蒙古タンメン中本のカップラーメンが好きだけど嫌いだ。肛門が死ぬから。
でも買っちゃうし、食べちゃう。好きだから。
「これ食べると明日の朝お腹壊して肛門が焼け死ぬんだよナ……」と鬱になりながら、しかし躊躇せずにレジへ運ぶ。「塩むすび」と共に。
矛盾した感情が無理なく共存している。
食べる前に牛乳を一杯飲んでおくと胃に粘膜が張られて翌朝そこまでダメージを負わなくなるとを知ってから、これを買うのにますます躊躇がなくなった。(ダメージが消えるわけではない)
今日の昼食もこれにするつもりだ。在宅勤務で食べると午前中の鬱憤が晴れて気持ちが良くなる。
本当に辛いから、汁を啜っていると鼓膜がなんか分厚くなったような感じがして微難聴になってしまうのだが、これって皆そうなのだろうか?それとも何らかの劣性遺伝だろうか?
私が汗を流しながら、難聴になりつつ、うまいと半泣き、辛すぎると半笑いの般若みたいな顔で食べている様子を恋人は見咎めて「あなたは何がしたいの?」と訝る。
私は何がしたいのだろう。しかも翌日必ず腹を壊すのに。
もはや、自傷、なのだろうか。
だが自傷行為は、やっている本人は痛みを感じないなんて話を聞くから、やっぱり私の中本は自傷ではない。辛くてつらいし、肛門はヒリヒリするし、なんなら胃も痛む。
「食べなきゃよかった」とさえ思う。
だけども中本をちゃんと楽しんでる。
そして懲りずにまた食べるのだ。
私は何がしたいのだろう。
ところで中本の店舗には一度しか行ったことが無い。
北極ラーメンを頼もうか迷ったけど結局タンメンを食べた。
「カップラーメンの方が辛い気がする」と啜りながらも、新鮮な茹で野菜と店内の雰囲気も相まって、やっぱりラーメンに大切なのはライブ感だな、と認めた。美味しかったのでまた行きたい。
また行きたいのだが、その後日、中本から救急搬送される人を見てしまい「やっぱり食べ過ぎは良くない」と慄いてなかなか足を運べないでいる。たしかに、人にっては最悪の場合救急搬送されてもおかしくないだろう。
中本のいいところは ただ辛いだけじゃなくてちゃんと美味しいところだ。
ただ辛ければいいと思って消費者を馬鹿にしている食べ物が多々あるが、そういった類の辛いものはロシア人が禁酒法時代に靴磨きクリームからアルコールを精製していたのと同じことで、「辛い物を摂取したいだろうから刺激物ならなんでもいい」という捻じ曲がった解釈によって生まれている。それこそ食事ではなく自傷だ。
辛いものは好きだけど、味として辛さの刺激の向こう側にある旨味をしっかり感じたい。
その一線を越えると食事ではなくなってしまう。それなら舌に刺激物の液体を垂らすだけでもいい気さえする。
中本、そういうわけでちゃんと美味しくて、好きだ。
肛門壊れるのも解釈によっては楽しいかもしれない。私はウォシュレットが好きなのだ。