蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

映画館という名の宇宙船

画を見に行った。

マルケータ・ラザロヴァー』という50年くらい前のチェコ映画。どこでこの映画を知ったのか覚えていないけど、ずっと前から見ようと思ってた。

marketalazarovajp.com

3月か4月くらいに、7月から日本で上映すると情報を得て、7月なんてずっと先だし7月ごろには転職先も決まっていると良いな、っていうか7月までにこれからどんな苦難が待ち受けてるんだろうななんて受難を憂いていたけれど、あっという間に7月になったし転職もなんとかなった。そして私は映画を見に行った。

 

ここ最近、映画はもっぱらアマプラで見ていた。

退屈だったらスマホをいじりながら流し見ができるし、飲食は自由だし、途中で止めてトイレに行くこともできるし、どんな姿勢で見ても怒られない。これが現代の映画鑑賞である。

しかし久しぶりに映画館に行って、そういった自由な態度では見られないもののやはり映画館は映画を見るのに適した場所であると再認識した。

なんていうか、没入感が、他とは違う。

劇場が暗くなりスクリーンが暗闇の中で動いて画面の大きさを変えるあの静かな音、全員が耳を澄ませて呼吸すらも気を遣うような雰囲気、パッと明るくなって映し出されるまだ知らない物語の世界。

ロケットに乗って宇宙空間に出たときのような高揚感。

物語は宇宙だ。

スクリーンに映し出された光景はどこにも存在せず、しかしスクリーンの中にだけ存在している、物語と言う名の宇宙。誰かの頭の中ではじけて、膨張し、映し出された、そこだけにしかない別次元の世界。

その物語の中をすすんでいく映画館はさながら宇宙船だ。

私たちはこれから物語の宇宙へ突入するのだ。

映画が始まる前のあの暗闇だけがそういう気分にさせてくれる。

 

マルケータ・ラザロヴァー』のあらすじは先に載せたリンクから見てほしい。中世ボスニアを舞台にした、信仰と戦争と恋の物語、と書けばだいたい合っているんだけどこの作品の要諦を捉えてはいない。

映像美であり、音楽作品であり、舞台芸術と演出が見どころだった。

私の頭脳が明晰ではないことが大いに原因なのだけど、正直ストーリーを追うのが大変ではあった。なんか男たちが似たような見た目ですぐに名前を覚えられなかったし、セリフが画面外から入ることも多くて誰が喋っているのかわからないからなにが起こっているのかもあまりよくわからなかった。

なにかが起こると、???、となりつつも、とにかくいまは主人公が凌辱されているなとか、なんか打ち上げをやっているなとか、画面上の「事実」として頭に入って来て、それでなんとか話についていくかんじだった。

たぶんアマプラで見てたら途中でやめてたと思う。

だけど、映画館だから最後まで見れた。

それはひとえに大きい画面で圧倒的に迫って来る映像のハッとするような美しさや、大きな音で臓器を揺さぶる音楽を映画館ならではの没入感が気付かせてくれたからだ。

 

餅は餅屋。映画は映画館。

当たり前のことで申し訳ないのだけど、映画館は映画を楽しむためにある空間なんだと思ったのだった。