観覧車ってあれだけ大きいのにすごくゆっくり動くばかりか、乗り物の中でもおそらく最も静かで、ただ空をかすめて10分くらいで元の場所に戻ってくるという、よく考えたら不思議な乗り物だ。
私たちは観覧車に乗ったところでどこにも行けないし、乗ればわかるけど、想像を超えてくるような感動は無い。思っていたよりエモいものではない。それは一種のシンボルとして存在を許されていると言っても過言ではない。
遠くまで見渡せる時間は限られており、その頂点にいられる時間は長くても10秒ほどだ。いったいなにがしたいんだか。
われわれはなぜ観覧車に乗るか?
『ハチミツとクローバー』という漫画で好きなセリフがある。
”観覧車は 好きな人と 空を横切るための乗り物”
そのようなモノローグだったと思う。(ハチクロ、実家に置いてきちゃったんだよな。好きな漫画だからもう少し大きな部屋に引っ越したら絶対に引き上げてこよう。3月のライオンもね)
観覧車は恋人としか乗ったことがない。
好きな人と空を横切るのは悪い気がしないもんだと、乗るたびに思う。ゴンドラという呼び名もいい。メルヘンチックで、空と一体化するにはうってつけの名前だ。
移動手段に関しては「ゴンドラ」を利用したいと常々考えているくらい、実は私はゴンドラが好きである。ゴンドラに乗って出社できれば、なんとなく可愛らしくて楽しくなるだろうと夢を抱いている。
ゴンドラに乗る自分が好きだ。
観覧車もその拡張で、観覧車に乗っている自分を好きになれるのかもしれない。
最近はゴンドラの中にタブレット端末が搭載されていて、景色の解説をしたり、園内の施設紹介を流していたり、歌を歌ってくれたりするものも見かけるが、あれはよくない。
「そうですよ、わたくしは退屈なアトラクションですよ」と認めているように見えかねないではないか。
「どうぞ、お暇な時間はタブレットで潰してくださいましね」と言わんばかりではないか。
あれはよくないね。
その退屈さこそが観覧車の醍醐味なんじゃないか。
空を横切るなにもない退屈な時間を過ごすことが目的なのだ。あの風の音と鉄骨の軋みを聞く時間なのだ。想像を超えてこない景色をぼーっと眺めて時間の流れを楽しむのが目的なのだ。
その貴重な時間を、潰すだなんて。
平和な時代だからこそ、豊かな時代だからこそ、観覧車は存在できる。
現代人に観覧車は高尚すぎるのかもしれないな。
観覧車はもっと堂々としていなさい。観覧車然としてなによりも大らかに時間の流れを感じていなさい。
ただただ、空を横切るための乗り物でありなさい。