蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

美しい右ストレートのために

闘技、たまに見るくらいの浅いファンだけど、見て後悔したことはないくらいには好きだ。

ボクシングに限らず、柔道とか空手とか、剣道も格闘技に数えていいのかわからないけど、とにかくその手の、人と肉体で争い競うその試合には、なにか美しい人間の「理性」を感じるのだ。

もともとが殺しの技であり、いかに人を殺すかに特化した物騒さを孕んでいることは間違いない。戦場でどのように戦うか、いかにして効率的に相手を動けなくさせるか、元々はその実用面が重視されていた殺しの技だ。

時代が流れるにつれて、痛めつける、攻撃する、殺す、というのはエンターテイメントにもなっていく。それゆえにコロッセオなどでは人々はルール無用のデスマッチに熱狂していた。そこには建前として「神に捧げる」とか「娯楽でガス抜きをさせる」とかあったかもしれないけど、それは言い訳に過ぎない。人が死ぬのをエンタメとして楽しんでいただけだ。

やがてスポーツへ昇華されるとルールが敷かれて、常に付き纏う厳しい制限が人間に理性を働かせるようになった。

理性を働かせるために日々、厳しい練習、研鑽を重ね、競技によっては真の意味で暴力を克服するために礼儀作法を整えて精神的にも訓練をするようになった。

相手を痛めつけ、痛めつけられ、血を流すかもしれない以上、格闘技は本能に最も近い競技であるし、エンタメとしての要素も認めざるをえないが、それをスポーツとすることでルールを敷いて克服した人間の理性は、美しい。

そして、物事の認識を変え、行動を変え、世界を変えていく言葉の力はすごいと思う。

だから格闘技は好きだ。

練り上げられ制御の行き届いた肉体、闘争心を奮い立たす血液、相手を捻り潰してやると言い聞かせて凄んだ目つき、その奥で冷たく光る理性。

パンチ、足運び、隙、速度、受け身。

すべての最適化された動きは相手をいかに痛めつけるか、ではなく、いかにして負けを認めさせるかというルールに基づいてコントロールされている。

ここまでやる人間を美しいと認めなければなんなのだろう。

 

だからこそ、美しくあるために格闘技には品格が必要だと思う。

根本的に相手を思いやる心が必要だと思う。

「血を見るエンターテイメントだ」と言っていいものではないと思う。

執拗に煽り理性を失わせるものはスポーツの道から外れている。

品格がなく、相手を思いやらず、エンターテイメントに成り下がり、金と数字に縛られたリングの上に、人間とスポーツの美しさは微塵もない。

 

スポーツではなくエンタメだと割り切ればそれでいいけど、そこに美しい右ストレートは飛ばない。