蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

あなたも誰かの「縁起がいい人」

所のいちばんよく行くスーパーのパンコーナーは充実している。カレーパンとか あんぱんとかメロンパンなんかがスタンダードだけど平均点を超えてくるシロモノに仕上がっているため、夜の値引きを狙ってよく物色している。

美味しさの秘密は何かというと奥に工房があってそこでちゃんと焼成してるんですね、だから出来たてで美味しいし、なんか、人間の温もりみたいな味すら感じられる。値引きされる頃には冷めきっているのだけど、それでも美味しい。手作り感があるから。

もうひとつある近所のスーパーのパンはいかにも東京中央にある巨大パン工場で工場的に生産されました、って顔して並んでいて、むろん、機械的な味がする。そこに温もりは無く、イースト菌たちが整然と醗酵して、どこか自信なさげだ。美味しくもないけど不味くもないし腹は満たせるけど心は満たせませんよって卑下を含んだ情けない自尊心がパンコーナーそのものに現れている。

よく行く方のスーパーのパンコーナーと比べたら、もうひとつのスーパーが自己卑下するのも仕方がないだろう。

 

その、私がよく行く方のスーパーのレジに、ひそかに私が縁起を担いでいる人がいる。

年のころは三十代前半と見られる女性で、マスクをしているので素顔はわからないものの、声の小ささからして小心者には違いなく、たとえばTIKTOKをやっているタイプには見えない。(もちろんTIKTOKは誰がやってもいい)

愛想はどちらかといえば悪い方で、客を値引きされた腐りかけのイカ程度にしか見ていない。そんな目つきをしている。

しかしこの無愛想な店員がなぜ縁起が良いのかというと、彼女は、私がこの街に引っ越して初めてこのスーパーに来たときにレジを担当してくれた方なのである。

当時、彼女の名札には「研修中」のシールが貼ってあって、私と同じく新参者だったことから、なんとなく勝手に親近感を覚えた。

そうか、この街に新しいのはなにも私だけではないのだ。

この人だって初めてのレジなのだ、と。

以来、引っ越した当時に思いを馳せたいがために彼女のレジに並んでいる。店員からしたらはた迷惑な話と思われるだろうが、なにもスキャンを通すたびに柏手を打つわけでもないし声をかけたことも無いので、せいぜい「こいつよく来るな」程度の客と認識されているだろう。

「値引きパン太郎」

そんなあだ名で馬鹿にされていてもおかしくない。

 

だが、縁起が良くなったのはこれだけが原因ではない。ここまではただのシンパシーを勝手に抱いた店員でしかない。

当初はスーパーに行けば彼女がレジスターに拘束されていたのだが、ここ数か月、とんと姿を見なくなったのである。シフトを減らされたのかもしれない。

彼女が「縁起物」になったのは、ここ最近シフトを減らされてからだ。

他の店員と違ってそもそも特別な存在だったうえに、遭遇率が下がったことでレア度が増して、私の中でそのぶんありがたい(有難い)存在になったのである。

たまに、稀に、レジにぬぼーっと立っている姿を見かけると嬉しくなる。

あなたもまだこの街に生きているのですね。

そんな親近感を覚える。

彼女に商品をスキャンしてもらって金額を提示され、それでなにか私の生活に花がもたらされたことは今まで一度もないし、きっとこれからもないだろう。

ただただ、よかった、と思うだけのかすかな縁起なのだ。

生活の幸せってそういう小さな縁起のエネルギーに支えられているから、これでいいと思う。生活に花はなくとも、それだけが豊かさではないのだ。

彼女は私のなかでひそかに、縁起の良いお守りになっている。

 

 

と、ちょっといいかんじの話でまとめようとしたけど、よくよく考えないまでも全然知らない人に自分が縁起を担がれていたとして、それはひじょうに気味の悪いことに思えてきた。

怖い。

もしも私が通りすがりの誰かに「アイツを見ると一日が健やかになるんだ」などとひそかにブログなどに書かれ、誰かの中でイメージの「私」が所有されていると思うと、こりゃ縁起でもないと我ながら噴飯の他ない。

 

噴パンの他ない。