海のある街で育ったから海には並々ならぬ気持ちがある。
溺れたこともあるし、黄昏たこともあるし、青春を燃やしたこともあるし、死のうとしたこともある。こう書くと、あまり良い思い出はないかもしれない。
でも、海が好きだ。
眺めているだけで心が凪ぎ、潮風が心にみずみずしさを取り戻す。海にいると安心する。波の音が心をどこか遠くへ連れて行ってくれる。
海岸で石を拾うのが好きだ。角が丸くなり、厚みを損なって平べったくなった石はひんやりと濡れて光っている。
石は長い時間をかけて波に削られて丸く薄くなっていく。最後には砂粒になってしまうのだろう。そのとっかかりのない丸みに指先を沿わせると、この形になるまでの時間の長さを想うことができる。
一体どれくらいの時間がかかったのか測りかねるけれどもきっと長い時間には間違いなく、その間に太陽は何度も大地を照らし、月は何度も水面に揺らいだのだろうことが想像される。
時の流れを指先で感じる。だから石を拾うのが好きだ。
30年生きてきたけど、こんな体験ができるのは海以外に思い浮かばない。
シーグラスを拾うのも好きだ。どこかで割れた瓶のガラスは、長い時間に曝されて刺々しさがなくなり、くぐもった色合いの宝石になる。
シーグラスを夕焼けに透かしてみると、クリアだった風景は幻想的な景色になる。海の音がはっきり聞こえる。
シーグラスを机の中に入れておいて、その存在をすっかり忘れてしまって、何年後かに机の中から出てきたとき、それはほんの少し、美しさを失っている。砂浜に並べてやりたくなる。

富津岬の展望台は、ソ連時代の共産主義的建造物みたいな見た目をしている。無骨だが構造的に端正で、楽しませようとしているようにも見えるし、建造物としての純粋な機能に徹しているようにも見える。
上まで登るのは運動不足の体にはなかなか堪えるけれども、そこからの眺めは膝を痛ませる価値があった。
写真は、夕焼けの中に佇む構造物を撮ったものだ。私のスマホのカメラは壊れていて、少しでも強い光はあいにく爆心地みたいな輝度で捉えられてしまう。なんだか世界の終わりみたいだ。
終わった世界にこんな建造物を発見したらさぞ興奮するだろうな。前人類はこんなものを何のために作ったのだろう、なんて考えたりするのだろうか。そして、とりあえず上に登ってみたりもするのだろう。前人類と同じ景色を見てみたくて。
そのとききっと、錆びついた階段の手すりに、時間の長さを感じるのだろう。