AIのおかげでいろいろなことが便利になった反面、クソみたいなことも増えた。
たとえばSNSの情報はなにが生成されたもので、なにが人間の作成した情報なのか、判別が難しくなってしまった。Twitterのリプライ欄に関しては、バズったものほどAIのゾンビたちによって本質的な情報が埋もれてしまっていて、機能しなくなっている。
文芸の生成、イラストの生成、動画の生成に関してはクソ・オブ・クソだ。
以前にもジブリ風イラストの是非について書いたけど、創作物の生成はほんとうに文化の衰退を招く最悪の革新だと思う。
おかげさまで、インターネットで見るイラストはすべて「これはAIイラストなのか?」と疑ってから見なくてはならなくなった。
だから最近は昔の絵画とか昔の漫画とか近代文学が好きだ。AIが作っていないことが確定しているから。
AI絵師(なにが「絵師」だ。プロンプト作成者だろうが)はしっかりと「これはAIで生成したものです」と都度わかるようにしてほしい。そうしたらAIイラストを見る時間を省くことができて悩む時間も減り、人生が豊かになる。誰が、AIが作ったイラストを見たいのか、AI絵師は自覚しているのだろうか。
AI絵師のほとんどは品性のかけらもない。AI絵師のほとんどは、刺激的なイラストで閲覧数を稼ぐビジネスをやっている反社か、中学生しかいない。反社か中学生が中身ならまだ救いようもあるのかもしれない。
AI絵師の人の中にはこの文章を読んで傷ついたり心外に思う人もいるかもしれない。残念だが、これがAIには出せない、人間の悪意だ。身に沁めてほしい。
文芸や新人賞にも最悪の波が来ていて、ある俳句コンテストでは生成AIが作ったものなのか人間が作ったものなのかわからないから廃止されたし、ある漫画の新人賞も生成AIの作画と生成AIのプロットを使っていたことが発覚したみたいで、最悪だった。
AIが作ったものを「私が作りました」と言って、人間がなりすましているのが気に食わない。
なぜならそれは、明確に、私たち読者が、そのAIのプロンプトを記述した人間に、ナメられているからだ。
私が作品(文芸に限らず)に触れるとき、それは作品そのものの面白さもそうだけど、もっと根本の、意識していない心の深部では、作った人そのものというか、創作者の精神性に触れているのだと思う。そこに触れたいのだと思う。
AIが作ったものはそれきりの作品でしかないから、私の目的は果たせられない。そうした面白いものがあってもいいと思うし、作品だけが単に好きというのは、人間が作った創作物でももちろん存在する。
だけどAIが作ったものに精神性が宿るはずがないからそれだけで作品の価値は低くなるわけであって、さも人間が作ったかのように発表するのは明確に詐称であり、たとえばそれは和牛のサーロインですと偽ってダチョウの手羽先を出すようなものなのである。
人間が作った面白いものか、AIが作った面白いものを見たいのであって、人間がAIに作らせてさも自分が作りましたという猥雑な承認欲求と軽薄な自尊心のグズ煮みたいな作品まがいの生成物を見たいわけではないのだ。
今のところ生成AIはクソしかもたらしていない。
いや、AIが悪いのではない。
つまらない使い方しかできていない創造性のない人間と、悪用する人間が悪いのだ。
AIの開発は基本的には素晴らしいし、その歴史や取り組みを学ぶと研究者や人類の叡智を讃えたくもなる、たいへん有意義で面白いものだ。私は仕事上、AI関連の書籍をたくさん読み、大学でAIの研究をされている先生にもお会いしてお話を聞き、そのビジョンと研究にたいへん胸を打たれた。AI開発とは、人間の研究そのものなのである。その哲学的な眼差しに感動すら覚えた。
そんな素晴らしいものを、こんなクソみたいなことにしか使えないのか。
立場や学力や倫理観を問わずに、人間が誰でもそんな高尚なものを無料で使えるというのは、あまりにも早すぎるのではないだろうか。
故人をAIで復元して動画にして喋らせたり歌わせたり踊らせたり、そういうことをして喜んでいるような人たちが、これからAI社会を発達させられるとは思えない。