くどうれいん さんの『わたしを空腹にしないほうがいい』を読んだ。
休みの日に読むにはうってつけのエッセイ集だった。
くどうれいん さんの作品を読むのは『氷柱の声』以来で、その小説はかなり気に入ってる。2作目に読んだ今回のエッセイもだいぶ気に入った。作品が気に入ったというのもあるけど、いよいよ作者のことを好きになった。
良い文章って、なんだかとても素直で、文章の向こうにいる筆者が見えてくるんだよな。句読点とかメタファーの陰に作者が浮かんでくる。
それで、読み終わった頃にはもう友だちになったような気持ちになる。次も読もう。こうなったらその作者の作品に裏切られることなんてない。この作者を馬鹿にする輩はお見舞いしてやる。そう思う。
本作は、筆者が一人暮らしを始めたなかで料理をしたりご飯を食べたり食べなかったりするエッセイ集だ。料理についてどんな思い出があるのか、どんなシチュエーションで食べたのか(あるいは食べたいか)、ユーモアを交えて率直な文体で書かれている。タイトルはすべて俳句になっていて、それと合せて味わい深い。
筆者本人が書いていていちばん楽しんでいるな、と思う。そういう文章は読んでいる人も楽しい。
改めて自分がどれだけ書くことと料理をすることに救われているのかわかっておどろく。ワードに向かってキーボードを打つと、胸が高鳴る。ガスコンロに火をつけると、こころもめらめらと燃える。指を動かすごとに、菜箸を動かすごとに、自分自身が救われていく。(くどうれいん『わたしを空腹にしないほうがいい』p50)
とても共感を覚えた一節を引用する。
書くことと料理をすることでしか救われない部分がある。スタバのフラペチーノでしか救われない部分や子ヤギの動画でしか救われない部分があるように。
私は料理が好きだ。それはたぶん、丁寧に工程を重ねていくことでできあがった御馳走が、これから食べる私を幸福にするとわかっているからだ。料理はちょっと先の未来の自分への慈しみなのだ。
そして、包丁の一切れ、塩の一振り、ガスコンロの一度、それらの積み重ねによって出来上がる、目に見え匂いがして味のある料理という成果物に達成感を覚え、皿の温もりに自分を取り戻すのだ。
日曜の夕方、仕事が怖くなって、急いで冷蔵庫を漁った。なにか料理をしなきゃと思った。
豚ひき肉20%引きが息を潜めていたのを見逃さない。ハンバーグにする。本来合いびき肉がいいのだけど、豚ひきでも充分作れる。玉ねぎもある。
干からびかけた人参をすりつぶして肉に混ぜる。こんなのやったことないのだが、干からびてこのまま朽ちるのが憐れだった。きっと大丈夫だろう。
捏ね、形を整え、焼く。
すばらしい手際で8個のハンバーグができた。
これはすぐには食べないで、明日からの、平日の夜に、食べる。
「家に帰ったらハンバーグがある」と思うだけで乗り切れる一日がある。そういう種類の救いについては聖書には書いてないらしい。もちろん聖書を読んだことはない。
料理をして救われた私は、続いてブログも書きはじめる。
日曜の夜を越えるにはまだもう少し救いが必要みたいで、出来上がった文章がどうというよりも、ただ楽しんで書くその行為自体に救いがあると知っている。