蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

笑って死ぬためにスキレットを買う

キレットって贅沢品じゃん。

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鉄製の小さいフライパンみたいなやつで、やたらと重いのが特徴だ。

一般的なフライパンでできることをわざわざスキレットでやるために存在している。

雑貨屋によく売っていて、見かけるたびに手に取ってはこんな重いもンどこのオシャレ気取った鼻スカシが使うンだべらぼうめ、ふざけンじゃねぇや、と江戸っ子風に罵っていたのだけど、今思えばあれは嫉妬だったんだな。

スキレットが欲しい。

 

スキレットジャーマンポテトを食べたい。

スキレットで焼カレーをやりたい。

スキレットでスパゲティを食べたい。

スキレットでフレンチトーストを焼きたい。

スキレットで鴨肉などを焼きたい。

 

スキレットが食卓にあるだけでなんだか特別な感じがするだろうな、と夢を見てる。

「アウトドア感」があると思うんだよな。「アウトドア感」はイコール「楽しげ」だから間違いないと思うんだよな。

また、目玉焼きとベーコンなんて朝食の定番だけど、こういった刺激の少ないもの(「日常」の光景すぎてもはや刺激を求めるべきではないのかもしれない)もスキレットで出せばほら、特別感が出るでしょう。

スキレットがあれば面白いだろうな。

 

でもスキレットって、根源的には不要なんだ。なぜならフライパンでできることだから。

だから「贅沢品」なのだ。たぶん戦時中だったら金属の接収で即時没収されただろう。そして銃弾に変えられただろう。それが誰かの眉間を貫いただろう。スキレットはそういうやつだ。

 

エンターテイメントは本来不要なものである。

経済的・文化的な豊かさの余剰によって初めて生まれる営みがエンターテイメントなのだ。文芸や学問も生物が生存するうえでは本来不要なので、語弊はあるがエンタメの一種と言えるだろう。

スキレットもこれとまったく同じ文脈に存在する。

フライパンがあれば事足りることをスキレットでやる意味がない。焼くという行為に限ればフライパンがあれば十分なのだ。

 

だが裏を返せば、スキレットの存在はエンタメでありつまりは「豊かさ」なのである。

 

もう少しで誕生日なので、プレゼントはスキレットとバターを入れるケースをねだろうと思っている。あと同じ感じで小さめの出刃包丁も欲しい。生活の質向上のために欲しいものが次から次へ出てくる。

あればいいだろうな、と思うものはあったほうが良いに決まっているじゃないか。

なにが贅沢品だ。

こういう細かいところで人生の価値は変わってくるんだよ。投資だよ。最期に笑って死ぬための布石だよ。

私は悔いなく笑って死ぬために、スキレットを買う必要がある。