どうしてなのかはわからないが、私の父が旅に出る際は必ず あんドーナツを買ってきていたことが私にとってもジンクスになっている。
旅行に出る日の朝はあんドーナツを食べる。
父のことは嫌いだったけど、あんドーナツは好きだから、今なお旅の前日に あんドーナツを購入し、当日の朝に食べている。
あんドーナツはできればパン屋さんで売っているものが好ましい。私は近所のスーパーの自家製パン売り場でそれを購入し、食べた。
父は旅先で死んだ。
酔っ払って階段から落ちて、あっという間の出来事だったらしい。
翌日に急いで飛行機で向かったが、病室で横たわる父の眼球はレーズンみたいにカピカピに乾いていて、生気がなく、髪の毛まで真っ白になっていて、どこからどう見ても死んでいた。心電図が肉体の電気的信号に反応して数値に置き換えて、まだ生きていることをモニター上で表現しているだけだった。
呆気なくて拍子抜けしたのを覚えている。
父親のことはいつか自分が殺すと思っていたのに、勝手に死にやがった、と思った。なんの涙なのかもわからないものが溢れた。
私と妹とおじとおばと父の後妻が父の死体にすがったり涙を流したり、後妻が「イイイーーーーン!!」と気が狂った人のような声を上げたりする意味不明でカオスな時間が流れ、しばらくすると心電図は生命の停止を宣告した。
あんドーナツ食べたのかな、とそのときも思った。
昔から旅の前に食べてたけど、今回も食べたのかな。
「お父様は最近、とくに健康に気を遣っていらっしゃって、お肉とか油の多いものは食べずにお野菜中心にお魚を食べさせてました」と後妻は言った。
あんドーナツは食べなかったかもしれない。
あんドーナツを食べたかどうかはともかく、ジンクスとして旅の朝にあんドーナツを食べる慣習が身に染みているので、なんとなく食べた方がよさそうだなと思って今でも私は あんドーナツを買ってしまう。
それが安全に繋がるのかどうか定かではないけど、食べないで死ぬより食べて死んだ方が納得感はあるだろう。
美味しいしね。
というわけで今日から新婚旅行だ。