蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

西瓜ディストピア

西瓜の季節だけどここ2年はほとんど口にしていない。妻が嫌っているからだ。

妻が嫌っているからだとなんとも人のせいらしく書いたけど、私自身、西瓜に対する思い入れがほとんどく、食べなくていいならたぶん一生食べないとまで言えるほど愛情がないので、西瓜を食べていないのは熱意のない私に多分の責任がある。

西瓜は水菓とも書くように(そうか?)、水分が豊富である。そして同じくらい種も豊富だ。

あの種、なんとかならんのかと傍目に見ていても思いますね。あまりにも過剰演出、目を背けたい。

たとえばバナナは野生では本来種まみれの醜悪な果物だが、人工的な改良により味も種も克服した。よく見ると小さい種が食感もないほどに並んでいるのが見える。

西瓜も種を克服したほうがいい。

と言って種無し西瓜を提案されたけどそういうことじゃない。

種無し西瓜……種が全くないというのもなんかな、西瓜のアイデンティティを反故にしているみたいで気まずいんだよな。

なんていうか、種無し西瓜には情緒がない。

西瓜ってあの種を除けたり皿に出したりするのも含めて西瓜であってそれこそが夏の風物詩たるユエン、西瓜の絵を描くとして種を描写しなかったらそれ西瓜ですか?っつー話。あの種も含めて夏の風景なのだ。

種は醜悪で煩わしいけど同時に情緒も併存させている厄介な存在である。

だから、種を残しつつ、種を克服せねばならないと私は提言する。

 

だが、そのようなかたちで種を克服した西瓜がひとつだけある。

イカバー、である。

これを私はよく好んで食べる。

種も美味しいし、むしろ種が美味しいし、安価だし、切る手間がないし、冷たいし、実際の西瓜よりも甘い。水分量もリアル西瓜より多い。

こう列挙すると西瓜はスイカバーに立つ瀬もないようだけど、おっしゃる通り、スイカバーを前にして西瓜に立場はない。

イカバーは夏にしか売ってないというのも完全に夏の風物詩を狙ってのことで、あと10年もすれば歳時記にも掲載されるだろうし逆に西瓜は姿を消すかもしれない。

10年後の子どもたちは本物の西瓜を知らずスイカバーに舐めまとわる。カブトムシのように。

「若者は魚の切身が海を泳いでると思ってる」なんてジョークと同じノリで「子どもはスイカバーが畑で採れると思ってる」なんて嘲笑われるんだろうな。

そんな未来嫌だな。

 

私みたいな西瓜とスイカバーを同列に扱う大人が増えませんように。

未来を守れ。西瓜の種を克服せよ。