数日前から歯が痛い気がする。
この痛みを認めてしまうとさまざまな弊害が発生(たとえば歯医者に行くなど)してしまうので「気がする」としたが、痛いのは自明で、右側の上の歯、犬歯の隣の歯が明確に痛く、なにやら誤魔化しが効かないところまで来てしまった。
痛い。
歯が痛い。
噛むと痛い。噛めない。食べるとき痛い。神経に響く。
右側で咀嚼ができないので左側で噛み砕き、物がやわらかくなったら右側でちょっと噛んで様子をうかがう、前線の調査兵みたいな慎重を期した食事をする。「あ、痛」となれば即座に物を左側に移動させる。
私は無意識に右側をよく使っているようで、左側で意識的に咀嚼をするとうまく味わえず、全体的に食事が遅くなった。
うどんも噛めない。噛めるうどんはコシがない証だ。噛めないうどんはコシがあって美味いのだが、噛めないので美味しくない。
また、なにが原因かわからないが、軽い顎関節症も併発し、あごを大きく開けられなくなった。左側で食べるどころか顎を開けられないので、さらに口をすぼめて食べることに。私が一体なにをしたんだ。
より食事の速度は遅くなり、意識的に噛むので、食感そのものに関心が向く。れんこんはこんな楽しい食感なんだな、とか、鶏肉は部位によって歯に絡みつく肉の美味しさが違うんだな、とか、いつもとは違う視点で食事を楽しめる。
食事を楽しめる、と書いたが、口の中が痛いので、大して楽しんではいない。言葉の綾だ。
むしろゼリーとか豆腐とかあまり咀嚼せずに食べれるものの方が有難かった。
さらに、右頬の裏に巨大な口内炎がふたつ出現したので食事はいよいよ困難を極めた。
こうなったらもはや噛むという選択肢はなくなり、鳥のように物を飲み込むことでしか食事ができなくなってしまった。
食事の楽しみは「のど越し」になり、ここに来てうどんの「のど越し」が楽しくなってくる。つるつるのうどんが美味い。
鳥でもきっとうどんは美味しいと思うだろう。
そのように不便な日々を送っていたが、人間って環境に馴れる生き物で、だんだん鳥式食事法も「のど越し」味わい法も苦にならなくなってきた。
もともと食事ってこんなもんだったかもしれないな、と認識のすり替えも起こるまでになり、不便ではあるけど「もともとこういうもんだった」と思うことで苦労を苦労と認識しなくなったのである。
しかしながら、ある日突然起きた歯痛は、ある日突然消えることになる。
昨日気付いたのだが、歯がぜんぜん痛くなくなっていた。
ふつうに食事できるではないか。右側で咀嚼しても痛みはない。顎も動かせる。物を噛める。食感が楽しい。美味しい。嬉しい。
噛めるって素晴らしい。
いったいなにが原因だったのか不明だったが、とにかく痛みは消えた。これは「治った」と言ってもいいだろうか。
いや、治った、とは言えない気もしている。
『進行中の病魔が行き着くところまで行き、神経を破壊したので痛みを感じなくなった』のではないか?
このあとさらに恐ろしいことが起こるのではないか?(病魔が骨にまで及び顎が溶けてなくなるなど)
束の間の幸福は痛みを孕んでいるのかもしれない。
今回わかったのは、うどんは美味しいということだけだ。