蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

その一票は決して無力ではない

挙に行こう。

私が子どもの頃から投票率は下がり続けていたが、まだまだ下がるらしい。下がれる余力を残しているらしい。

子どもの頃、私の周りの大人たちは誰も選挙に行っていなかったのでそれが普通だと思思い込んでいた。そういった環境のせいで学校で選挙とは何かを学んでも、民主主義の苦難の歴史を知っても、投票することがいかに大事なことかを聞いてもあまりピンとこなくて、なんなら選挙に行く人はお堅い人なんだろうな~ちょっと仲良くできそうにないな~と思っていた。

でもそれは明確な間違いである。

私と妹はそのことに自分たちで気付けて、親が投票に行かなくても自分たちは行くようになった。

ぶっちゃけ政治って難しくてよくわからないので、目先の利益だったり、将来自分が得をしそうな候補者に投票する。それで自分がいつか豊かになったりする見込みも薄いのだけど、少なくとも意思表示はできているだろう。それでいい。

投票に行かない親たちも「難しくてよくわからない」と言う。

そして「どうせ投票してもこの国は何も変わらない。いつもわたしたちが割を食う」と言う。

実際そうだったのだと思う。環境を変えようと動くたびに電流を流された犬が諦めてそのうちになにもしなくなりうずくまってひたすらに電流を浴び続けるように、無力感に苛まれていつしか行動を起こさなくなったのだろう。

とくに平成不況を真っ向から受けた世代には同情できる。

同情できるけど、次の世代からしたらその態度はなんて責任感が無いのだろうと思う。

 

今の日本を作ったのは親たちの世代で、その人たちの選んだ、あるいは選ばなかった政治家たちで、はっきり言ってこの国はどうだろう。

私は自分の下の世代の子達らに失望されたくない、というのもあるけどそれは責任感とはまた違う動機で偽善にも似た感情で、私はしっかり投票に参加して、自分なりに考えて、それでこの国がうまいこといかないのならそれでもいいとさえ考えていて、ただ傍観するのではなく、ちゃんと参加してちゃんと希望をもって、それでだめならきっちり絶望したいのだ。

選挙に参加しているからこそ政治に文句を言いたいし、主張したい。叫びたい。

投票用紙を手にしていつも思う。一票は微々たる力で、あまりにも無力に感じる。

だけど私はこの一票に託すしかない。

投じなければ微々たる力すら発生しないのだ、と。

無力に感じても、決してそこに力がないわけではないのだと信じたい。