蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

走愛性の生きもの

の話が好きだ。

愛って、つまりLOVEね。かたちとか金銭じゃなくて、魂みたいな、とらえどころが無いけれど誰もが感じられるもの。

誰もが、と書いたけど、もしかしたらこれを読んでいる人の中には愛を感じていない人がいるかもしれない。うまく愛を感じられないし、うまく愛情を表現できない人がいるかもしれない。

でも大丈夫だと思う。根拠はないけど。うまく言えないけど大丈夫だよ。おれ、そんなあなたのために歌ってもいい。そう思うんだ。

愛ってなんだよ、って話をするととても長くなるし、なんかそれって無粋だなって気もして、言葉にしちゃうと「愛」の持つ重力みたいなものがどんどんどんどん軽くなっていくみたいで、── 要するに愛ってそういうものだ。

 

愛の話が好きだ。

 

好きな愛の話は、あなたが心血を注いでいる趣味への愛情とか、推しへの愛とか、家族愛とか、動物との絆とか、そういう種類の愛の話だ。もちろん恋愛も好き。

誰かを想う、たとえば祈るとか愛情を抱いて涙すら流す、人間のそういう側面が好き。

 

『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』は愛の話だった。

いろんな人々の、いろんな人々に対する、想いの話。その結実=愛。最初に観終わったときも、2回目に観終わったときも、メタのレベルでもすべての愛につつまれて言葉にはできない感動があった。

愛の話じゃん、そう思った。

大好きな『チェンソーマン』も愛の話だ。

主人公:デンジはずっと愛されたくて、愛したくて、それは敵もずっと一緒で、世界を救うのはLOVEでした、って最後が泣けて泣けて泣けた。

ちょっと異常かもしれない愛のすがた。いい漫画だ。

先日観た『インターステラー』も愛の話で驚いた。

ちょっと難しくてわかんないくらい複雑なSF映画なんだけど、これはSFの枠を借りた愛の話だとわかってから話の筋をすんなり受け入れられた。

宇宙規模の、世界人類を巻き込んだ、超絶SFストーリー。でもその目的は「家族に会いたい」ただそれだけ。ただそれだけなんだけど、それ以上って無い。

歴史的な名画だと思う。

 

 

しかしながら、こうして書いちゃうとなんだか陳腐なものに見えてしまうのが「愛」のつらいところだ。

その原因は、この世の中に愛の話が多すぎるせいだ。人々は大昔から愛に群がっている。電燈に群がる蛾みたいに。走光性ならぬ、走愛性なのだ。

下手な恋愛芝居で量産される恋愛の話が多くて、さっきも言ったけど、愛の持つ重力が軽くなっているのだ。

私たちは愛の話が大好きで、コンテンツとして消費しまくっている。だから愛が軽くなって、いずれインフレして掃き捨てるものになってしまうだろう。

 

物語において私たちは、愛についてあまり大声で話したり、「これは大恋愛ストーリーです。愛の話です。泣けるんです。キュンとするんです」なんて言わない方が良い。

ただ演出と、セリフと、ひたむきな行動によって示すべきなのだ。