蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

反、について考える

ワクチンの人たちを説得するにはどうすればいいのだろう、と考えたときにまずはジェンナーの種痘法からはじまるワクチンの歴史から解説した方がいいのだろうけどこちとら世界史の教科書で暗記した程度の知識だからあやふやな説明こそすべきではないし、かといって「自分にとって都合の良い知識だけを信じるな。個人医院の先生の言うことやたまたま尊敬している人の言うこと「だけ」ではなく、政府や専門機関が公式に発表している情報も併せて複合的に知識を得、そのうえで自分で考えるべきだ」と説得しようにも私のその意見こそ「自分にとって都合の良い」ことでしょうと反論されそうで、そうなったらもう何も言えなくなるのでいつもそこで思考が止まる。

結局個人の好きにしたらいい。

ただ主張を押し付けるのは違うというだけで。

ワクチンを接種して社会貢献、という意見もなんだか違う気がするし、誰かの命がどうなろうが知ったことではないので好きにすればいい。

たとえば家族に反ワクチン論者がいたとして、その人は本当にワクチンが人間や環境に悪影響を与えていると信じていて家族を守りたいがために主張を押し通して怪しい商材に手を伸ばしたりするのでそこに悪意はないのだが、その商材を売りつけ反ワクチン論を広めている人、さらにはそれを裏で仕組んでいる人は詐欺まがいの金儲けを企み悪意を存分に含んでいるのだから、それに踊らされている反ワクチン論者の話を聞いているといたたまれなくなる。

騙されてますよ、と。

 

反ワクチン論者を揶揄するツイートが流れてくる。

そのリプライにぶら下がっているコメントのうちには「反ワクチンは絶対的な惡だからいくらでも叩いて良い」みたいな文脈を含んだコメントも散見されて心苦しくなる。

反「反ワクチン」の人たちがそこにはいる。

私だって反ワクチンはどうかと思うけど、だからと言って「叩いて良い。なぜなら自分は正義だから」という立場を振りかざしてネット上で袋叩きにするのもどうなのだろう。

自分の主張を正義と信じて疑わず刃を振り回すという点において、双方のやり方に違いはないように思われる。

そこには正義も悪もなく、誰だって人権を否定するような言葉を向けてはいけないし、自分の主張を客観的になれずに押し付けていいものではないのだ。

 

そういうのを見ると、自分は反「反「反ワクチン」」であると認識する。

反「反「反ワクチン」」は反ワクチン論者を揶揄する反「反ワクチン」論客の理不尽な物言いに抵抗感を覚える立場として反「反「反ワクチン」」であることを認知する。

だが反「反「反ワクチン」」は、結局のところ傍観者になってしまい自己主張を持たず思考停止するパターンも多く、それに異を唱えるのが反「反「反「反ワクチン」」」を掲げる人々だ。

見にくいですね。

 

「「「反反反反ワクチン」」」」

反反反反「「「ワクチン」」」

反4ワクチン「「「」」」

反ワクチンワクチンワクチンワクチン「「「」」」

 

 

私たちは冷静になるべきだし、強くなければならない。

知識を得るだけではなく、考えなければならない。