蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

食器棚を買う人

日ついに食器棚を買った。
食器棚を買ったことで、食器を買うことができるようになった。同棲をはじめてから1年4ヵ月が過ぎようとしていた。

これまでよく使う皿類はシンクの上に設置された網棚に置き、あまり使わないものはキッチン台の空いてるスペースや棚の隙間などに入れていたのだが、食器棚を買ったこれからはしかるべき場所にちゃんと入れることができる。

我が家にはずっと食器棚が無かった。それは惨めな生活だった。

 

友だちの家に行ったときに食器棚があって、え、やっぱりあるんだな、と驚いた記憶は新しい。

「リサイクルショップで安かったんだけどね」と友人は言った。

高さがあって、扉がついていて、食器を入れることに自分の存在を見出している立派な食器棚だった。食器棚があるというだけで「豊かさ」のようなものを演出できていたのである。

正直言って、ナメていた。

二人暮らしにもかかわらず我が家には無かった。

そのことが少しずつ負い目になってきたのか、置き場所もなく放置されている皿を見るにつけて、情けない人生だと思うようになった。おれは食器をしかるべき場所にしかるべきかたちで収納することもできない人生なのか。

それに加えて、私たちは皿が好きで出先でよく雑貨屋などを見て回るのだけど、その際にも結局「収納スペースがない」という理由で買うのを諦めていたのである。

たったそれだけの、しかしどうしようもない理由で。

なにがいい人生だ。好きな皿を買えないでなにが豊かな人生だ。

惨めで悔しかった。食器棚の必要性は危急であった。

 

じゃあ食器棚を買えばいいではないか、と思われるだろう。

だが、我が家にはあいにくそのスペースもなかったのである。

 

彼女とさまざまな議論を交わした。

とき口論は激しくなり、ため息交じりに「食器棚は諦めよう」「もうこの部屋を引っ越すしかない」「死ぬしかない」みたいな結論に達してうちひしがれ、放置された皿たちを睨みつけることもあった。

食器棚を設置するにはダイニングの家具をどれか移動しなければならないのだ。

本棚を移動する場合はリビングに移動することになるが、そうだとするとリビングの私のベッドは彼女の部屋に運び込まねばならない。ぎりぎり入らないこともないが、彼女の部屋の安いドレッサーは破棄せねばならない。それに彼女の部屋がなくなる(私の部屋はもともと無い)。

あるいは200冊あまりを収納している本棚を捨て、本も捨て、食器棚を設置するか。ギターなんかも置くところが無いので手放すか。冷蔵庫を捨てるか。キッチン台を捨てるか。

こんなことでは喧嘩になってもしょうがないというものだ。

 

結局いろいろあったものの、家具の角度やラックの変更やスペースの微調整により、小さめの食器棚ならなんとか入ることがわかった。

試行錯誤の末、繰り返したシミュレーションと計測の末、度重なる口論の果て、であった。

入ると言ってもかなり微妙なところで、たとえるなら電車の席のわずかに空いたスペースにオバハンが巨尻を押し込んで無理矢理座ろうとしているようなものだ。

「理論上は食器棚を設置できる」

だがその理論があれば良いわけで、早速小さめの食器棚を取り寄せた。何度も言うが食器棚の有無は危急存亡の秋であった。

注文から二週間後、それは休日の午前中にやって来た。

組み立ては簡単で、引っ越しの際にいくつも組み立てか経験から言うと楽勝、ビートルズの『リボルバー』を聴いているうちに終えられた。

 

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リボルバー』(1966)

 

理論上可能とされたスペースにもぴったし入り、二次的な効果としてダイニングの空間も広めに拡張されて、すべてがうまくいった。

放置されていた皿やカップやグラスがしかるべき部場所に吸い込まれるように収納され、全体的にすっきりした。随意に収納できる。皿を入れながら笑ってしまった。

こうあるべきなのだ。こうあるべきだったのだ。

 

まだまだ入れられるので、こんどの休みにでも気に入った食器を買いに行こうと思っている。食器の充実は食卓の充実に直結する。

すべては豊かな人生のために。