蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

皮膚病の街

なぞの皮膚病にかかってしまい、全身が痒い。

原因が分からない上に市販の軟膏などを塗っても一向に治らないため、皮膚科へ行くことにした。

いちばん近所の皮膚科はそこそこ評判も良いみたいで、「先生が優しく、薬も的確だった」など好評のGoogleコメントも散見されたのでこれは安心だわいと半ばもう治ったかのような気持ちで土曜日に訪れたところ、なんと、診察まで180分待ちだった。

私が皮膚科と勘違いしているだけで、もしかしてビッグサンダーマウンテンに並んでいるのだろうか?

受付のモニターに180分と出ているが、何かの冗談だと思い、受付の人に何分待ちなのか、とぼけた顔で聞いてみると「こちらに表示されておりますように、180分待ちです」とキッパリ言われた。なんの誤魔化しもなく、毅然たる事実として180分とのこと。これは大変なことになったぞ、と思った。

ただ幸いなことに、病院は家から徒歩1分なので、受付番号札を受け取ったら一旦家に帰って寝ることができる。

毅然たる受付嬢に一度帰宅する旨を申し伝え(もし呼ばれた時に不在だったら次の人に回しますから、とこれもまたキッパリと宣言された)、私は家に帰った。

 

私の皮膚は元から弱く、風呂に入るだけで虫刺されのような湿疹が出るのだけど、今回の皮膚病は特にタチが悪い。

最初、目覚めたときに痒さを覚えて、なんだこれはと全身を見渡すとポツポツと赤い斑点ができていて、それぞれがわずかながら熱を持っているのだった。

刺された箇所の状態を調べてみたところどうやらダニっぽかったので、布団を洗い、コインランドリーの乾燥機でシめ、さらにダニ除去パッドを敷き、トドメに布団乾燥機を買って「ダニ殺戮モード」でジェノサイド、掃除機でダニの死骸を排除する等徹底的な対策をしたのだが、痒みは取れない。

痒み止めを塗ってみたものの効果は一時的で、かつ、痒い箇所は日によって変わる。

昨日は背中が痒かったのに、今日はお腹が痒い。また別の日は足が痒い。

ネットで調べられるだけの皮膚病を調べたが、どれにも該当していないようで、強いて言うなら蕁麻疹の症状に近いみたいだった。

蕁麻疹は原因不明の湿疹が全身に現れ、とにかく気長に治るのを待つしかない、という意味不明な病気だ。

足の裏が痒い日がいちばん辛くて、歩くのも平常心ではできない。半ば発狂者のような顔つきで街を歩かねばならないほど、狂おしく痒い。

たかが蕁麻疹といえばそれまでだが、日常に支障をきたしているため、病院へかかることにしたのだ。

 

そろそろ先生に呼ばれる頃だと病院へ向かうと、待合室には人がギッシリ詰まっていて、こんなにも皮膚病の人がいるのかとなんだか辟易とした気持ちになった。

医師はこれからこの人数をさばいていかなきゃいけないのか。ツケ場に立つ寿司職人みたいにリズミカルに、テンポよく済まさないと一日に診察しきれないだろう。はい、はい、はい次、はい次、蕁麻疹一丁、マグロ一丁、ただれ、カツオ、乾癬、バイ貝。嫌にならないのだろうか。

診察室は3つある。3つの診察室に患者を待たせて、先生は一人で部屋を移動して診察する。患者を呼び出して診察室に入るまでの時間のロスをここで削っているのだろうか。効率的なのかどうかはイマイチわからないが、とにかくそういったシステムでやっているらしい。

しばらく待っていると全身を白い布で包んだ先生がパーテーションの向こうから現れ、どうしましたか、と聞く。

私は斑点のあるところを実際に見せて、とにかく痒いのだと訴えた。

先生に背中を見せるとフムフムと観察し、棒のようなもので背中の一部を引っ掻かれた。時間が経って赤くなったのを見てハイハイと一人得心入ったようで、じゃ、お薬出しておくから、1週間後にまた来てね、と言われ、診察は2分で終わった。

病院ってこんなものだ。

 

薬をのんでも良くならなかったので、きっちり1週間後の土曜日も皮膚科へ行くことにした。

病院はオンライン受付もやっているということだったので、診察が始まる30分前にアクセスしたところ、この日は220分待ちだった。

おいっ。

なんで診察前にすでに220分待ちなんだよ。おかしいだろ、論理が。

何かの間違いだと思ったので、徒歩1分の皮膚科を訪ね、受付のモニターを見たところ230分待ちになっていた(この数分のうちに増えていた)。

毅然たる受付嬢にオンラインの受付番号を見せると、まだしばらく呼ばれませんのでどこかでお待ちください、と一切の情けもなく告げられた。モニターは事実しか映していないらしい。まだまだあとの順番なのにどうしてこんなに早く来たんだ、と毅然は言いたげであった。私だってそう思う。

待合室はすでにかなり混んでいて、もっさりとした嫌な雰囲気だった。肌にまとわりつくような薬品の臭い、苦しむ人々の陰気、夏の湿気。

せっかくの土曜日が病院の待ち時間で潰れる。最悪だ。しかし、嫌気はさすものの、仕方がない。病気になるとはそういうことなのだ。苦しむうえに時間を無駄にする。そういうことなのだ。

また一度家に帰り、4時間近く時間を無駄にして過ごした。寝たり、ゲームをしたり、ほんをよんだりして過ごした(いつもの過ごし方と大差なかった)。

13時ごろ再び病院へ行くと、待合室に朝見たときと同じ場所に同じお爺さんがまだ座っていて、いい加減にしろよと思った。

さすがの200分オーバーである。

なんでこんなに皮膚病の人がいるんだ、この街は。

なんでみんな健康じゃないんだ。頼む、みんな健康になってくれ。

 

診察は2分で終わり、新たな薬を出してもらってその日は終わった。

治らなかったらまた来てね、ということだった。

それから1週間以上経った今もまだ治っていないので、今日もこれから皮膚科に行こうと思う。会社の有休をとった(夏休み)。

平日の午前中なら空いているだろうと思ったものの、油断はすまいとオンラインの受付開始時刻の7時から予約をすることにして、しっかり早起きした。

7時15分に受付したところ、170分待ちだった。すでに30人以上が予約している。

おかげで、この暇な時間に、久しぶりにブログを書くことができた。

暗いところで眠るべきだ

最近、まだ眠くてもすぐに目が覚めてしまって疲れが抜けない日々が続いており、まぁそういう時期かと少しだけ悩んでいたのだけど、なんとなく窓のシャッターを閉めて部屋を完全に真っ暗にしたら、ありえないほどぐっすり眠ることができた。

私が眠れなかったのは、朝日がカーテンを透過して、眠りの神経を刺激するからなのだった。

人間やはり暗闇で眠るべき。そういうふうにできている。

それにしても眠りへの集中力が最近落ちていて、深く眠っているときはいいのだけど、浅い眠りになってくると夢の中でも「あ〜これ起きてるわ」みたいな気持ちになって夢の世界を引きずったまま眠りから醒めてしまう。

明晰夢みたいにそのまま夢の世界を好きなようにできたら別にいいけど、そんなことはないし、30歳にもなると不思議な夢なんてそうそう見ないもんで、だいたい現実的な憂鬱を清算するような夢ばかり見る。たとえば夢の中でも仕事をするとか。

夢の中くらい楽しく仕事をしたいものだが、夢とはいえ元ネタは現実で起きたことに引っ張られるからそうもいかないらしい。

しかし、部屋を真っ暗にして、朝日も1ミリも入らないようにしたら、夢さえも見なかった。

久しぶりに深い眠りの世界はなんだか温かくて安全な泥の中にいたような感じだった。

目覚めると頭の中がはっきりしており、すべての感覚がはっきりしていた。

麦茶を飲み、ダイニングの椅子に腰掛け、日曜の朝を感じる。

朝というかもう昼だった。

普段はほっといても起きれるから平日も目覚ましをかけないのだけど、これからはかけておかないと危なそうだ。

人間暗闇で眠り、陽のあるところで動くべき。

昔からそういうふうに生きてきたのだ。

 

エスカレーターの横の善意

デパートのエスカレーターの横に置いてある椅子、あれは善意だ。

お金を払わなくても座っていられる椅子というのは、実は街中ではとても限られた存在である。

身の回りの施設や街を思い返してみてほしい。目を瞑って、最近外でお金をかけずに座った場所を、そのところの空気の匂いを、誰かの声を、思い出してみてほしい。

その座れる場所は「公園」ではないだろうか。

公園にベンチがあることは納得できる。遊具は撤去され、砂場すらも「子どもが来るとうるさいから」という理由で潰され、それでも最後に残るのはベンチだ。

ベンチは老人や疲弊した社会人が座るので、うるさくなりようがない。座る人はそれなりの理由があって座るものだ。

公園とはベンチのためにあるといっても過言ではないだろう。

じゃあ、そのほかの座れる場所は?

オフィスビルのエントランスにあるたぶんビル関係者だけが座っていい椅子、マンションの花壇のレンガ、あまり使われていない階段、地面。

どこも座るには一呼吸入れないと落ち着かない場所だったり、座るための場所ではなかったり、居心地が悪かったりする。

そう、街になんの利害関係もなく座れる場所は案外少ないのである。

 

ここにきてデパートのエスカレーターの横に置いてある椅子、ベンチというもののありがたさがよくわかるだろう。

空調が効いた室内で、とくに買い物をしなくたって座っていていいのだ。

飲み物を飲んでもいいし、お弁当を食べてもいい。読書もOKもちろんゲームも。

ファイナンシャルプランナーや簿記などの資格の勉強をする殊勝な者もいるかもしれない。

とにかくあの椅子は、道徳的な範囲内での使用において何をしてもOKで、無料で、開かれていて、これらの点において公園のベンチと同じなのである。

本来、あそこに椅子を用意しなくてもいい。

椅子のない商業施設もかなりある。

椅子を置いてしまうと私のように誰が座るかわからないし、どんな使われ方をするのか想定は難しく、資格の勉強などを始める人が長居をするかもしれない。

長居をしたとしてもショップで何か購入してくれるならまだいい。何もせず、ただ空調の恩恵に預かる者だっているだろう。

そこに座る人の態度や身なり次第では商業施設自体の品格を下げるかもしれない。

このようなリスクがありながらも椅子を設置するのは、お客様が休憩できるようにという配慮、つまりは気遣いであり、善意によるものなのだ。

座りたいなら施設内のカフェにでも行ってくれ。と唾棄することだってできるのに、椅子を恵んでくださる。

椅子だって無料ではない。買って、設置しているのだ。一銭にもならないのに。

なんて偉いことだろう。

あまりにも立派である。

こうした施しを与えられる人に私もなりたい。

 

私はこれからありがたくあの椅子に座ろう。

座る前に会釈し、立ち上がったら座面を撫でよう。

じゃがいもだと思えばいいよ

今週のお題「じゃがいも」

 

大勢の人の前で喋らなきゃいけないときは緊張するものだ。そんなときは「目の前にいる人はみんなじゃがいもだと思えばいい」。

この言葉の初出がどこかは知る由もないけど、このアドバイスは人口に膾炙していると思う。じゃがいも、またはかぼちゃということもあるだろう。

実際私も小学生くらいのときになんかの場面で教室の前に立って喋らなきゃならず、案の定「じゃがいもアドバイス」を先生からもらったことがある。

しかし、「じゃがいも、じゃがいも」と思って人前に立っても、眼前に広がるのは明らかに自我の確立した人々で、黒いまなこをギロギロさせて、何か訴えたそうに口角をモゾモゾさせているのを見ると、とても奴らがじゃがいもだとは思えなかった。

仮にじゃがいもだとしても、意思があるじゃがいもはほとんど人間と変わらないではないか。人間だってせいぜい「考える葦」なのだ。

 

仮に猫とか犬とか七面鳥の群れの前なら、そんなに緊張はしないだろう。それは、彼らが言葉をわからないからだ。

じゃあ人々のことを犬とか猫とか七面鳥だと思えばいいだろ。そんな声も聞こえる。

鏡を見てほしい。

あなたよりも犬や猫のほうがずっと可愛くて素直そうだ。

私はとても、人間を見て犬や猫とは思い込めないだろう(七面鳥ならあるいは可能かもしれないが)。

まぁこれは「手のひらに3回『人』と書く」と似たようなおまじないだ。

要するに気の持ちよう。

人間なんてじゃがいもみたいな下等生物だし、そもそも誰もお前のつまらない話なんて聞いていないのだから気楽にやれよ、というメッセージが込められたおまじないでありアドバイスなのだ。なにもこんなに辛辣ではないだろうが。

 

それにしてもどうして「じゃがいも」が選ばれたのだろう。

もっとも人間の頭部を形をした想起させる野菜だからなのだろうか。

人間に似ているとより「やっぱ人間じゃん」になりやすいから、もっと離れた野菜のほうがいいと思う。

チョロギとか、ゼンマイとかいいんじゃないか。

アイドルとオタクの関係

アイドルとオタク(ファン)の関係になったら、もうそれ以上の関係性には至れない。

もちろん、誠実なアイドルと誠実なオタクの関係性においての話だけど。

私は誠実なオタクだから、贔屓とは恋人にも友だちにも家族にも同僚にもなれずに、アイドルとオタクの関係性から進展しようがない。アイドルとオタクの関係性ではじまり、アイドルとオタクの関係性で終わる。それがアイドルとオタクなのだ。

あなたが昨日会っていた人の名前や、会社の人に言われたこと、休日に会うお友だちとの会話、どこに住んでいて、親から何を言われて育ったのか、寝る前に聴く音楽、帰り道にある唐揚げ屋のにおい、駅前のパン屋さんのあんドーナツが好きなこと、お互いのことをぜんぶ知りようがない。

いや、誠実な関係でありたい限り「ぜんぶを知ろうとしてはいけない」と思う。

たとえ一目惚れしても相手がアイドルであると知っていたら、その時点でアイドルとファンの関係性でしかなく、一言たった10秒喋るためにはCDを1枚買わなきゃいけなければならず、何かをちゃんと伝えるには今時、お手紙を書くしかないのである。

お話し会でお話ができていてもそこには金銭という交換が行われており、お話会でおしゃべりしているその前提がある限り、「アイドルとオタク」という関係性でしかない。

それは、アイドル側だって同じことなのだ。

交わることのない平行線みたいなものなのに、それだけど確かに、アイドルとオタクは磁力とか引力とかそういったもので繋がっていて、体温よりもずっと熱い温度を共有している。

なんていうか、お互いにお互いがいなければ成立しないのだ。

アイドルとオタクの誠実な関係性は、プラトニックで、ケガレがなく、なんて美しい繋がりだろうと思う。

経済的な関係ではある。しかし、アイドルとオタクでしかなし得ない絆が育まれている。一線を超えた恋人や友だちや家族ではあり得ない関係性がそこには確かにある。

 

自分がアイドルだったら、いつも来てくれていたオタクがライブとかイベントに来なくなったら不安に思うだろう。

オタクを辞めちゃったならそれはまぁ悲しいけど自分の実力不足もあるから仕方がない。でも、重い病気になっていたり、もしかして、亡くなっていたりしたら…?

私はそれを知る由がない。

でも忘れることもできない。

誰か、そのオタクの友だちが教えてくれるまで、何もわからないが、それでも何もないようないつもの顔でステージに立つしかない。

そんなアイドルとオタクの関係が愛おしい。

 

 

チョコミントアイスの功罪

スーパーカップ(明治)のチョコミントアイスが大好きで毎晩のように食べたら、明確に、太った。

なぜ?

理由は毎晩スーパーカップを食べているからに他ならないが、それにしても、手心をくれてもよいではないか。無情ではないか。あなたのせいで私は太ったのに。強く非難する。

チョコミントアイス、とくにスーパーカップは味が軽めに設定されている気がする。ここにまずひとつ、スーパーカップ側の落ち度がある。

重くないから飽きずに食べられるのである。水を飲むみたいに、こう、さくさくっと食べられる。

なんなら、あまり食べた気がしないとすら思う。それくらい軽い。

これでミントが辛くてチョコもたっぷりで激甘だったらひと口ふた口食べて満足していたはずだ。

「今日はここまでにしよう」

と、食べるのを中断して蓋をし、冷凍庫に戻したに違いない。

軽いからどんどん食べちゃう。

軽いから罪の意識もない。

クルマ通りのまったくない信号を無視する習慣が染み付いてしまって、次第にほかの交差点でもクルマが少なければ信号を無視してもいいだろうと思うようになって、最終的には堂々と信号無視する人がいる(見たことはないが)。

スーパーカップチョコミント味は「クルマ通りのまったくない信号」だ。

 

さらにもうひとつ、チョコミントには功罪がある。

それは、チョコミント批判としてよく言われる「歯磨き粉っぽい」味だ。

歯磨き粉っぽい味とはすなわち、爽やかということだ。

爽やかな味だからもちろん、食べると爽やかな気分になる。

皆さんも歯磨きをした後はさっぱりしますよね。それと同じです。

チョコミントを食べると、健康になった、とすら思う。

ああ、よかった、と心が落ち着く。

整う。

ここに重い罪がある。

「チョコミントは罪を感じさせないようにできている」というそもそも論、チョコミントのシステムそのものの欠陥だ。

アイスを食べ終わるとカップの底に「本当によかったのか?」と書いておいてほしい。

そうして初めて私は自省できるだろう。

 

これでも最近はアイスをちょっとずつ食べるように善処している。

食べることをやめればよいではないか、という非難が轟々と聞こえてくるが、私は決してやめないつもりだ。

毎日必死に働いて、辛い思いをし、悲しい気持ちを飲み込み、汗水垂らしてお賃金をようやく手に入れているというのに、それなのに、アイスすらも楽しめないなんて、その方がどうかしていると思わないか。

私たちはモデルでも芸能人でもアイドルでもなく、汗臭い労働者だ。納税し、生活をなんとか守る小市民だ。

そんな人はともかく、健康ならいいのだ。

チョコミントアイスを食べると健康意識もなぜか生まれるし、ちょうどよいではないか。

 

カニ、食われるために進化したのか?

結婚記念日にカニを食べに行った。

結婚記念日にカニである理由はないけど、めでたい日なのだからめでたい何かを食べたい。

そんな日には、足のたくさん生えたカニが縁起もよろしく適していると思われた。(足がたくさん生えていることが縁起がいいのかはわからない。)

結婚記念日なのだからカニくらい食べなきゃ。

我々夫婦は「結婚記念日」という言葉を笠に着てカニを食べる理由を正当化しているフシがある。

 

カニ、普段食べますか?

うちは食べないですね。

義実家からたまにカニ缶を貰えるので、食べるとしたらそれくらい。カニ缶を貰えるだけ恵まれているということも理解しているし、いつも感謝している。

ほじくるタイプのカニは滅多に食べない。

甲殻類のあの足に触れたことなんて人生で数えるほどしかない。

だから、厚みのある焼き物の皿に足がズンと並べられたのがテーブルに来たときはちょっとギョッとした。

あまりにも足すぎる。

我々はこれからこいつらを「食べる」のだ。

血湧き肉躍る。

身もギッシリ詰まっている。こんなに身があるのかというくらい詰まっていた。

カニの身をほじくるツール(カニの身ほじくり器)をどうやって使うのか、どうやって食べるのかよくわからないが、とにかくこれで身を掻き出さないことには始まらないと思って、最初からひたすらに身をほじくり出した。

カニを食べるって地道なことだなぁ……。

しかし途中で妻から、はじめに足を折って身をまろび出してから、後で細かいところはほじくり出して食べると良いと教えてもらい、実際そうしたところ、それが正解の食べ方だとすぐわかるくらい美味しいのであった。

カニ缶のイメージが強いのでほぐした身にどうしても体が馴染んでいたが、このように足丸ごと来ると身の塊を食べることもできるのである。カニ酢につけて口に含むときの幸福感たるや、形容し難い。

こんなに美味しい身をパンパンにしながら海底を横歩きしているなんて、この生き物不埒なんじゃないか。破廉恥な生き物だ。

細かい身をほじくり器でほじくり出す。カニの身ほじくり器というものは大変よくできていて、カニの身を極限までほじくるために最適化された形状をしており、いわばカニの天敵である。

細かい身まで余すことなく食べた。

お造りも素晴らしかった。生の身はつるりとしていて甘く、カニからほと走る汁が旨みの塊そのもので、もはや果物みたいだった。

やはりこの生き物、とんでもなく不埒だ。

こんなに美味しく進化して、何を考えているんだ。

わたしたちを食べてください、と言ってるようなものだ。

啜ってください、ほじってください、かぶりついてください、わたしたちを。

何を考えているんだ、まったく……。

 

カニに不慣れなのでよくわからないのだが、カニにも旬はあるのだろうか。もちろんあると思うのだが、たとえ冷凍だったとしてもこんなに美味しくて、カニのポテンシャルはすごいと思った。

あとこれは本当に余談なのだけど、コースの途中で出てきた海老の天ぷらがべらぼうに美味しかったことを申し添えておきたい。