蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

げんじつとうひ

ぁ、気のせい、だとは思う。

考えすぎということもある。

一度それに気付いてから確認をせずに放っておいたところで事実は変わらないのだが、それでも一度「忘れる」ことで現実から目を背けて気を紛らわせる、といういわゆる現実逃避は誰しもあるだろう。

私の場合は現実逃避ではない。現実を認めたうえで「大丈夫だ」と自分に言い聞かせて心を保っているだけである。本当に大丈夫だから。

心理的にも肉体的にもどうということもないからこそ、気のせいだ、気のせいだ、と おまじないのように繰り返し言えるのである。

 

「異常」に気付いたのはつい最近のことだ。

それはひょんなことだったし、見方によっては常と変わらぬ些細な変化でもあったかもしれない。

それゆえに最初は、まぁ気のせいだろう、と軽く受け流せたのだが、日が経つにつれてしかし、軽く受け流せない場面もあったわけで、そうなると「気のせいだろう」という楽観は「気のせいなんだ。気のせいなんだからな」と次第に語調を強めていき、時には憤りも交えて、誰に言い聞かせるともなく「口答えをするな!!!」と怒鳴ったりもした。

どう見ても取り乱している。

思えばこの時点で私の「意識」は「認知」へ変わっていたのかもしれない。

 

それでもあえて言おう。

 

これは、気のせいに過ぎない。

 

被害妄想みたいなもので、思考が視界を歪めて目に見える現実を真から偽へ曲げてしまうのだ。人は枠にはまった思考回路や先入観により見えていてしかるべきものを見逃したり、見えないはずのものを見たりするのだ。聞こえない声を聞いたり、集中の向き先によって人の声が耳に入らなくもなる。

それと全く同じことだ。

あえて「気のせいではない」と悲劇を認知した気になって、実は現実とはそぐわないにもかかわらず歪んだ妄想で視界を歪めることで、正しい事実を認識できていないのだ。

ゆえに、本当の意味で、これは、気のせい、なのである。

 

悪い方に悪い方に考えをつめて、予防線を張って、卑下し憎み落胆することで、いざ現実を目の当たりにした時に大したことなかったんだと思えるように予防線を張っておく、ある意味でこれはそんな種類の現実逃避なのかもしれない。

 

気のせい。気のせいだ。実際、気のせいなのだから。

 

 

ここまで読み返してみると、さっきから事実を認めたり現実逃避したり気のせいだと言ったり認知してなかったり、論が滅茶苦茶な気がする。

明らかに取り乱している。

事実を認めたくなくて。

 

 

 

どんな事実かって?

 

いや、まだ事実と決まったわけじゃねーし。

気のせいなんだよな。

気のせいなんだよ。

絶対に、なにがあっても、気のせいに過ぎない。悲劇は見方を変えれば喜劇。誰かの笑顔の裏で誰かの悲しみがあるように。

そんなもんさ。

気のせいなんだ。

 

気のせいなんだよなぁ。

 

 

 

25歳にして髪の毛が薄くなってきたの、完全に気のせいなんだよな。

 

 

 

生え際が後退して自然に分け目ができちゃうのも、シャワー浴びた後になんか頭皮が透けてるのも、気のせいなんだよな。最近の違和感とか、そういうのじゃないから。決して。決してな。

昔からこんなもんだったよ。

親族に誰も禿頭はいないしね。あり得ない。

 

え?

現実逃避してないで現実の頭皮に目を向けろって?

 

かましい。くたばれゴミカス。

なんだおめぇ。喧嘩売るってのかおい。