蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

落語を聴いて

いきんよく落語を聴いている。

落語、と検索するだけでユーチューブにはいくらでも落語の動画が出てきて、公式に作品を出しているものも数多である。また、アマゾンミュージックにも噺家の名を入れれば作品集が出てくる。ありがたい時代だ。

昔──中高生の頃はウォークマンに落語のCDを入れて通学のお供にしていて、3枚のCDをそれこそ暗記するくらい聴いていた。

3枚しか聴いていないので落語マニアというわけではない。多読ならぬ多聴、その逆だ。一点集中してただそれだけを聴く。それ以外の落語を知らないみたいに。

 

とくに桂歌丸が好きだった。

声に色気があるというかどこか上品さがあって耳馴染みよく、話のテンポが速すぎず遅すぎないので聴き取りやすく、リズムの緩急が巧みでときにはしっとりとさせハラハラさせ、そして江戸弁が粋に心地よい。歌丸さんは横浜出身だが。

歌丸さんの演じる女性が好きだ。男の声(しかも嗄れた)であり、それは古い時代のステレオタイプ的な女性像ではあるのだけど(まぁ江戸時代だし)、氏の演技で私は確かに耳の向こうに女性がいると錯覚する。

そこには現実に則したリアリティがあるのではなく、虚構としてのリアリティが質感をもって存在するのだ。それが「声」だけで。

 

噺家によって得意とするところは異なり、名前は忘れたけどやたらと食べる演技が上手い人がいた。本当に鍋のものを食べているのかと画面を覗いたら扇子で腕を動かしていただけだった。

自分でもできそうだとちょっとやってみると、これが破裂した下水溝みたいな音になる。逆に、破裂した下水溝の音の真似はできるということになるが、それがどうしたというのか。

噺家の演技力はすごい。高座の座布団一枚のうえに世界が広がる。

 

ふと落語的なこととはなんだろうかと考える。

落語はさも江戸時代の日常から切り取られたもののようであるが、なかなか上手いことオチのつく物事なんて無いのは今も昔も変わらないだろう。あってもひどく稀だったり、オチが弱かったりするものだ。

やはりそこにあるのは虚構のリアリティである。虚構でしか語りえない現実のようなものだ。うまく言葉にできないのがもどかしい。

不勉強なので知らないのだが、令和を舞台にした落語はないのだろうか?新作の落語でも江戸時代を舞台に作られたものが多いのはなぜだろう?

その理由は、江戸の舞台を借りなければ語ることのできない虚構としてのリアリティがあるからなのではないか。たとえばそれは、ファンタジー作品を描くときについ中世・近代ヨーロッパを舞台に選択してしまうことに似ている。

落語的なことは現実では起こりにくく、また虚構に入るために現代とはそこそこ離れた江戸の舞台を選択した方が話を作りやすいのかもしれない。

 

いろいろと勉強になる落語だが、なによりも「面白い」のがいちばん優れている点だ。そのうち寄席なんか行ってみたい。