蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

人は信じたいものを信じる

も100回言えば真実となる。

これはたしかナチスの高官が言い残した恐ろしい意味を孕んだ言葉だ。プロパガンダとか人種差別とか ねじ曲がった歴史の解釈も大声で堂々と言い続けていればいつしか民衆はそれを真実と思い込む、そういう意図のあった発言だった。

はたして私たち民衆はそれを嘘だと見抜くのは難しい。専門的な知識であればあるほど困難だろうし、ましてやそれを吹聴するのが一介の専門家だけではなく政府だったら、真実と思い込む人はより多くなるだろう。

という認識があるので、一部の人は政府の言うことをまったく信じずにトンデモ科学を信奉して「ワクチンを打つと皮膚がメタリックになる」みたいな別の嘘に染まる場合もあり、ちょっと考えればそんなの嘘だとわかるだろうと言いたくなるような嘘にまんまとハマっている。狂言かと疑いたくもなる。

どこもかしこも嘘まみれなので知識と思考力は大切だ。ただ問題を解くだけではなく、嘘を見抜ける思考力が。

そして結局のところ、人は信じたいものを信じ、それを真実と言っているだけなのかもしれない。だから真実と事実は異なる。

 

嘘をつき続ける、それが事実とは異なるとわかっていても、保身のために嘘を続ける、不断の意思で。

それは駄々をこねる子どもにも似た愚かな行いだ。

嘘をつき続けて最初に騙すのは嘘をついている自分自身だ。自分だけが事実とは異なるとわかっているにも関わらず、嘘を押し通すことで自分自身をまず洗脳して事実を見えなくする。

人は信じたいものを信じる。

周囲を騙すのも時間の問題だ。状況証拠が証言と一致しなければ、真実にはならなくても罪は軽くなるかもしれない。

事実を認めてしまったときが負けだ。だから嘘をつき続ける。祈りの言葉のように繰り返す。信じたいものを信じるために。

だんだん自分でもなにが本当だったのかわからなくもなるだろう。

人は信じたいものに対して盲目的になって、見えないものを見えると思い込み、見えているものを見えなくするのだから。

その段階からはたして嘘を認めて事実を明らかにするのは難しい。

 

池袋の母子轢き逃げ事件の実刑判決が下り、被告人が控訴するか注目が集まっている。

この事件の事実はわからないが、もしも嘘をついているのだとすれば、被告人もなにが真実なのかわからなくなっているのではないかと思った。

まったくふざけた解釈だけど、嘘をつくというのはそれだけ滑稽で非道な行いなのだ。

罪を認め贖罪をしてほしい。