結婚式で流すムービーの素材を集めに、実家へ帰った。
自分の昔の写真なんてないだろう、と思っていたら、信じられない量のアルバムが出てきてびっくりした。
0歳から3歳ごろにかけての写真が特に豊富で、1日に5枚以上は一眼レフで撮っていたのだろうと思われる量だ。いくらなんでも多すぎる。この中から厳選していくなんて不可能だ。
小さい頃の私は、今と顔つきがまったく違っているのだが、憎たらしさのようなものだけは今とも変わらぬ面影があって、やはりこれは私なのだと認識できる。赤ん坊らしく、体内の水分量が多くて、皮膚がただれたようになっている。
でも、周りに写る大人たちは、みんな私を抱きながら、新しい生命の誕生に戸惑いがちに、朗らかな笑みを浮かべていた。
アルバムのページには母の書いたメッセージがいくつも貼ってあった。初めて笑った日のこと、はやくお喋りをしたいこと、言葉を話した日のこと、お祭りに出かけた夜のこと、初めての旅行、これからどんな人になるのだろう、どんな未来になるのだろう……。
写真の一つ一つ、メッセージの一枚一枚に期待と愛情がこもっていて、両親がどれだけ私を愛していたのか、私を中心に世界が回っていたのかが窺い知れた。
それにしても、まさかこんな未来になるとは思ってもいなかったことだろう。
妹が生まれ、より育児が忙しくなり、父が家に帰らなくなり、不倫をされ、精神を病み……時間が経つにつれて写真が減っていき、私が小学校の中学年から高校にかけて、写真が皆無になった。
中学、高校の写真が見当たらなかったので、結婚式のムービーは、赤ちゃんからいきなり大人になってしまうのだが、仕方がない。
とくに高校のときの写真は卒アルだけが頼りだったが、それも燃やしてしまったので、振り返る思い出すらもない。こういうときのために、ノリで卒アルを燃やすのは控えたほうが良いだろう。
結婚式に呼ぶ友人2人にも、中高の写真はないか聞いたが、2人とも素材に乏しかった。だいたい、高校は別々だったのだから当たり前だ。
結果として、10代後半にやっていたバンドの写真だけは集まったものの、それにしても誰かが必ずカメラマンになっていたので、3人が揃っている写真はほとんどない。でもまぁ、いいだろう。
中学の卒アルを10年くらいぶりに開いてみたら、載っている子たちが、当然だけど子どもばかりだった。
高校生のときに見た印象は「子どもだ」とは思わなかったけど、自分が大人になってしまった今、そこに写されていたのは、まだなにも知らない、青い芽すらも出ていない、義務教育的少年少女ばかりだった。
でもこんなんでも、あの時は自分なりに悩みがあり、苦しみがあり、世界に絶望もしていたものだ。そこで考えたことや思ったことは真実だった。
成長するにつれて視界が広がっていき、世界は違う景色を展開した。
あの頃のちっぽけな絶望なんて、その後の世界の絶望に比べれば、世界大戦と比べた夫婦喧嘩みたいなものだ。
でも、自分が子どもに接するときは、彼らなりの真実を尊重して、大人として話を聞きたいと思う。大人は、大きくなりすぎて、足元を見られなくなる。
なんとか写真を集めて、自宅に帰った。
さぁ、ここからムービー作りだ。
ところで当然のように「ムービーを流す」くだりがあることに驚きを隠せない。