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『シン・ゴジラ』の面白さ~なぜ海外ウケが悪いのか考察~

に1回は『シン・ゴジラ』を見返している。

何回見ても面白くて、見るたびに発見があったり、あ、そういうことだったのかと気が付く点があって、バカみたいに新鮮な気持ちになる。

それにしても、よくもまぁこの内容で大ヒットしたと思う。実際、海外でのウケは悪いらしい。

でも、それもそうだと納得できる。

映画ってたとえばミステリーとか、SFとか、ファンタジーとか、ミュージカルとかさまざまな「ジャンル」があり、それとは別に「テーマ(感情とも言い換えられる)」があってたとえばラブだったり成長だったり葛藤だったりが描かれるわけで、要するに物語というものは〈SF×家族愛〉みたいに「ジャンル」と「テーマ」が掛けあわされている。

さらには「変化」という三つ目の軸が加わることで物語は回転し始めるのではないか、というのが持論なんだけど、それはまたの機会に。

私個人の考えだけど、作品が鑑賞者の胸を打つ大きな要因は、「ジャンル」に掛け合わされる「テーマ」にこそあるんじゃないかと思っている。

怪獣パニックものにラブとか家族愛なんかが掛け合わされることが多いのは、単純に怪獣が騒いで戦っているだけではお話として成立しないからで、万人に共感を与えられる「テーマ」があれば怪獣パニックというフィクションとのギャップが生まれて、そこの高低差にカタルシスを覚えるからなんじゃないだろうか。

では『シン・ゴジラ』はどうだろう。

 

この映画は「特撮×政治劇」だと私は思う。

個人の感情や成長(変化)に焦点はあまり当てられず、もちろんラブストーリーもない。自衛隊員の苦闘を徹底的に描写している話ではないし、科学者の感情に迫るわけでもない。

「現実的に考えて、行政はなにができるか検討し、課題解決に向けて取り組む」話である。それはもはやゴジラを倒すために現代日本の政府は何ができるのか?という一種のシミュレーションじみてもいるだろう。

政治劇だからと言って、その華である「権力争い」が描かれるわけではなく、いかにして責任から免れるかとか、会議や書類の手続きが面倒であるかとか、米国や諸外国との関係が面倒くさいかとか、国民と政府の意識の乖離みたいな、高度な「行政あるある」が詰め込まれていて、共感性があるにはあるけれど、「個人の物語」にはならない。

見方によっては淡々としているとさえ言う人もいるかもしれなくて、毎度見ながら私も「ストイックだなぁ」と感想を抱く。

 

じゃあどこが面白いのだろう?

ゴジラのパフォーマンスが格好いい、怖い、という魅力が第一にあるのは当然として、戦闘(破壊)シーン以外の「つなぎ」を楽しめるのはなぜだろう?

今回気付いたのだが、「会議」ってかなり面白いな、ということだ。

いろんな人が出てきてそれぞれの思惑があって、でも会議の場を成立させるために建前の装備に身を包み、本懐を通すために根回しをする。で、会議をひっちゃかめっちゃかにしようとする奴とか、自分勝手な奴、話にならない奴が出てくる。

会議は、いろんな思惑があるから面白い。

そして会議をしている間にゴジラが暴れて会議の内容がリセットされて、また会議がイチから始まる。同情せずにはいられない。

会議シーンは地味だしセリフも多いし小説で書こうとすると相当大変だし、内容を整理するとかなりカオスなことになっており映画でもコスパは悪いと思うが、会議シーンこそ手を抜かずに映してほしい。

他の映画だと『日本で一番長い夏』も会議がかなり多くて面白い。日本が終戦に踏み切るかどうか、めちゃくちゃ大事な会議の中で、それはもういろんな思惑が飛び交いながら、天皇陛下の前では建前を突きとおし、軍部をコントロールし、なんとか全員の意見をまとめて落としどころを探っていく。すごい脚本力だ。

パンク侍、斬られて候』これは小説と映画だけど、こちらも会議シーンが面白い。

「思惑」が「言葉」によって交錯し火花を散らすのが会議の面白さの醍醐味なのだ。

 

だから言葉のリズムとか役者の活舌が大事だ。

シン・ゴジラ』はそれをクリアしている。ふと日本語の面白さに思い至る。

やたらと長ったらしい役職名とか単刀直入でありながら遠回しな表現がうち乱れるセリフの応酬が気持ちいい。

漢字のカクカクした字体の雰囲気が言葉の端々から感じられて、ある瞬間に言葉の羅列が快楽物質のように流れ込んでくる。だんだん、もっと喋れ、とさえ思う。

早口というものは内容の理解が難しいけれど、それ単体として発音自体の気持ちよさが伴っているのだ。早口になるほどこちらの感情も焦ってきて興奮してくる。ビジネスシーンや発表の場で緊張している人の早口を聞いているとこちらも落ち着かなくなる経験は誰しもあるだろう。

スピーチでも最初はゆっくりで、だんだん速くなっていくのは聴衆の感情を煽るためだ。

シン・ゴジラ』の面白さのひとつに、そういった「言葉」の性質があるのではないだろうか。

 

怪獣が大暴れする緊迫と不気味さ、凄味のある恐怖が大好物な私は、ゴジラがいるってだけで興奮するけど、鑑賞者の中にはそうでない人も多数いる。そういう人たちにとって『シン・ゴジラ』の面白さは「言葉」になってしまうので、それにも気付けないとなれば、かなりシビアな映画になってくるのではないか。

外国だとさらに難しくなりそうだ。

字幕で見せられても理解するのが大変だし、読めないし、音声的な面白さは伝わらない。

英語のアテレコがついたところで、日本語的なセリフの応酬の面白さまで再現できているのか、はなはだ疑問である。

そこにきて「テーマ(感情)」が伴わないので、そりゃあ、ウケが悪いのも頷けるというものだ。

 

などと思ったりした。個人的な感想です。

シン・ゴジラ』でも再三言われているように、明言は避けるべきだ。