蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

言葉が自分のものになるとき

葉、言葉、と簡単に言うけど、言葉は自分のものにならないと使えない。

感覚的な話になってしまって申し訳ない。論理と合理を求める拙ブログにおいて。

「言葉が自分のものになる感覚」ってあると思いませんか?

あるんですよ。

なんだろう、単語の意味を知っているだけじゃ自分の言葉にはならなくて、その言葉の孕んでいる概念というか、背景?、観念、そういったものを頭ではなく心で理解できたときにその言葉が自分のものになる衝撃が走る。

それは稲妻のように劇的なときもあるし、静電気のようにわずかな刺激のときもある。自分でも気づかないうちに言葉が我が物になっているときもある。

言葉はそのようにして自分のものにならないとうまく使いこなせない。

 

たとえば、ってたとえを出すのが難しい話。

そうですね。少し昔の話をしましょうか。それは小生が幼稚園児だった頃の話です。

小生はハサミで厚紙をギコギコ切っていたのだが、これがぜんぜんうまくいかなくて、それを見かねた仲の良かった子が「はさみは ねもとンとこつかったほうが きれる可能性が高いよ」と言ったのです。

「可能性が高い」

この言葉の響きを耳にしたとき「あ、おとなの、ことばだ」と思った。これがなんだかすごく衝撃的でいまだに覚えている。

「可能性が高い」とそこだけ漢字で言われた気がした。この人はこの言葉の意味を完璧に理解していて、偶然性や意図性にたよらず、ごく自然に、まるで自分の体の内からポッとでてきたかのような滑らかさで、この言葉を使ったのだ。そう思った。そう思ったと言っても当時からこのように言語化できていたわけではなく、ただそのような感覚を覚えたのである。今もまだ残っている。

言葉が人のものになる感覚。人の精神と深く結びついている感覚。

これは他人の例だけども「言葉が自分のものになっていて、言葉を使いこなしている」のを実感できた出来事だった。

 

言葉が自分のものになると、その言葉はしかるべきときに体の内からするりと出てくる。自分と深く結びついてまるで自分の精神の抽象を完璧に言語化できたかのようになる。

あまり使い慣れていない言葉、初めて使う言葉はわざわざ意識しないと出てこない。

こうして言葉が自分のものになっているかなっていないか、それがその人の紡ぐ文章の個性を出す一因になっている。のではないか。

自分にとって出てきやすい言葉、出にくい言葉、偏りが生まれる。『ハンター×ハンター』でネテロが百式観音の繰り出す技にかすかな偏りがあったように、言葉遣いにも必ず偏りがある。

そこに個性が現れるのだとも思う。

だから、文章を書きたい人はできるだけ言葉に馴染んだ方がいいのだね。本だけに囚われず、漫画なり映画なり落語なり劇なり。たくさんの言葉に触れた方がいい。

言葉は人間が持ちうる中で最高のツールなのだ。