冬季オリンピックが盛り上がっている。
選手たちの活躍は格好良いし、どのスポーツもわからないなりにも面白さはあって、メダルが懸かっている場面では手に汗を握る。冬のスポーツは「芸術点」をはかる競技も多くて見どころ満載だ。
メダルが獲れたら感動して涙を流し、残念な結果に終わったら落胆するも健闘を称える。選手の悔し涙につられて泣くこともしばしば。スポーツの興奮は厳然たるリアリティであり、押し寄せる感動はなににも代えがたい。
ただ私は、これでいいのか、とも思う。
観戦しながら罪悪感のようなものがある。
「ぼくには、選手たちを讃える権利なんてないんじゃないか」と胸に不安を覚える。
というのも、夏の大会でもそうだったけど、普段はスポーツ観戦を一切しないうえにスポーツニュースにも関心がないため、誰がどの選手でいったいなんなのかまったくわからないまま、オリンピックの映像だけを──しかも決勝戦の「メダルが懸かった場面」だけを──見て、感動して涙を流したり手を震わせたり日本国民であることを誇りにすら思っているのである。
端的に申し上げるが「感動を消費」しているのだ。
与えられた「感動の供給」を最小限摂取して消費しているのだ、こいつは。
みんなもそうなのかな?
それにしても私の観戦姿勢は誠意がないものだ。
カーリングだって試合が長いので、最終エンドになったらようやくチャンネルを合わせるくらいで、できればパッと終わってほしいと思ってる。他の種目にしたって選手が多いので日本人の出番が遅い。みんなすごいけど。なので、あまり好んで見れず、時間を置いて終盤の結果が決まるところだけを見ている。
だから試合後に「序盤と中盤は苦しい展開でしたが、よく耐え抜いてくれました」とか「予選の不調がまるで嘘のような試合でした」とか言われると自分だけハブられてるみたいで気分が悪い。「知らないよ」と愚痴をこぼしたくなる。「あーあ最初から観ておけば感動もさらにひとしおだったんだろうな」と毎回後悔している。
でもそんな後悔と愚痴も烏滸がましいものだ。この男はなにも言い返せないしなにも言う資格がない。
私はスポーツ観戦をしたいのではなく「感動したいだけの人」なのだ。
スポーツでしか味わえない感動を啜りたいだけのヒルにも等しい存在なのだ。
感動の瞬間に立ち会いたい!
それだけ。
こんな奴にはオリンピックを見る資格なんてないと吐き捨てられても、甘んじて言葉を受け止めるしかない。
ここまで書いてみて確信した。ダメだこいつは。
スポーツだけにとどまらず、感動して涙を流したいと常に思っているので、YouTubeでそれ系の泣ける動画を漁り見ている。
「東京ガス CM 感動」とか「AC CM 感動」とか「犬 泣ける」とか「海外 CM 感動」とか調べては布団の中で丸くなっておいおい泣いている。
情報検索を駆使して供給された感動を喰い漁り、ただ自分の心を整えるためだけに涙を流してすっきりした気持ちになって、感動マスターベーションを繰り返す。
おれは、ちょっと、やばいのかもしれない。
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話は全然変わるけど、この記事で1000本目らしい。
1000回もずっと同じようなことを書き続けているのもすごいけど、1000本も同じような記事を読んでくださった皆さんもすごい。
いつもありがとうございます。
めざせ1万記事!そのときは一緒に涙を流してくれよなっ!