蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

暗いところで眠るべきだ

最近、まだ眠くてもすぐに目が覚めてしまって疲れが抜けない日々が続いており、まぁそういう時期かと少しだけ悩んでいたのだけど、なんとなく窓のシャッターを閉めて部屋を完全に真っ暗にしたら、ありえないほどぐっすり眠ることができた。

私が眠れなかったのは、朝日がカーテンを透過して、眠りの神経を刺激するからなのだった。

人間やはり暗闇で眠るべき。そういうふうにできている。

それにしても眠りへの集中力が最近落ちていて、深く眠っているときはいいのだけど、浅い眠りになってくると夢の中でも「あ〜これ起きてるわ」みたいな気持ちになって夢の世界を引きずったまま眠りから醒めてしまう。

明晰夢みたいにそのまま夢の世界を好きなようにできたら別にいいけど、そんなことはないし、30歳にもなると不思議な夢なんてそうそう見ないもんで、だいたい現実的な憂鬱を清算するような夢ばかり見る。たとえば夢の中でも仕事をするとか。

夢の中くらい楽しく仕事をしたいものだが、夢とはいえ元ネタは現実で起きたことに引っ張られるからそうもいかないらしい。

しかし、部屋を真っ暗にして、朝日も1ミリも入らないようにしたら、夢さえも見なかった。

久しぶりに深い眠りの世界はなんだか温かくて安全な泥の中にいたような感じだった。

目覚めると頭の中がはっきりしており、すべての感覚がはっきりしていた。

麦茶を飲み、ダイニングの椅子に腰掛け、日曜の朝を感じる。

朝というかもう昼だった。

普段はほっといても起きれるから平日も目覚ましをかけないのだけど、これからはかけておかないと危なそうだ。

人間暗闇で眠り、陽のあるところで動くべき。

昔からそういうふうに生きてきたのだ。

 

エスカレーターの横の善意

デパートのエスカレーターの横に置いてある椅子、あれは善意だ。

お金を払わなくても座っていられる椅子というのは、実は街中ではとても限られた存在である。

身の回りの施設や街を思い返してみてほしい。目を瞑って、最近外でお金をかけずに座った場所を、そのところの空気の匂いを、誰かの声を、思い出してみてほしい。

その座れる場所は「公園」ではないだろうか。

公園にベンチがあることは納得できる。遊具は撤去され、砂場すらも「子どもが来るとうるさいから」という理由で潰され、それでも最後に残るのはベンチだ。

ベンチは老人や疲弊した社会人が座るので、うるさくなりようがない。座る人はそれなりの理由があって座るものだ。

公園とはベンチのためにあるといっても過言ではないだろう。

じゃあ、そのほかの座れる場所は?

オフィスビルのエントランスにあるたぶんビル関係者だけが座っていい椅子、マンションの花壇のレンガ、あまり使われていない階段、地面。

どこも座るには一呼吸入れないと落ち着かない場所だったり、座るための場所ではなかったり、居心地が悪かったりする。

そう、街になんの利害関係もなく座れる場所は案外少ないのである。

 

ここにきてデパートのエスカレーターの横に置いてある椅子、ベンチというもののありがたさがよくわかるだろう。

空調が効いた室内で、とくに買い物をしなくたって座っていていいのだ。

飲み物を飲んでもいいし、お弁当を食べてもいい。読書もOKもちろんゲームも。

ファイナンシャルプランナーや簿記などの資格の勉強をする殊勝な者もいるかもしれない。

とにかくあの椅子は、道徳的な範囲内での使用において何をしてもOKで、無料で、開かれていて、これらの点において公園のベンチと同じなのである。

本来、あそこに椅子を用意しなくてもいい。

椅子のない商業施設もかなりある。

椅子を置いてしまうと私のように誰が座るかわからないし、どんな使われ方をするのか想定は難しく、資格の勉強などを始める人が長居をするかもしれない。

長居をしたとしてもショップで何か購入してくれるならまだいい。何もせず、ただ空調の恩恵に預かる者だっているだろう。

そこに座る人の態度や身なり次第では商業施設自体の品格を下げるかもしれない。

このようなリスクがありながらも椅子を設置するのは、お客様が休憩できるようにという配慮、つまりは気遣いであり、善意によるものなのだ。

座りたいなら施設内のカフェにでも行ってくれ。と唾棄することだってできるのに、椅子を恵んでくださる。

椅子だって無料ではない。買って、設置しているのだ。一銭にもならないのに。

なんて偉いことだろう。

あまりにも立派である。

こうした施しを与えられる人に私もなりたい。

 

私はこれからありがたくあの椅子に座ろう。

座る前に会釈し、立ち上がったら座面を撫でよう。

じゃがいもだと思えばいいよ

今週のお題「じゃがいも」

 

大勢の人の前で喋らなきゃいけないときは緊張するものだ。そんなときは「目の前にいる人はみんなじゃがいもだと思えばいい」。

この言葉の初出がどこかは知る由もないけど、このアドバイスは人口に膾炙していると思う。じゃがいも、またはかぼちゃということもあるだろう。

実際私も小学生くらいのときになんかの場面で教室の前に立って喋らなきゃならず、案の定「じゃがいもアドバイス」を先生からもらったことがある。

しかし、「じゃがいも、じゃがいも」と思って人前に立っても、眼前に広がるのは明らかに自我の確立した人々で、黒いまなこをギロギロさせて、何か訴えたそうに口角をモゾモゾさせているのを見ると、とても奴らがじゃがいもだとは思えなかった。

仮にじゃがいもだとしても、意思があるじゃがいもはほとんど人間と変わらないではないか。人間だってせいぜい「考える葦」なのだ。

 

仮に猫とか犬とか七面鳥の群れの前なら、そんなに緊張はしないだろう。それは、彼らが言葉をわからないからだ。

じゃあ人々のことを犬とか猫とか七面鳥だと思えばいいだろ。そんな声も聞こえる。

鏡を見てほしい。

あなたよりも犬や猫のほうがずっと可愛くて素直そうだ。

私はとても、人間を見て犬や猫とは思い込めないだろう(七面鳥ならあるいは可能かもしれないが)。

まぁこれは「手のひらに3回『人』と書く」と似たようなおまじないだ。

要するに気の持ちよう。

人間なんてじゃがいもみたいな下等生物だし、そもそも誰もお前のつまらない話なんて聞いていないのだから気楽にやれよ、というメッセージが込められたおまじないでありアドバイスなのだ。なにもこんなに辛辣ではないだろうが。

 

それにしてもどうして「じゃがいも」が選ばれたのだろう。

もっとも人間の頭部を形をした想起させる野菜だからなのだろうか。

人間に似ているとより「やっぱ人間じゃん」になりやすいから、もっと離れた野菜のほうがいいと思う。

チョロギとか、ゼンマイとかいいんじゃないか。

アイドルとオタクの関係

アイドルとオタク(ファン)の関係になったら、もうそれ以上の関係性には至れない。

もちろん、誠実なアイドルと誠実なオタクの関係性においての話だけど。

私は誠実なオタクだから、贔屓とは恋人にも友だちにも家族にも同僚にもなれずに、アイドルとオタクの関係性から進展しようがない。アイドルとオタクの関係性ではじまり、アイドルとオタクの関係性で終わる。それがアイドルとオタクなのだ。

あなたが昨日会っていた人の名前や、会社の人に言われたこと、休日に会うお友だちとの会話、どこに住んでいて、親から何を言われて育ったのか、寝る前に聴く音楽、帰り道にある唐揚げ屋のにおい、駅前のパン屋さんのあんドーナツが好きなこと、お互いのことをぜんぶ知りようがない。

いや、誠実な関係でありたい限り「ぜんぶを知ろうとしてはいけない」と思う。

たとえ一目惚れしても相手がアイドルであると知っていたら、その時点でアイドルとファンの関係性でしかなく、一言たった10秒喋るためにはCDを1枚買わなきゃいけなければならず、何かをちゃんと伝えるには今時、お手紙を書くしかないのである。

お話し会でお話ができていてもそこには金銭という交換が行われており、お話会でおしゃべりしているその前提がある限り、「アイドルとオタク」という関係性でしかない。

それは、アイドル側だって同じことなのだ。

交わることのない平行線みたいなものなのに、それだけど確かに、アイドルとオタクは磁力とか引力とかそういったもので繋がっていて、体温よりもずっと熱い温度を共有している。

なんていうか、お互いにお互いがいなければ成立しないのだ。

アイドルとオタクの誠実な関係性は、プラトニックで、ケガレがなく、なんて美しい繋がりだろうと思う。

経済的な関係ではある。しかし、アイドルとオタクでしかなし得ない絆が育まれている。一線を超えた恋人や友だちや家族ではあり得ない関係性がそこには確かにある。

 

自分がアイドルだったら、いつも来てくれていたオタクがライブとかイベントに来なくなったら不安に思うだろう。

オタクを辞めちゃったならそれはまぁ悲しいけど自分の実力不足もあるから仕方がない。でも、重い病気になっていたり、もしかして、亡くなっていたりしたら…?

私はそれを知る由がない。

でも忘れることもできない。

誰か、そのオタクの友だちが教えてくれるまで、何もわからないが、それでも何もないようないつもの顔でステージに立つしかない。

そんなアイドルとオタクの関係が愛おしい。

 

 

チョコミントアイスの功罪

スーパーカップ(明治)のチョコミントアイスが大好きで毎晩のように食べたら、明確に、太った。

なぜ?

理由は毎晩スーパーカップを食べているからに他ならないが、それにしても、手心をくれてもよいではないか。無情ではないか。あなたのせいで私は太ったのに。強く非難する。

チョコミントアイス、とくにスーパーカップは味が軽めに設定されている気がする。ここにまずひとつ、スーパーカップ側の落ち度がある。

重くないから飽きずに食べられるのである。水を飲むみたいに、こう、さくさくっと食べられる。

なんなら、あまり食べた気がしないとすら思う。それくらい軽い。

これでミントが辛くてチョコもたっぷりで激甘だったらひと口ふた口食べて満足していたはずだ。

「今日はここまでにしよう」

と、食べるのを中断して蓋をし、冷凍庫に戻したに違いない。

軽いからどんどん食べちゃう。

軽いから罪の意識もない。

クルマ通りのまったくない信号を無視する習慣が染み付いてしまって、次第にほかの交差点でもクルマが少なければ信号を無視してもいいだろうと思うようになって、最終的には堂々と信号無視する人がいる(見たことはないが)。

スーパーカップチョコミント味は「クルマ通りのまったくない信号」だ。

 

さらにもうひとつ、チョコミントには功罪がある。

それは、チョコミント批判としてよく言われる「歯磨き粉っぽい」味だ。

歯磨き粉っぽい味とはすなわち、爽やかということだ。

爽やかな味だからもちろん、食べると爽やかな気分になる。

皆さんも歯磨きをした後はさっぱりしますよね。それと同じです。

チョコミントを食べると、健康になった、とすら思う。

ああ、よかった、と心が落ち着く。

整う。

ここに重い罪がある。

「チョコミントは罪を感じさせないようにできている」というそもそも論、チョコミントのシステムそのものの欠陥だ。

アイスを食べ終わるとカップの底に「本当によかったのか?」と書いておいてほしい。

そうして初めて私は自省できるだろう。

 

これでも最近はアイスをちょっとずつ食べるように善処している。

食べることをやめればよいではないか、という非難が轟々と聞こえてくるが、私は決してやめないつもりだ。

毎日必死に働いて、辛い思いをし、悲しい気持ちを飲み込み、汗水垂らしてお賃金をようやく手に入れているというのに、それなのに、アイスすらも楽しめないなんて、その方がどうかしていると思わないか。

私たちはモデルでも芸能人でもアイドルでもなく、汗臭い労働者だ。納税し、生活をなんとか守る小市民だ。

そんな人はともかく、健康ならいいのだ。

チョコミントアイスを食べると健康意識もなぜか生まれるし、ちょうどよいではないか。

 

カニ、食われるために進化したのか?

結婚記念日にカニを食べに行った。

結婚記念日にカニである理由はないけど、めでたい日なのだからめでたい何かを食べたい。

そんな日には、足のたくさん生えたカニが縁起もよろしく適していると思われた。(足がたくさん生えていることが縁起がいいのかはわからない。)

結婚記念日なのだからカニくらい食べなきゃ。

我々夫婦は「結婚記念日」という言葉を笠に着てカニを食べる理由を正当化しているフシがある。

 

カニ、普段食べますか?

うちは食べないですね。

義実家からたまにカニ缶を貰えるので、食べるとしたらそれくらい。カニ缶を貰えるだけ恵まれているということも理解しているし、いつも感謝している。

ほじくるタイプのカニは滅多に食べない。

甲殻類のあの足に触れたことなんて人生で数えるほどしかない。

だから、厚みのある焼き物の皿に足がズンと並べられたのがテーブルに来たときはちょっとギョッとした。

あまりにも足すぎる。

我々はこれからこいつらを「食べる」のだ。

血湧き肉躍る。

身もギッシリ詰まっている。こんなに身があるのかというくらい詰まっていた。

カニの身をほじくるツール(カニの身ほじくり器)をどうやって使うのか、どうやって食べるのかよくわからないが、とにかくこれで身を掻き出さないことには始まらないと思って、最初からひたすらに身をほじくり出した。

カニを食べるって地道なことだなぁ……。

しかし途中で妻から、はじめに足を折って身をまろび出してから、後で細かいところはほじくり出して食べると良いと教えてもらい、実際そうしたところ、それが正解の食べ方だとすぐわかるくらい美味しいのであった。

カニ缶のイメージが強いのでほぐした身にどうしても体が馴染んでいたが、このように足丸ごと来ると身の塊を食べることもできるのである。カニ酢につけて口に含むときの幸福感たるや、形容し難い。

こんなに美味しい身をパンパンにしながら海底を横歩きしているなんて、この生き物不埒なんじゃないか。破廉恥な生き物だ。

細かい身をほじくり器でほじくり出す。カニの身ほじくり器というものは大変よくできていて、カニの身を極限までほじくるために最適化された形状をしており、いわばカニの天敵である。

細かい身まで余すことなく食べた。

お造りも素晴らしかった。生の身はつるりとしていて甘く、カニからほと走る汁が旨みの塊そのもので、もはや果物みたいだった。

やはりこの生き物、とんでもなく不埒だ。

こんなに美味しく進化して、何を考えているんだ。

わたしたちを食べてください、と言ってるようなものだ。

啜ってください、ほじってください、かぶりついてください、わたしたちを。

何を考えているんだ、まったく……。

 

カニに不慣れなのでよくわからないのだが、カニにも旬はあるのだろうか。もちろんあると思うのだが、たとえ冷凍だったとしてもこんなに美味しくて、カニのポテンシャルはすごいと思った。

あとこれは本当に余談なのだけど、コースの途中で出てきた海老の天ぷらがべらぼうに美味しかったことを申し添えておきたい。

先生の乳首

大学生のころにぼくが心酔していた先生は、夏になるとたいてい乳首が透けていた。

日本文学の先生で、キッと切り立った岩山のように強い志を持ち、ときに厳しくも愛情を持って学生に接し、長い髪をひと束にまとめて教壇に立つ、学生を導く革命家のような人だった。

だが、先生の乳首はいつもシャツから透けていた。

念のため言っておくと、先生は「男性」である。念のため。

 

誰かが先生に乳首が透けていることを教えたほうが良いのではないか。

先生は高そうなジャケットを脱ぐと教壇の上に大雑把に置き、白いTシャツから乳首を透けさせる。クロムハーツの指輪や重そうなネックレスよりも乳首は自己主張が激しく、まるで学生を睨む第二・第三の眼(まなこ)のようだった。

なんて黒いのだろう。

信者たるぼくはいつも教室の前方の席で講義を受けていたが、ギッと睨まれると萎縮するのであった。

先生、肌着を着たほうがよいと思われます。

しかし、挙手してそのように訴える者は一人としておらなかった。

先生は苛烈で虎のように獰猛であり、かと思えば文学者らしく芍薬の花のように繊細なのである。もしそんなことを言ったら……。想像しただけでゾッとする。

授業が終わると学生たちはヒソヒソと「今日も透けてたな」などと囁いて笑う。授業中にこのようなヒソヒソ話をしようものなら一発で退場、即火葬なので雑談は必ず授業後と決まっていた。

たしかに今日も先生の乳首は透けていた。

だが、本当に「それだけ」だろうか?

先生はただ闇雲に乳首を透かしているのだろうか?

あの碩学(せきがく)たる人が乳首をむざむざ日の光の下に曝すとは到底思えない。

これは先生からのメッセージなのではないか?

だんだんとぼくはそう考えるようになった。

当時、ぼくは教室に友だちと呼べる人がまったく居なかった。居ないというか、そういう関係性を持てるような優れた人間性ではなかった。そうした人間性に目を向けて諦念を抱けるようになったのはこの数年だが、当時はそんなメタ認知をしていなかったため、「ぼくに友だちがいないのは、ぼくが悪いのではなく、周囲のレベルが低いからだ」と断定し、迎合をよしとしなかった。そんなことだから友だちがいなかったのだろうと、今ならよくわかる。

周囲が先生の乳首を笑う中、ぼくは先生をさらに崇拝するようになった。

そうしてある日、孤独なぼくは、先生の乳首からメッセージを受け取ったのである。

「孤独ではなく、孤高であれ」

 

乳首が透けているからなんだというのだ。

先生はいつだって胸を張って、肩で風を切って歩いていた。

「堂々と自分らしく生きろ」

先生の生き様はまさにその言葉通りのものだ。

学問をする理由の究極のところは、人間とは何か?を追求し、自分とは何であるか?の答えを出すところにある。これはアリストテレスのいた時代から共通するところであり、あらゆる学問は結局、「人間」に向き合って、人間を究めようとしている。

文学はその最たるものだと先生はよく仰っていた。

自分とは何か、その問いを追求する者が自分自身をまったく持っていなかったらどうなるだろう。その問いを究めるには圧倒的な「自己」が必要なのである。

乳首はその象徴的なものなのだ。

ふつう誰だって乳首が透けるのは恥ずべきものであるが、先生は隠さない。

「そんなことをどうとも思っていない私」が確立している証拠、それこそがあの乳首なのである。

圧倒的な自己。揺るぎない自我。

それはまさに孤高である。

 

あれから数年。

先生は今もお透かしになられているのだろうか。もう最後にお会いしてから8年近くの時が経とうとしているのだから、先生の気持ちが変わってしまっている可能性もある。

「乳首が透けていることは必ずしも自己の確立ではない」

先生は肌着を着ておられるかもしれない。

でもそれは少し寂しいな、と懐古の念を抱く。

 

先生の乳首は今でも透けていますか?

今年もまた、夏が来る。