好良さは『シンゴジラ』や『半沢直樹』シリーズにも共通していた。
純粋な言葉が怒濤に繰り出されると気持ちがいいということに最近気づいて、ラップの面白さもここに起因するところがあるのではと思う。
このシーンはメカが格好良い。不気味なエヴァ群。
放浪。
シンジ、アスカ、レイそっくりさんが赤い大地を歩く。
赤の陰影が美しい。どの場面を切り取ってもポスターにしたくなる。
『Q』は三人が青空の下、赤い大地を歩く遠目の引き絵で終わるのだけど、そのシーンがなんか美しくて大好きで、もはやそのシーンの静寂と美しさのために『Q』はあると個人的には思ってもいいくらいだ。
第三村。
大人になった同級生たち。
昔(14年前)の人々はどこか独りよがりで押しつけがましいところがあった。それは同級生だけでなく、ミサトさんや、大人たちも。
『シン』ではみんなが大人になっていて、アスカはまぁシンジに苛立ちをぶつけるところもあったけど、すべての人物が一貫して「シンジの自立」を支援している向きがある。
誰も「こうしなさい」なんて言わない。
それが現代的な優しさであり、根本的な解決に繋がっていく。
レイがあらゆることに興味を持ち始め、失くしてた感情を獲得していく。
素直なコミュニケーションをとり、体を動かす中でコミュニティへ入り込み、社会の居場所を獲得していくのは、シンジと対局にあたる。
湖畔の廃墟。
シンジが放浪するシーン。この廃墟が遠いところなのか近くなのかよくわからない。けど人は寄り付かないみたいだ。白い廃墟群と青い空、湖、冷たそうな風、静けさ。雨。地味だけど美しいロケーションだ。
ここでシンジは「どうしてみんな僕に優しくするんだ」の問いにレイが「みんなあなたが好きだから」と答えたことで、立ち直ってしまう。
立ち直るの早っ、と思ってしまった。
実際には幾日も過ぎていて、もちろんその描写もあるけれど、たった一言で立ち直ってしまう、しかもその一言が「みんなあなたが好きだから」だったのが、なんとも。
わかるんだけど、いまいち説得力に欠けるような。
でもだからってどうすればよかったのかはわからない。これ以上シンジの内奥を突き詰めてもダルくなっただろうし、旧劇場版でそういうのは充分に見た。『Q』でもあったし。
どうしてシンジはたった一言で立ち直れたのだろう?
ここからシンジはかつてないほど素直なコミュニケーションをとるようになる。
父親と話したい意志をはっきりさせる。
結果的に父親ゲンドウもシンジとの対話の中で自己を回復していく。
この作品は暴力ではなにも解決せず、正面からのコミュニケーションによってレイ→シンジ→ゲンドウの順に精神の回復を辿っている。
ここまで対話があって、繋がりを信じ、独りよがりではなく他者との関りの中で解決を探ったのはシリーズ中で『シン』だけだった。(たぶん)
ケンスケの父の墓参り。
ここでシンジは父・ゲンドウと話す意思を固める。
それはケンスケが事故によって父親を喪ったため対話が叶わなかった前提に基づいている。あんなゲンドウでもシンジにとっては唯一の肉親なのだ。話せるうちに話すべき、と思ったのだろうか。
でもそれだけではシンジが父親と対話をしたい決意に説得力が欠けている気がした。
「落とし前は自分でつける」のもそうなんだけど、シンジってこんな子だったっけ、って人の変わりように少し追いつかない。なんかいきなり大人の男になっちゃうんだよな。
でもこうでもしないと物語が先に進まないのはこの25年でよくわかっているから、仕方がないと言えばそうなのだ。
『シン』は家族性が前面に出されていると二度目にして気付いた。
社会の最小規模である「家庭」がテーマになっていると言ってもいいだろう。
不遇な家庭環境で育ったゲンドウ、不幸な父親を持つシンジ、永遠の母、子を授かったミサト、家庭をそもそも持たないアスカ、家族になった同級生、家族を殺された人々……。
社会へ出て行くと同時に、家庭を考えている。
マイナス宇宙は、宇宙なんてマクロな舞台でシンジとゲンドウの内奥(ミクロ)に散文的に迫っていく。
テキストだけみればあそこは些か説明的に過ぎていて言動のセルフカウンセリングにも見て取れるのだが、飽きさせず散文的にしないのはアニメーションの精度の高さによるところが大きく、抽象的な場面をよくぞ描いたと思う。
最後はシンジが世界を再建することでエヴァンゲリオンのない世界にするのだけど、この結末はマクロ(世界のこと)とミクロ(自分のこと)の二面性をうまく取り巻いて解決していると思った。
今まではどちらかでしかなかったから。
まだまだ書きたいことはあるけれど、とりあえず残しておきたい部分は書けたので今日はここまで。シーンのひとつひとつに良いところがあるのだけど書いていったら一日が終わるからやめておこう。それにもう忘れはじめてる。