蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

セルゲームってなんだったんだ

※『ドラゴンボール』のネタバレを含み、また用語についてはほとんど解説なく進むので、わからない人は原作を読んでください。また、筆者はだいぶおぼろげな記憶でモノを言ってます。すみません。

 

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ラゴンボールの人造人間編の最終決戦では、決戦場が敵のセルによって用意される。

セルは「格好いい舞台を用意してやろう」みたいなことを言って、超能力で岩山を切り削り、あの天下一武道会の闘技場を再現する。ご丁寧にも、四隅に柱の彫刻みたいなものまで立てて。あれダサかったよな〜。

この闘技場、もちろん平坦な場所をセルじきじきに選んでくれたのだけど、設置場所がなんか小さい道を潰すようになっていたのをぼんやり覚えている。

なんでそんな半端な場所に?

理由はわからないけど、それを見てなんかこいつ(セル)はやっぱり話の通じない敵なんだな、と思ったものだった。

 

いざセルゲームが始まってみれば、あっという間に闘技場は破壊されて、もちろんルールには天下一武道会のような「場外負け」もなく、10カウントもなく、まったく形骸化していた。ゲームとは言い条、ルールなんてほとんどない殺し合いだった。

子どもながらに読んでいて「セルゲームって、なんなんだ」と思った。

わざわざ天下一武道会みたいなものをやらなくてもよかったのではないか? 悟空と悟飯の修行が終わったら、ストーリーとしてはさっさと新しい神様(デンデ)を擁立して、ちょっと休んで、次の日くらいにはもう死闘を繰り広げてもよかったのではないか?

たしか修行を終えてからセルゲームまでは1週間くらい期間が与えられていたように記憶している。

その間にピッコロとかベジータ精神と時の部屋に入って修行してたけど、結局活躍しないことはわかりきっていたのだから、追加修行をさせなくても話は進められたはずだ。

ここの束の間の休息の話がちょっと好きだし、悟空と悟飯はここで家族の時間を過ごしたんだろうな〜って微笑ましくなるんだけど、でも別に、わざわざこの期間も設けず、なんだったらそもそも「セルゲーム」なんてやらずに荒野で決闘でもよかったんじゃないか。

 

なんでセルゲーム、つまりは天下一武道会の紛い物をやったのか?

 

私が思うに、作者が天下一武道会をもう一度描きたかったからなんじゃないか。

 

天下一武道会って、ルールがちゃんとあって、武道を武道として向き合える機会なのだ。

悟空の目的(物語の目的)は強いやつと戦うことであって、殺すことじゃない。悟空は本来優しいので相手を殺したいとは思わないはずで、その様子はあれだけ極悪な行いをしたフリーザを一度は見逃したところからも窺い知れる。悟空は強いやつと戦いたいだけで、悪事に対しては寛容というか、ちゃんと許す心を持ってる、ヒーローなのだ。

天下一武道会の舞台ならラディッツから続いてきた凄惨な殺し合いにならない。

ラディッツが来て以降、ナメック星編、そして人造人間編に至るまでは武道ではなく血みどろの殺し合いが行われてきたのが、作者の思惑とは方向性がズレていたために、セルゲームでもう一度「武道」という原点回帰を目指したのかもしれない。

それは最初のうち、悟空とセルが戦っていたところまでは成立していた。

だから悟空は負けを認めて試合から降りたし、仙豆をセルに分け与えることもした。なぜならそこは殺し合いではなく、天下一武道会(セルゲーム)だったから。

でも物語としてはセルを倒す(殺す)ことでしか決着しえないので、悟空(作者)の思惑とストーリーの分離の後始末は悟飯ちゃんに負わせたわけだ。

ジャッキー・チュンと戦ったときのような、天津飯に惜敗したときのような、マジュニアに勝利を収めたときのような、完璧な天下一武道会はもう二度とできないことが証明されてしまった。

 

セルゲームが失敗したので、その後の魔人ブウ編の序盤でもう一度天下一武道会が開催される。

それもまた失敗して、ベジータによって大量殺戮が行われる結末に発展してしまう。

ここの矛盾というか、分離が、ドラゴンボールのナメック星編以降の「歪み」になっていると私は読む。

でも、物語の最終回で、もう一度天下一武道会は開催され、そこではブウの生まれ変わりであるウーブと悟空は出会うことになり、試合も半ばで離脱することになる。

そこから先には、純粋な武道があって殺し合いの世界からは解放されるのであった。

ただそこで、原作は終わってしまうのだけど。

それは結局、天下一武道会の時代には戻れないことを意味するのではないか。

 

などと曖昧な記憶でうだうだ書いてありますけれども。