蟻は今日も迷路を作って

蟻迷路(ありめいろ)の文章ブログ。小説、エッセイ、真面目な話からそうでない話まで。Twitter→@arimeiro

ゴッホの「ひまわり」の黄色になりたい

国立西洋美術館で開催されているロンドン・ナショナルギャラリー展に行ってきた。

美術館に行くのはじつに半年ぶりくらいで、久々でずっと楽しみにしていたのだ。

チケットは予約制となっている。

もちろん、コロナ対策であるが、混雑分散の目的もあるのだろう。

 

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(会期が変更になってます)

 

すこし遅い時間のチケットを予約した。

美術館は遅い時間の方が人が少なくて、わりにゆったりと見れるからである。しかしあまりにも遅い時間だと閉館時間と戦う羽目になり、以前、閉館1時間前に入ったときには警備員に追われながら鑑賞したのでぜんぜん集中できなかった。

 

17時入館。

予約制であることと遅い時間ということもあって、そこまで人は多くはなかったが、しかし少ないとは言えないくらい、混雑していた。

美術館はしんと冷たくて、エントランスホールに靴音がこつんこつんとよく響いた。いよいよ美術館だ。そわそわする気持ちをこつんこつんという靴音が鎮めてくれる。

 

   ↓

 

展示の印象としては宗教画が少なく、肖像画や風景画が多かった。

イギリス国教会の成立とルネサンスによる人文主義の影響か、神話の中における人間性とか、肖像画による人間そのものに焦点をあてられた作品が多くて、同時代のフランスやドイツやロシアの作品と比べ、芸術視点が違っていたことがわかり面白い。イギリスの作家だけでなく、ヨーロッパ中から、国が自分たちの時代の価値観に見合ったものを蒐集していたことがうかがえる。人間中心主義だったからこそ、いちはやく資本主義を発達させ産業革命にこぎつけたのだろう。

という推論。

もしかしたらこの企画展がそういうテーマ(人間中心主義)だっただけかもしれない。

 

 

レンブラントフェルメールといった名だたる絵画作品を見れたことは嬉しかったが、なんといってもゴッホの「ひまわり」が素晴らしかった。

図録や教科書やポスターで何度も見た、世界一有名な絵画のひとつ。

7枚の連作のうち、ゴーギャンが最も高く評価した1枚。

歴史的な絵画である。

 

「ひまわり」には個室が用意され、ほのかに暗く冷たい部屋に、堂々と一枚、展示されていた。

ひと目見て、まずその大きさに驚いた。私が想像していたよりもずっと大きなカンヴァスに描かれていたのだ。

つぎに、その黄色さに驚いた。ポスターや教科書で見ていた「ひまわり」はなんだったのかと自分の目を疑いたくもなるような黄色さで、体いっぱいに黄色のパワーが溢れて、額縁からこぼれ落ちてきそうだった。

体の内側から熱。館内が寒いほど涼しいことも相まって、熱に浮かされたときのように、悪寒にも似た熱を体内にかんじた。

血液がばくばくと流れ、毛穴がひらき、網膜はあの黄色を、世界にここだけしかない本物の黄色を、貪欲に摂取しようと拡大し、言葉の情報以上に伝わってくる絵画的な「こころ」の伝達をたしかに受け止めて、気が付けば涙ぐんでいる。

ああ、おれが絵の具に生まれ変わったなら、あの黄色になりたい。

黄色にもさまざまな種類があって、表情がある。単体では黄色でしかない黄色たちは、ゴッホの「ひまわり」のなかでは「ゴッホの黄色」になっている。

 

レンブラントの光がぼんやりと丸いものだとしたら、フェルメールの光は窓から差す柔らかな日差しで、ゴッホの光は「燦然」のほかに言葉が見つからない。

ゴーギャンと暮らす祝いに、黄色い家に飾るために描いた「ひまわり」。アルルの地の太陽の光が、ゴッホにはあの「ひまわり」のように黄色く輝いて、これからの生活の希望に重なってぴかぴか光っていたのだろう。

なんて素直で、美しく、面倒くさく、愛しいこころだろう。

 

生命力にあふれ、自分の中で大きな力が動くのを感じる。

 

生(ナマ)で目にしなければわからないこと、感じられないことはたくさんある。

「ひまわり」の鑑賞はそのひとつだった。

生きているうちにあと何回、この絵画を目にすることができるだろう?

それを思うと淋しい気持ちになる。何度だって、何時間だって、見つめていたい。

 

ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』を読み疲れる

ンベルト・エーコ薔薇の名前上下巻を購入したのは、たしか2018年の春だったようにおもう。あるいは夏だったかもしれない。

2018年は私にとって「卒論の一年」であり、その年は論文のテーマに選んだ村上春樹の書籍を片っ端から漁り読んでいたので、少なくとも秋ではないはずだ。遅くとも夏までには『薔薇の名前』を購入していたはずである。

 

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演劇学の授業で映画版の『薔薇の名前』を前半部分だけ視聴したことがきっかけで、原作も読んでみたいとおもった。

大学図書館に所蔵は1部しかなく、書架を訪ねると上巻は紛失し、下巻は本の「背」がボロボロに歪んでおり、とても読めるような状態ではなかった。まったく、図体だけ大きくて痒いところに手の届かない図書館であった。

文庫版で欲しかったのだが、どこにも売ってなくて、結局、ハードカバー版で買った。(どれだけ調べても文庫版が出てこないので、そもそも出版されていないのかもしれない)

ハードカバーだと持ち運びが難しく、しかも『薔薇の名前』は分厚いので適していない。

だが、それでよかったのだと読み終わって今はおもう。

この本は、家で腰を据えて、じっくり読むべきだからだ。

 

   ↓

 

2018年の上半期に購入し、2020年の下半期に読み終えた。

まったく、長い道のりだった。

卒論や就職や相続や引っ越しなどがあり、結局読みはじめたのはこの夏からで、それでも家でだけ読んでいたので、読破に一か月以上かかってしまった。

 

ページ数が恐ろしく多いわけでもないのだが、やたらと内容が難しく、また登場人物が多くて関係性が複雑で、みんな西欧人なので名前が覚えにくく、とにかく読んで理解するのに時間がかかった。

何度も前のページに戻っては関係性を復習するのだが、前回読んでから日を置くと、誰が何なのかよくわからなくなり、結局最後のほうでは前半にいた人物のことなんてすっかり忘れてしまっていた。

登場人物はほぼ男性で、しかも同性愛でいろいろと揉め事があり、誰が誰を誘惑したとか、ただならぬ関係にあるとか、嫉妬しただとか、やたらに複雑で面倒くさい。

 

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(嫌気がさす登場人物表)

 

なにがどう難しかったのか。

それを説明する前に、この物語のあらすじを簡単に説明しよう。

14世紀イタリア、とある修道院で不可解な「死」が連続して起こる。その事件に偶然にも居合わせた、旅の僧侶ウィリアムとアドソ。謎めいた文書館の存在と宗教論争、異端審問、同性愛、さまざまな思惑のなかで二人は事件の真相に迫ろうとするが──。

かなり端折ったあらすじだが、おおよその筋はこれで把握できる。

 

作中では宗教論争や、歴史的な出来事(じっさいにあった出来事が並行して語られる)、聖書の解釈をめぐってたびたび言い争いが起きたり、講釈がはじまるのだが、予備知識としてキリスト教にまつわる歴史や聖書の内容を知っておかないと、すぐには理解できない。

また、こういったことは調べてもよくわからない。

調べた結果の内容を理解するためにさらに調べなければならず、結局は調べながらキリスト教の政治的な歴史や中世ヨーロッパにおける宗派の闘争とその内容を紐解いていかねばならず、物語は遅々として先に進まなくなるので、私は途中で調べるのを諦めた。

キリスト教の知識は物語の本質にも関わってくるが、私のようにまったく理解できていなくても、謎のトリックや犯行の思惑を理解することはできる。

しかし、たぶん、これだと『薔薇の名前』の魅力を半分も味わえていないのだろう。

作中でも細かに説明してくれるわけではなく、また、説明を理解するための知識が必要で、とてもアカデミズムに富んだ作品と言えるだろう。

なんていうか、大学教授が授業で垂れる蘊蓄(うんちく)を聞かされているようなかんじだ。

先生はそういうとき、楽しそうに語る。自分の好きなことを好きなだけ語っているときのオタクは楽しそうである。(じっさい、エーコは学者先生だった)

 

また、文学的意義について考えるとき、この作品の少し変わった(けれども伝統的な)構成の解釈についても、イタリア文学的知識が必要となるし、さまざまな文献のパロディーも含まれているので多岐にわたる知識がどうしても必要になる。

そのところは「解説」で軽く解説してくれて入るのだが、本来であれば『薔薇の名前』に関する文献を読むべきなのだろう。そこまで体力が無い。

 

とにかくこの作品は良い意味で衒学(げんがく)的で、読者をどんどん置いていく。

私の頭があまり良くないから置いていかれただけなのかもしれないが、『薔薇の名前』を初見で読みついて行ける知識を持つ人がどれくらいいるものか、わかったもんじゃない。

 

久しぶりに、本を読んで、悔しい思いをした。

もっと知識があれば、さらに深く読めただろう。

ただ、中世ヨーロッパの美術や生活や宗教の歴史について興味がもてたので、これからはそういう方向でいろいろ読んで、またリベンジしたい。

うさぎやCAFÉ でよろこびを味わいなさい

べてのフレンチトースト好きは「うさぎやCAFÉ」に行くべきだ。

 

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これは、単なるフレンチトーストではない。

 

まずその形状をよく見ていただきたいのだが、見た目は完全にどら焼きである。

名称も「うさどらフレンチ焼き」というので、フレンチトーストとどら焼きの合いの子であることがわかる。

ナイフとフォークではなく、匙(さじ)で掬うようにして食べる。

一般的なフレンチトーストだとおもって注文したら、かなり型破りなフレンチトーストが提供されるのでご注意いただきたい。もはや、フレンチトーストと呼んでいいのかもわからない。

 

JR御徒町(おかちまち)駅から徒歩数分、あるいは東京メトロ銀座線の上野広小路、千代田線の湯島、都営大江戸線上野御徒町も近いので、アクセスは非常に良好である。

JR御茶ノ水から神田明神に参拝し、湯島の下町的な街並みを散歩しつつ立ち寄ってもいいかもしれない。これからの季節、涼しくなるのでよい気分になれるだろう。

人通りの少ない路地の近代的な造りのビルに「うさぎやCAFÉ」はひっそりと佇んでいる。

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(外観の写真を撮り忘れたのでストリートビューで)

 

いつ行っても混んでいて、しばらくは外で待つことになるが、期待を募らせた方が美味しさは増すので、よだれを垂らしながら犬のようにお利口に待とう。

 

店内は広くはないものの落ち着いた色調で、卓上の小さな植物が可愛らしく、プラスティック・カップに店のロゴが入っていたりと細部にこだわりを感じ、居心地のいい空間にあつらえられている。食器も可愛い。

 

和菓子カフェエなのにハワイアン・ウォーターを猛烈に推していて謎だったが、サイトを見ると、どうやら「水」がかなり大切らしくこの店はハワイの「水」で餡を炊き上げたり茶やコーヒーを淹れていて、ハワイとは密接なかかわりがあるらしい。

わかれば納得だが、わからないと、なにか怪しい商売みたいである。

この水は飲み放題なので、よく味わうといいだろう。冷たくて、口あたりがやわらかくて、たしかに美味しいのだ。

できればその水で淹れた茶やコーヒーも飲むとよろしい。

 

さて、「うさどらフレンチ焼き」だが、先にも述べたとおり、どら焼きをフレンチトースト風に焼き上げたものと言った方がよりしっくりくる。

というのも、「うさぎや」がそもそも老舗のどら焼き屋さんなのだ。このどら焼きはかなり美味しいので、帰りに上野に立ち寄って買ってほしい。

 

木の匙を、たっぷり膨らんだ生地にさくりと差すと、ふわっとした感触が指先に伝わってきて、バターの芳ばしい香りが立ちのぼる。

狼煙をあげるなら、こういうバターの香りがする煙で信号を送りたいものだ。

食べる前にまずこの「香り」を味わおうではないか。そうしないと失礼だ。

バターの香り、小麦粉の甘い香り、小豆の期待感を煽るつややかな豆の香り、そこにセットのコーヒーの苦い香りが合わさって、幸せな気持ちになる。優しい気持ちになる。聖母、という文字が浮かぶ。

皿に顔を埋めるようにして香りを嗅いでいたら、恋人に「犬かよ」と注意された。私は犬でいいとさえこの香りの中ではおもえたが、恋人の名誉のために顔を上げた。

 

さて。

匙で 「どらフレ」を口に運ぶ。

じわぁ、と全身にバターの風味が広がっていく。

そしてやわらかな風が吹くように、餡子の優しい甘さが全身を撫ぜていく。

鳥肌が立つほど美味しい。

慶(よろこ)び、でしかない。

これはもう美味しさと言うよりも"豊かさ"だ。たとえばこの菓子を親友の結婚式に振る舞いたいとおもえるような"清浄"で聖的な、豊かでおめでたい祝福的な味がする。

慶びだ。この豊かさを、お祝いしようじゃないか。

 

しっとりと弾力のある生地はサクサクと食べすすめるけど意外と腹にたまる具合があって、濃いバターの風合いがそうさせるのだろうが、そこでコーヒーを飲むとさっぱりしてまた次の一口が美味しくなる。

コーヒーがまた美味い。少し酸味のある苦味だが、コーヒーが苦手な人でも飲みやすい口当たりで、どらフレとよく調和するのだ。

 

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フレンチトースト好きに「うさどらフレンチ焼き」を薦めると、認識に蹉跌を生みかねない。

フレンチトーストでもなく、どら焼きでもない、まったく新しいスイーツなのだから。

だからここは、序文を訂正すべきだ。

 

「すべてのフレンチトースト好き」ではなく、『すべての人間は「うさぎやCAFÉ」に行くべきだ』と。

コード:4連休

連休が始まった。

これまでの反省を踏まえて(盆休み、正月休み、GWなど)、毎日を充実させ、一般的に体感される4日間よりももっと濃密で素晴らしく、丁寧な日々にしようとおもう。

そう決めた金曜の夜、私は缶ビールを飲み、じゃがりこを食べ、シャワーも浴びず、そのまま寝た。

 

 

翌朝土曜日、目が覚めたのは10時頃だった。

じつに10時間くらい眠ったのは久しぶりのことだったが、連休初日にしてさっそく時間を浪費しているではないか。

この四日間、私が浪費していいのは酸素だけである。まったく、出鼻をくじかれている。まったく決意が成されていない。有言実行できていない。

 

すぐさま起き、シャワーを浴び、ピーナツ・パンを食べた。

洗濯物をして、昼食の準備をしつつ、手が空いたらコンビニへ行って事務的な用事を済ませ、帰ってきて昼食を作った。

恋人はみそ汁を作り、私は しらすの おにぎりをこさえた。

じつは起きてからここまでの間、手が空いた時間にその日用のブログを書いている。

こうして書き連ねていくと、たった3時間の間にじつに忙しなく私は動いているように見えるが、実際に忙しなく動き回り、まるで生き急いでいるようだった。

浪費した時間はやり直せないが、取り戻すことはできると信じている。

 

午後は恋人とデートをした。このことについては、また別の日にブログにしよう。贅沢な時間を過ごしたのだ。

 

   ↓

 

連休は、ぼーっとしているとすぐに終わってしまう。

すぐに終わらない連休などといったものなど存在しない。完璧な絶望が存在しないように。いや、完璧な絶望は存在する。連休最終日だ。

生きている限り、連休は終わる。だから、死ねば永久の暇(いとま)をいただけるわけだが、それでは意味が無い。ではどうすればいいか。

 

毎日を充実させるしかない。

 

連休終了後も、連休にあったことや充実した日々を思い出して明日を生きる糧にできるくらい、充実して楽しい日々にしなければならない。

安定した食事をし、毎日の目標を掲げ、達成、もしくは実行し、本を読み、文章を書き、楽器を奏で、夜には少しのお酒を飲み、恋人とキスをして眠るのだ。

本質的な豊かさとは、生活に宿るもののことである。

 

私はこの四日間を、かつてないほどに充実したものにしようとおもう。そう決めた。

これを書いている今(土曜日の夜)、今日一日を振り返ってみて、充実していた実感がある。早起きできていたら、さらに充実していただろう。

と同時に、はやくも一日が終わってしまった、という現実を信じられないで、この文章を書きながら頭が混乱し、「はやくも一日が終わってしまった」と自分が打ち込んだ文字を見て、胃のあたりがグっと下がり硫黄のような臭いのするゲップが出た。

 

大丈夫だ。まだ三日あるじゃないか。

 

私は充実した連休を過ごすんだ。体感で240時間くらいの連休にするんだ。

そうするんだ作戦。

 

とりあえず日曜日はいろいろなブログを読んでみようとおもう。

 

s-f.hatenablog.com

憎み、憎まれ、ラーメン屋

鹿な女たちを観察する。

後ろからまじまじと観察してやる。本のページ越しに、行間を読むようにじっくり、じっとり、女どもを観察する。ついでに、その隣に座っているカップルも観察してやる。そうして「圧」をかけてやる。

 

  ↓

 

夜のラーメン屋は混雑していた。

友だちが薦めてくれた人気の店である。

昨日は8時から労働をし、16時半に一度仕事を切り上げて、18時半から都心に出て、20時過ぎまで打ち合わせに参加した。

金曜日ということもあって疲れていたし、なによりも腹ペコだった。

その友達の薦めてくれた店はちょうど会社の近くにあったので、行ってみることにしたのだ。

 

20時半ごろ、店に到着し、店内に十名ほど並んでいたが、かまわず入店した。ラーメン屋は回転率が早いので、十名並んでいたところで大して時間もかからないからだ。

まぁ、待って十五分くらいか。

私は食券を購入して、列の最後尾に並んだ。こういう待ち時間に本を持っていると豊かな気分になれる。内田百閒を読んだ。

 

 

21時ごろ、私は相変わらず列の最後尾にいて、しかも一名も先に進んでいなかった。

いったいどういうことか。

腹ペコじゃないか。さまざまな要因が複雑に絡み合い、このような悲劇を生んでいた。

まず、例によってコロナの影響を受けて、席数を半分に減らしているということ。

次に、店の提供にえらく時間がかかるということ。太麺を使用しているので茹でるのに時間がかかるのだ。

そして、客が馬鹿ばかりだということだ。

それによって回転効率が悪くなっているのである。

 

並ぶ私の前のカウンターに座っていたのは女二人だった。私と同い年くらいの、社会人になって2~3年といった風貌の女どもである。

女性(にょしょう)は油麺が提供されるや否や「テンション上がる~!」「マジうまそう!」などとみっともなく盛りあがり、ひとしきり写真を撮ったあと、さらにまたワイワイ盛り上がってくすくす笑い、え~なにかかける?と卓上のコショウや一味や酢をべたべた触って、え~どれにしよ~え~迷う~(笑)と得意の優柔不断を繰り出し何が面白いのかまたくすくす笑ったのち結局、まずは何もかけずにいくわ、と不断の覚悟をしてようやく箸を手に取った。

 

煽ってんのか。

 

こっちは30分並んで、まだ一人分も進んでないんだ。

はやく食え。

その後も女性(にょしょう)は一口食べるごとに謎の盛り上がりを見せ、ペースは遅々として進まない。女性(にょしょう)は食事の際、よく喋る生き物であることが多いが、この二人もそういうタイプで、身振り手振りで大いに盛り上がっている。

油麺(スープの無いラーメン)なので麺が伸びることはなさそうだが、それにしたって冷めて麺の鮮度が落ちるではないか。

むこうの席では怪しげなカップルが座っていて、女がチルチル麺を啜るのを、男がニヤニヤしながら見ている。

男はなにやら知識の話をして、女は「へぇ~そうなんですか!」と相槌しつつ啜る。

男は一生懸命喋り、女は夢中になって麺を啜る。ひじょうな憐れだ。どうやら二人の目的は異なるらしい。

 

どちらにせよ私が言いたいのは、「はやく食え」ということである。

 

 

ようやく列が少し先に進んで、さらに30分くらい待った。

女性(にょしょう)の二人はこの頃になると口をつぐんで、モグ、モグ、と食べていた。驚くべきことに、提供から30分経ってもまだ食べ終わっていないのだ。

あれだけ喋っていたらそりゃそうなるし、ここの麺は並みでも量が多いのだから女性には厳しいだろう。お腹いっぱいで味の濃いものを食べることほどつらいこともない。だからはやく食べるべきだったのだ。こうなると憐れに思えてきた。

一方、カップルはすでに食べ終わっていたが、まだ席に座っていた。

男の方は相変わらずニヤニヤしながら話しかけ、女性はスマホをいじりつつ相槌を安く売っている。

食べ終わったならはやく出て行けよ。ここはラーメン屋、戦場だぞ。

戦場で、塹壕の中で女を口説く馬鹿がいるか。貴様それでも兵士か!

女性だってもうここを後にしたそうではないか。これだからお前は「こんな」なんだよ。

私は空腹のあまり、すでに人類のすべてを憎んで、自己嫌悪に陥り、すべての客の背中を睨み、自分の過去を清算して死にたい気持ちになっていた。明らかに冷静さを欠いている。手ごろな地蔵を破壊して回りたかった。なにが「こういう待ち時間に本を持っていると豊かな気分になれる」だ。悲しいじゃないか。貧しいじゃないか。

カウンターの客共に「圧」をかけた。惡になってもいい。そうも思った。

 

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21時半、ようやく私は席につけた。カウンターは広く、冷たくて清潔だった。

事前に注文していた麺は案外はやく提供され、さっそく欲望のままに貪った。食前に時間をかけたくない。ここまでいくら待ったと思ってるんだ。

なるほど、おすすめするだけあって、美味い。美味い。

 

美味い、が。

 

一時間も世界を憎んで、自分を卑下して、死にたい気持ちになってまで食べるほど美味しいか、と言われるとそうでもない気がする。

なにか、美味しさに邪念が入り込んでくるのだ。

背中がぞくぞくして、至福の味わいを阻害するのだ。

背後を振り返ると、店内に並んだ客が、私の憐れな背を睨みつけていた。

 

「はやく食えノロマ」「男だろ。とっとと食え」

 

そう言わんばかりに。

とてつもない「圧」に文字通り気圧され、これは私が浴びせていた憎しみが私自身に返ってきたんだと、昔話ながらに反省して、とっとと麺をすすり、ただちに店を後にした。

 

夜風が冷たかった。

禿頭恐怖

(すが)内閣の顔ぶれがお爺ちゃんばっかりで、最初写真を目にしたとき、地元老人会の囲碁大会の朗らかな日曜の午後を収めた一枚かとおもってしまったけど、どうやらこれが我が国の新しい内閣らしい。

お手本のようなお爺ちゃんたちばっかりだ。

ひと昔前のギャグ漫画家の描いた想像上の内閣を実写化したような、見事なジジイ大集合ぶりである。

あの集合写真はすごく加齢臭がしそうだし、キリンジの『3』くらい脂ぎってるし、なによりも多少の毛髪の軽さを思わせる人たちばっかりで、ああ嫌だ嫌だ、見ているだけでこちらまで老けそうだ。

政治は「余生」でやるもんじゃないのだよ。

 

   ↓

 

禿げている人を見ると、不安になってくる。

とくに、禿げかけの人。これからまさしく禿げようとしていて、もう止めようもなく荒廃がすすんでいるひと。

雨は降りはじめたら上がるのを待つしかない。自力で雨を止めることは、よっぽど核爆弾でも使わないと不可能だ。

禿げかけている人を見ると、そんなことを考える。

自然には逆らわず、順応した方がいい。身を任せて、自然を利用するのだ。といったサバイバル意識を抱くようになる。

菅内閣の町内会囲碁大会集合写真を見て、前髪が冷えていくような禿頭恐怖を感じた。

 

私は生まれつきおでこが広くて、幼いころからそのことを、あらゆる人から馬鹿にされてきた。

おでこを見せれば「これは将来禿げるぞ」と言われ、髪が伸びるとおでこの「広さ」がむしろ浮かび上がるようになり、変な分け目ができるとそれを見て「ズラですか?」と言われたりして、腹が立つ。

なにに腹が立っているかと言うと、「ハゲ」であるということをさも惡や醜いことやみっともないこととして馬鹿にして、しかもそれで面白いと思って、ユーモアだと信じて誰かが傷つくことを意識もせず「ハゲ」は御上公認のユーモアで人権を得ているとでも思っているその乱暴さと横柄さに対して腹が立っている、わけじゃなく、私は禿げてなどいない、おでこが広いだけなのだ、といくら説明しても「はいはい、そのうちハゲますね」とあしらわれることだ。禿げたら馬鹿にされても仕方がないが。

どのくらいおでこが広いかというと、鮭の塩焼きを一切れ乗せられるくらい広い。よくわからない人は、いますぐ冷蔵庫を漁って鮭の塩焼きの切り身を探しなさい。

 

禿げたら内閣は解散すべきだ。格好悪いから。

「禿げるぞ」と言われ続けた言霊か、最近マジで前髪が薄くなってきてる気がする。

本当に禿げたら、いままで私に「ハゲ」の言葉を浴びせてきたすべての人間のせいだ。

そういった不安を抱くようになるから、菅新内閣は見ていて不愉快である。

『キッチン』を読むということ

本ばなな『キッチン』を再読した。

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これで読み返すのは3、4回目くらいだけど、何度読んでもいつ読んでも、またいずれ読みかえすのだろうなとどきどきして、期待にも似たたしかな予感を抱く、大好きな一冊だ。

 

少ない言葉で、最低限の、しかし最大限の描写をしていて、言葉の置き方に間違いがないから文章がするする頭に入って来るのに情景が子細に脳裏に浮かんでくる。

気温や音や匂いや味わいが記憶の底から呼び起こされ、たとえ経験したことのないことだったとしても鮮やかな実感を伴って目の前の言葉を現実として経験できる、そんな文章だ。

後世にいかに影響を与えたかわかる。

 

天涯孤独になった少女が「女装した父親」という“母親”を持つ少し変わった同級生の男の子の家に拾われる話(表題作「キッチン」「満月─キッチン2─」)や、恋人を喪う絶望的な喪失と生きることについて書かれた話(「ムーンライト・シャドウ」)が収録されている。

二つの話の主人公は女の子で、しかも特殊な状況に置かれていて、その状況がかなり重く、とうてい自分の状況とはかけ離れているのだが、読んでいくうちにこの話はこの主人公の女の子のお話じゃなくて、自分の、私自身の話なのだとおもえてくる不思議さがある。

どういうことか説明しづらいのだが、そういうことなのだから仕方がない。

 

誰しもの心の深いところを流れる細い小さな川に、そっと触れてくれるような物語。

その川はすべての人間に共通の水が流れていて、心の奥深いところから海のような広いところへ流れ出ていく過程で、雨や土砂が交じり合っていく。その雨は慈雨かもしれないし村雨かもしれない。海になったとき、ひとそれぞれ違う形の、色の、味の、海になっている。そういう漠然としたイメージが私の中にある。

この一冊は、普段は意識をしないその川の存在を教えてくれる。ここに流れています、と。

何を言っているのかよくわからないだろう。私にもよくわからない。

 

物語の登場人物は私の知らない人たちじゃない。

遠いところにいる人たちじゃない。

私自身でもあり、誰かであり、誰でもない。

ただただ、『キッチン』を読み終えた後は、自分を愛せるようなあたたかい気持ちになる。

いまの生活を楽しめている自分に気付く。幸せを見つける視界が広くなって、たとえばなんでもない月を見ただけで「ああよかったなぁ」なんておもえて手を振って家に帰りたくなる。

すごくすごく、恋人に会いたくなる。帰ったら抱きしめようとおもう(シャワーに入ってから)。

 

きっと一生涯、読み続ける本になる。

ここの表現がすごくいいよね、なんて恋人と話しながら、そのうちうたた寝をしたりする。