ふと死後のことを思って、結局人は死んだらどうなるのか、その答えが出てないのはすごいことだと不思議な気持ちになる。
誰もが経験することなのに、誰も経験したことがない。
歴史上のどんな偉人だって最期は、歴史に登場しない貧乏な農民と同じ結論に達している。
死、その身の、生命の、消滅、という結論。
どうせ死んだことなくて死後の世界なんてわからんのだから、天国はあって然るべきものだと結論付けてしまおう。
仮定じゃなくて、天国は必ずあるものだと思い込んで信じた方がいいに決まってる。我々にとっては生きている現在が大切であり、死後のことを思えるのも生きているうちだけなのだから、死後の世界を思うのも自由であるべきだ。
私の天国には穏やかな風が吹いていて、湿気はなく、からりと晴れている。
死んでしまった犬たちが先に天国で楽しく暮らしていて、私に飛び込んで迎えてくれる。小さな川が流れていて小さな魚が泳いでいる。草の香りがしてどの葉も柔らかく茂り、棘とか毒はない。
私は犬の散歩をするだろう。犬の散歩がどれだけ私の心を整えていたか、犬を喪ってから知ったので、存分に散歩するつもりだ。
犬たちは若い頃の姿で、もう癌に犯されて苦しんでいないし、腰もすっかり治って短いしっぽを振って元気に跳ね回っている。犬たちの好きなフルーツや肉が小さな家にはいくらでもある。
ホビットが住むような小さな家には調理器具が揃えてあって、布団も煮沸できそうな巨大な鍋まである。私はここでいくらでも料理をするだろう。自分のぶんと、犬たちのぶんと。
書斎には空っぽの本棚があって、ここに買った本を詰め込んでいく。空っぽの本棚ってすごく夢がある。生きてるときに読んだ本を買い直してもいいし、まだ読んでない本を買ってもいい。天国でしか出版されていないアノ続編や完結編もあるはずだ。とにかく本については、何回生まれ変わっても読みきれない量なのだから、どれだけ欲深くなってもいい。
天国にも労働はある。
でもそれは、純粋な、労働のための労働であって、実生活のかかる生命を秤にかけたものではなくて、尊厳が保たれ、純粋に誰かのためになる労働的労働なのだ。
私はりんごの木を見守る仕事を与えられる。
りんご林の一区画をとにかく見守ってください。監督は穏やかな老人で、このりんごは天使や神様たちがいずれ口にするものだから、蛇やカラスに悪さされないように監視の目を光らせねばなりません、と純粋な使命感を持って語る。私たちは、木になっているりんごは食べられません。食べたければ市場で買うんですな。と忠告される。
一区画108本、それがいくつもいくつも地平線の彼方まで続いてる。向こうのほうではうっすらと霧がかかっている。
見張りの仕事は果たして楽だ。
蛇やカラスは可哀想なくらい臆病で、たわわに実るりんごを恨めしそうに見ては、こちらの視線を感じると恥ずかしそうに去ってしまい、その背中は情けないほど小さい。腐り落ちたりんごをそこらに置いておくとそれを食べて満足してしまうので、そうして誰も傷つけない罠を仕掛けて事なきを得る。見張りとは名ばかりの仕事なのである。
雑草を適当な量に間引いたり、枝を剪定したり、古くなった木を伐採したり、土を掘ったりして1日が終わる。
蛇やカラスはあんな具合に木になるりんごを食べられないのだから、どうして見張りが必要だろうか、私は監督に訊く。
「ここで、木になっているりんごをもいで、可哀想な蛇たちに与えたために、地獄行きになった魂を幾人も見てきました。魔が差すのは人間だけなんです」
私はあるいは、魂を試されているのかもしれない。
りんごは決して収穫しない。私たちが触れるのは腐り落ちた実だけで、赤く食べごろになった実はいつのまにか消えてしまうのだ。
実際に見たわけではないけど、神様と天使がどこからか透明な腕を伸ばして、気の向くままに取っていくのだという。そのときにわざと、いくつか実を腐らせて、落としていくのだ。
天国にも音楽はある。レコードももちろんあるけど、かの有名な作曲家やミュージシャンがいるので頻繁にコンサートを開催しているから、それに出掛ければいい。平原に作ったコンサートホールで、みんなが草原にゆったりしながらモーツァルトとジョン・レノンのセッションを楽しんでいる。
死後の世界では、あるようでないような時間が流れる。
なんの意味もなく、なんの目的もない。死に追われもしないから生きてもいない。
そこで私がこの天国の終わりを予感したとき、すなわち意味のなさというものに気づいたとき、魂は浄化されて、次の生命へとリサイクルされるのだ。
天国は理想であるべきで、人それぞれ違っていいものだ。
天国の真実はあなたの心の中にあるものだから。