太宰治の『魚服記』はさらりと読み流してしまうには難しい、なかなか解釈の分かれる短編小説だ。
でもまぁ、とりあえずは一種の民話だと思えば良いのではないかとも思う。
まずはテキストをテキストのまま飲み込むというのが小説を楽しむ第一歩だし、テキストをテキストのまま飲み込めるくらい、太宰の小説は面白みがある。
解釈はその後でいい。
さて、『魚服記』を読んでいて気になったことがある(気になることしかない小説だ)。
それは、出てくる食べ物についてだ。
主人公のスワは山奥に父親と住んでいる少女で、滝のそばの茶屋で「ラムネと塩せんべいと水無飴とそのほか二三種の駄菓子」を売って暮らしている。
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「水無飴」?
水飴なら聞いたことがあるけれど、「水無飴」とは?
水飴があのどろどろした飴だから、「水無飴」は水気のない飴、すなわち普通の麦芽糖みたいなものなのだろうか。
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気になったので調べてみた。
忙しい人のための結論
『魚服記』における「水無飴」とは「今村の水無飴」である。
↓ 以下の記事は暇な人用 ↓
「水無飴」の歴史
「水無飴」について単刀直入に調べてみた。
驚くべきことに、最初に文献で確認ができるのは『日本書紀』だという。
なんと『日本書紀』にはすでに「あめ」が登場していますが、この「あめ」は水あめの事です。
「神武天皇が大和高尾で水無飴を作った」という記述が残されています。
飴の歴史 | 大文字飴本舗
飴=水飴とのことなのだが、しかし日本書紀に書かれているのは「水無飴」なので、「水無飴」は水飴ではないことになるのだろうか?
一方で次のサイトでは「水無飴」=水飴と説明している。
日本における飴の起源は奈良時代初期の「日本書紀」にまで遡ります。
神武天皇が大和の国を平定した際に、大和高尾の地で「水無飴」を作ったという記載があり、当時の製法は明らかになっておりませんが、米を原料とする水飴状の飴と推測されているため、今の米飴のルーツと考えられております。
日成産業株式会社 食品原材料商社
技術的に、現在のような飴は作れなかったっぽいことがうかがえる。
と考えると、「水無飴」とあっても現在のところでいう「水飴」と捉えて問題なさそうだ。
では、『魚服記』における「水無飴」も通常の水飴ということでよいのだろうか?
そもそも『魚服記』はいつの時代設定なのだろうか。
『魚服記』の時代
本文にはこう書かれている。
『ラムネと塩せんべいと水無飴とそのほか二三種の駄菓子をそこへ並べた。』
「水無飴」に加えて、ラムネや駄菓子も売っていたという手掛かりから、ラムネが日本で飲まれるようになった時代がわかれば、作中の時代設定も割り出せるのではないかと思った。この時点で、作中の時代は古代〜近世ではないことがわかる。神武天皇がラムネを飲んだという記述は記紀に確認されていない。
清涼飲料水としてのラムネはペリーの来航とともに日本に伝わったらしい*1。
1860年には長崎で外国人の手によって製造され、日本人が製造を開始したのはその5年後のことである。
玉ラムネ瓶(ビー玉が入ってるラムネの瓶)になって各地に広まり始めたのは1880年代の後半で、1886年の夏は猛暑に加えてコレラという病気が大変流行したらしい。
「炭酸はコレラを撃退する」という噂が広まったことも手伝って、ラムネはとても売れた。
明治20年(1887年)ごろにはラムネは一般的な飲み物になっていたと推察される。
このことから『魚服記』は明治時代中頃以降の話であることがわかった。
もうひとつ時代を特定できるヒントとして、物価がある。
本文に『父親のこさえる炭は一俵で五六銭ももうけがあればいいほうだった』とあるので、明治時代の物価を調べることで『魚服記』の時代を絞り込めそうだ。
それにしても五六銭ということは、木炭は安価な燃料だったのだろうか?明治時代なら、たしかに石炭のほうが高価そうなイメージはある。
話は逸れるけど、竈門炭治郎も炭売りをしていたが、とてもじゃないけど裕福そうではなかった。あれは大正時代だったか。
さて、炭一俵の価格を調べてみたところ、明治3年(1870年ごろ)は30〜40銭であることがわかった*2が、これは地域などにもよるみたいだ。
日用品の価格は現代でもそうであるように、経済状況によって忙しく動く。さまざまなサイトを見てみたが、木炭のはっきりした価格はわからない。そもそも時代によって一俵の単位が揺らいでいたものらしい(すごすぎる)。
高知県宿毛市の資料*3によれば、1貫が明治12年には2.1銭とある。
貫(かん)は俵(ひょう)よりも下の単位ということを考えると、『魚服記』の父親は相当買い叩かれていたか、質の悪いものをおろしていたことがうかがえる。
ちなみにラムネは明治32年時点で一本8銭ということがわかった*4。これも店や地域にもよるだろうが。
茶屋で売るためのラムネを卸しから買ってるなら、炭作るよりラムネを頑張って売り捌いたほうがよさそうなものだ。
明治中期以降のいつの時代か特定することは難しいが、『魚服記』はとにかく近代であることことは確定でいいだろう。
つまり、「水無飴」=『日本書紀』のものかどうかは怪しく、近代日本における「水無飴」を調べなければならない。
太宰が想定していた「水無飴」とは
『魚服記』が発表されたのは1933年(昭和8年)なので、前述のラムネ云々のことを考えるとそれから50年以上経っていたことになる。
では、1930年代に「水無飴」はどのように扱われ市場に流通していたのだろうか?
よもやこの当時も『日本書紀』の「水無飴」だったのだろうか?
調べていくうちに、どうやらそうではないことがわかってきた。
www.akegarasu.com
上記のサイトでは「今村の水無飴」という商品のパッケージを掲載している。
サイトの主人には、昭和16年より前に売られていたのだろうことはわかっているが、それ以上のことはわからないみたいだった。
「今村製菓株式会社」*5について調べてみるものの、詳細情報まではわからず、いくつかのサイトからの複合補足的な情報になってしまう。
広告やパッケージ、看板は現在でもオークションサイトで取引されているみたいで、なんだか昭和レトロの趣がある。
「今村の水無飴」は次のような飴だったらしい。
「『水無飴』始末記」を再読。今村の水無飴は明治時代に、森永のキャラメルに遅れること数年で出たもので、元になっているのは熊本の朝鮮飴(求肥飴、今でも熊本で売っています)だということです。
水無飴とボンタンアメ(山本夏彦の「二流の愉しみ」) | 知鳥楽/ Chichoraku
山本夏彦さんの『二流の愉しみ』という本に収録されている内容らしい。
「水無飴」とは、
「餅米と水飴と砂糖からなり、それをキャラメル大にかためて、それを一つ一つを白いかたくり粉でまぶして、蝋紙のかわりにオブラートで包んだもの。オブラートごと食べる。」
水無飴とボンタンアメ(山本夏彦の「二流の愉しみ」) | 知鳥楽/ Chichoraku
想像するに、素朴な甘さの、原材料に近い味だったのではないだろうか。
今度は朝鮮飴がなんなのかわからないが、そこはいったん置くとしよう。
また、論拠を裏付けるものとしてボンタンアメを製造するセイカ食品株式会社がXでこのようにポストしていた。
また、世田谷区の資料*6でも「水無飴」の記載が見られた。
「捕鼠デーには1疋3銭で買上げ、捕蝿デーには水無飴を差し上げる」と宣伝をしている。この当時、たい焼きが 1 つ 3 銭。水無飴というのは、東京・三田の今村製菓株式会社が明治 40年頃から製造していた飴で、現在の「ボンタンアメ」のような物と思われる。
この記述から当時「水無飴」といえば、今村製菓のものとしてブランド化されていたのではないか、と察せられる。
つまり一般名詞における「水無飴」は『日本書紀』の「水無飴=水飴」ではなく、「水無飴=今村製菓の水無飴」だったのではないだろうか。
また、上記の世田谷区の資料から、少なくとも昭和5年にはまだ「今村の水無飴」が売られていたことが判明した。昭和5年は『魚服記』の発表に近い時代だ。
ところで、当時からボンタンアメもあったし、キャラメルも流行っていただろうから、このソフトキャンディ界隈はかなり熾烈なブランド争いがあったのではなかろうか。
さて、太宰が果たしてこの「今村の水無飴」を想定していたかどうかは、本当のところはわからないが、執筆時期的にも「水無飴」が「今村の水無飴」を想定していた可能性は高い。
『日本書紀』記述の「水無飴」を想定していた説も捨てきれないが、こちらの可能性は低いように思う。もしそうだとしたら、作品におけるノイズになりかねない。水飴や汁飴という言葉を使わずに、ラムネや駄菓子と並列に『日本書紀』の「水無飴」を書くような文章を書く人ではない。
江戸時代頃には水飴は「汁飴」などと呼ばれていたようだし、それ以降の時代にわざわざ1000年くらい前の「水無飴」と呼称を戻したとは考えにくい。残念ながら、水飴の呼称の歴史を調べるには、社会人の休日は短すぎた。
結論
「今村の水無飴」は通称「水無飴」として一般名詞化していて、『魚服記』では「今村の水無飴」を想定していると考えられる。
「今村の水無飴」はたぶん、素朴な甘味のボンタンアメ的なもの。
ブランドの一般名詞化は、たとえば現在でいうところの「コカ・コーラ」が略して「コーラ」と言われているようなものではないか(ペプシ派の意見には耳を貸さなくていい)。
そこから転じて「あの店ではコーラを提供している」と書いてあれば多くの人がコカ・コーラかどうかはともかくとして、黒い炭酸飲料を思い浮かべる(ドクター・ペッパーを思い浮かべる人の意見には耳を貸さなくてもいい)。
いや、でもコーラはそもそも特定のブランドを指す言葉じゃなくて最初から一般名詞だから(コカの葉の飲み物)、このたとえは不適切か(ペプシ派とドクター・ペッパー派のことだけ読んでもらえればそれでいい)。
ともかく、「水無飴」とあれば、当時の読者は「今村の水無飴」的なものを思い浮かべたと言ってもよいだろう。
おわりに
すごい長くなっちゃった。
『魚服記』にはまだまだ気になるところがたくさんある。後半に出てくる「くろいめし」とか。何それ?
いずれまた調べるかもしれない。
結局のところ、水無飴を食べたことがないのでどんなものかはわからないけど、いつか食べられる機会に恵まれたら、『魚服記』を思い出すのだろうな。
底本 岩波文庫『富嶽百景・走れメロス他八篇』(2007年2月15日発行)