蟻は今日も迷路を作って

真面目な話からそうでない話まで。本当の話から嘘の話まで。蟻迷路(ありめいろ)という人が書いてます。

高度に発達した科学は魔法と区別がつかないのなら

学を信じるのをやめようと思った。

科学は信じるもなにもなく客観的な事実と普遍の理論と誰でも実証可能な論理を意味する言葉だが、タイトルの「高度に発達した科学」とはいわゆる科学技術のことを指し、いま身の回りにあるすべての人工物やあなたの読んでいるこの文章を表示させている端末を示す。

私はこの科学技術を、信じないことにした。

論理や電気信号や金属の塊でできているのではなく、なにか不思議な、未知の仕組みでできている魔法の物体と思うことにした。

いや、そう思わざるをえないのだった。

 

電子計算機(コンピュータ)の勉強をしていると、ある地点で「これ魔法じゃね?」と思うようになる。

コンピュータの仕組みは、かなり大雑把に説明すると、0と1の電気信号によって構成されている。0と1とはつまり「無い」と「ある」の言い換えで、なんの有無かと言うと電気信号、要するに電気のONとOFFである。回路に電気が通ったり通らなかったりするその一連の組み合わせである。かなり語弊があるがそんな感じだという。

超高速でONとOFFを繰り返し、その組み合わせと、論理演算だけでこれだけのいろいろなことができるのだ。もちろんこれだけではなく、イロイロとやってくれる仕組みがある。そのひとつひとつを論理的に、構造的に、説明ができる。なぜなら人間が作り出したものだから。

説明はできるけど納得ができない。

「これにはこういう性質があって、これとこれを組み合わせるとこういうことができるよ」なんて説明はわかるけど、どうしてそれができるのかわからない。例えるなら、水は100度で沸騰するのはわかるけど、どうして「沸騰」が起こるのかがわからない。

部品ひとつとってもそんな感じで、ふと目線を上げてみるとコンピューターというとてつもない道具がある。

動作している仕組みはわかるけど、どうして動作しているのかがわからない。

「科学」という名前なだけでこれは言い換えれば「魔法」なのではないか?

 

説明不能のものを魔法と称するのであれば、この科学文明は魔法文明である。

高度に発達した科学は魔法と区別がつかない。

おとぎ話の「魔法」でできることを現代では大抵再現できている。あらゆる「仕組み」は論理的説明が可能な説明不能だ。

「システム」という「魔法」の世界。

 

見渡せばこの世は魔法で溢れている。

スマホ。なんですかこれは?こんな薄い……金属なのかこれは?プラッチック?わからんけどなんか薄い板に……なんかいろいろ映る……ネットワークを通じて。

そもそもインターネットってなんだよ。どういうことだよ。いや、わかるんですけどね、繋がってるということは。そもそも「電波」が意味わからない。「電波」って「魔力」の言い換えだろ。

ラジオですらよくわからない。たぶん簡単な構造なのだと思う。初期の原始的なラジオとか無線機とか「電波」を使った最初のやつって簡単な作りだろうし説明してもらえれば構造だって理解できると思う。でも、なんで、その構造で無線になって言葉を送り合えるのか、受信ができるのか、よくわからない。

「こういう素材でね、」と言われても……。そりゃそうなんだけど、じゃあその素材がなんなんだよ。「こういう特性があってね、」うん、そうなんだけどさ……。

なぜ?なぜ?を突き詰めていった先にある答えがどうしても説明不能。核心をついてこない。

なぜ存在できるんだ。

 

自分の存在すらも魔法に近い奇跡に思えてきた。

受精卵が細胞分裂を繰り返して私になった。それはわかる。精子卵子だった。それもわかる。DNA情報が人間を形作った。わかる。DNAには遺伝情報が……ぜんぶわかるよ。

「そういうもんだ」で片付けてしまえば楽だけどさ、で、実際「そういうもん」としか言いようがないけど、どうして「そういうもん」になってるのかがわからない。

私にはなにもわからない。

怖い。世界が怖い。

怖い怖い怖い怖い怖い怖い。

焦るわ。

「そういうもん」の集積が私?

魔法生物じゃん。

 

江戸時代からタイムスリップしてきたような気分だ。摩訶不思議な鬼の力を行使しておるとしか見えぬ。なぜ釦ひとつで炊飯ができるのだ。なぜ天井がぴかぴか光っておるのだ。わからぬ、わからぬ……。

なんだこの筆は。ボオルペンと申すのか?インクという墨汁が入っているのだな?これで文字が書けると?馬鹿な。毛筆ではないじゃないか。拙者を愚弄するか?こんな鬼のものを使えるか。切るぞ。

御免。

その点、暴力は良い。論理もなくシンプルで。殴れば痛み。切れば赤。したたる姿は血染め夜叉。

 

ギターは抱きしめて弾く

いきんまたギターを触りはじめて、特にソロギターの練習をしている。

ソロギターというのは簡単に言えばバンド編成の楽曲やオーケストラ曲をギター1本で弾こうという試みのことである。歌(メロディ)と伴奏とベース音階を一人で同時に弾くのだ。

そんなことが可能なのかと知らない人は首をかしげるだろうが、可能なのだから仕方がない。弾いている自分でもなぜできるのか説明は難しいが、たとえばピアノがメロディと伴奏とベースを同時に弾いているのと同じようなものだ。それは当然と言えば当然で、すごいと言えばすごい。

ギターは弦が6本しかないし、音階もピアノほど広くないけれど、ギター1本あればあらゆる音楽をギターらしく再現でき、できることは実質ピアノに近い。

それにピアノよりも小さくて体に抱えられるし、耳触りの丸い、温かい夜みたいな音がする。胴体で共鳴している木の音がする。ホール(穴)から木の香りがする。

つくづく優秀な楽器と思う。

スピッツのバンドスコア(ボーカル、ギター、ベース、キーボード、ドラムスの譜面が収録された楽譜)を睨みながら、メロディを拾い、ベース音の必要な箇所と合わせ、隙間を和音で埋め、もちろんすぐに弾けるわけないので半小節を何度も繰り返して指先に音を覚えさせる。

地味だけどその繰り返しが心を丁寧な調子にチューニングしてくれるのだ。

 

村上春樹の『ノルウェイの森』で登場人物の女性がクラシックギターを弾く場面がある。

ビートルズの「ノルウェイの森」とか「In My Life」とかバッハのフーガを弾いてくれる。(「In My Life」を弾いていたかどうかは記憶が怪しいのだが、個人的には弾いていてほしい曲だ)

自分を慰めるようにギターを奏でる。たとえばある時は言葉よりも雄弁になにかを伝えようとする。

物語の終盤、彼女が主人公の家に来たときは、自分の弾けるだけの曲をありったけ弾いてみせる。

ギターの音の中にしっぽりと身を沈めていくとき、かの小説のギターを思い出す。レイコさんが主人公と直子のために奏でた楽器の温かさと寂しさに思いを馳せる。

下手くそでも音は響くものだ。

 

ギターって抱きしめながら弾くから好きだ。

音の温もりがお腹から入ってくる。

あなたも誰かの「縁起がいい人」

所のいちばんよく行くスーパーのパンコーナーは充実している。カレーパンとか あんぱんとかメロンパンなんかがスタンダードだけど平均点を超えてくるシロモノに仕上がっているため、夜の値引きを狙ってよく物色している。

美味しさの秘密は何かというと奥に工房があってそこでちゃんと焼成してるんですね、だから出来たてで美味しいし、なんか、人間の温もりみたいな味すら感じられる。値引きされる頃には冷めきっているのだけど、それでも美味しい。手作り感があるから。

もうひとつある近所のスーパーのパンはいかにも東京中央にある巨大パン工場で工場的に生産されました、って顔して並んでいて、むろん、機械的な味がする。そこに温もりは無く、イースト菌たちが整然と醗酵して、どこか自信なさげだ。美味しくもないけど不味くもないし腹は満たせるけど心は満たせませんよって卑下を含んだ情けない自尊心がパンコーナーそのものに現れている。

よく行く方のスーパーのパンコーナーと比べたら、もうひとつのスーパーが自己卑下するのも仕方がないだろう。

 

その、私がよく行く方のスーパーのレジに、ひそかに私が縁起を担いでいる人がいる。

年のころは三十代前半と見られる女性で、マスクをしているので素顔はわからないものの、声の小ささからして小心者には違いなく、たとえばTIKTOKをやっているタイプには見えない。(もちろんTIKTOKは誰がやってもいい)

愛想はどちらかといえば悪い方で、客を値引きされた腐りかけのイカ程度にしか見ていない。そんな目つきをしている。

しかしこの無愛想な店員がなぜ縁起が良いのかというと、彼女は、私がこの街に引っ越して初めてこのスーパーに来たときにレジを担当してくれた方なのである。

当時、彼女の名札には「研修中」のシールが貼ってあって、私と同じく新参者だったことから、なんとなく勝手に親近感を覚えた。

そうか、この街に新しいのはなにも私だけではないのだ。

この人だって初めてのレジなのだ、と。

以来、引っ越した当時に思いを馳せたいがために彼女のレジに並んでいる。店員からしたらはた迷惑な話と思われるだろうが、なにもスキャンを通すたびに柏手を打つわけでもないし声をかけたことも無いので、せいぜい「こいつよく来るな」程度の客と認識されているだろう。

「値引きパン太郎」

そんなあだ名で馬鹿にされていてもおかしくない。

 

だが、縁起が良くなったのはこれだけが原因ではない。ここまではただのシンパシーを勝手に抱いた店員でしかない。

当初はスーパーに行けば彼女がレジスターに拘束されていたのだが、ここ数か月、とんと姿を見なくなったのである。シフトを減らされたのかもしれない。

彼女が「縁起物」になったのは、ここ最近シフトを減らされてからだ。

他の店員と違ってそもそも特別な存在だったうえに、遭遇率が下がったことでレア度が増して、私の中でそのぶんありがたい(有難い)存在になったのである。

たまに、稀に、レジにぬぼーっと立っている姿を見かけると嬉しくなる。

あなたもまだこの街に生きているのですね。

そんな親近感を覚える。

彼女に商品をスキャンしてもらって金額を提示され、それでなにか私の生活に花がもたらされたことは今まで一度もないし、きっとこれからもないだろう。

ただただ、よかった、と思うだけのかすかな縁起なのだ。

生活の幸せってそういう小さな縁起のエネルギーに支えられているから、これでいいと思う。生活に花はなくとも、それだけが豊かさではないのだ。

彼女は私のなかでひそかに、縁起の良いお守りになっている。

 

 

と、ちょっといいかんじの話でまとめようとしたけど、よくよく考えないまでも全然知らない人に自分が縁起を担がれていたとして、それはひじょうに気味の悪いことに思えてきた。

怖い。

もしも私が通りすがりの誰かに「アイツを見ると一日が健やかになるんだ」などとひそかにブログなどに書かれ、誰かの中でイメージの「私」が所有されていると思うと、こりゃ縁起でもないと我ながら噴飯の他ない。

 

噴パンの他ない。

石けん の ふしぎ

けん工場の動画を見るのが好きだ。
「好きだ」と書いたけどそれは「靴下工場や耳かき工場の動画を見るよりは比較的に好き」レベルのもので、いつか石けん屋さんになりたい少女に相当する熱意があって石けん製造の現場を視察しているわけではないし、私が恋人へ向ける愛情が100%だとしたら石けん工場の動画へ向ける好意は調子が良くてもだいたい12%くらい、靴下工場への好意が7%なので、「好き」とは言い条はっきり申し上げるけど先述の「好き」は「嫌いではない」という程度の意味合いだから、もはやこの文章を消して他の話題を書いたほうが良いかもしれない。


石けんの生産を見ていると何とも言い難くもどかしくなる。
大鍋で油とカセイソーダを煮込み、なにやら機械でゴソゴソすると粒状の石けんの素が出てきて、その後もなんやかんや複雑かつ繊細な工程を経て、細長く成形された石けんが四角く裁断されパッケージに詰められる。

この最後の工程、「細長く成形された石けんが四角く裁断され」るところが見ていてひじょうにもどかしい。

マットな質感だが象牙質の光沢をはなち、四角く並べられた様はチョコレート牛乳羊羹(そんなものはない)のような見た目で美味しそうなのだ。

口に入れたら常温でもちょっと冷たくて、甘さは意外と控えめなんだけど風味が甘いからどちらかと言うとお茶に合うんだろうな。

石けんを食べたことないからわからないけど、たぶん ういろうに近いんだろうな。ういろうも食べたことないけど。

この異国のお菓子はチョコレートともちょっと違くて、板チョコよりもつるりとしてさっくりした歯ごたえだし、素材の甘みが強いんだよね。

原産地だと頻繁に食べられてるんだけど、日本じゃあまり馴染みがない。現地のサボテンの花から絞ったお茶とバツグンに合うので、ぜひ旅行の際には食べてみてください。(カルディで前に売ってるのを見かけたけど今もあるのかな……?)

 

石けんのその最後の製造過程を見ていると、食レポしたくなる。

見慣れない異国のお菓子のような雰囲気だ。

そんな雰囲気なのに、実体は石けんである。これがもどかしい。

あの見た目で食べられないって嘘だろ?

小さい子どもが風呂場の石けんをちょっと食べてしまって苦くて泣きだす、みたいな話を聞くけどその気持ちがよくわかる。

とくに新品の石けんは美味しそうだもの。

石けんのアルカリ性のにおいがしていても、なんかそういう食べ物に見えるもの。

食べれないくせに食べれそうでしかも美味しそうな見た目をしてるこの錯誤が私を混乱させて、石けんを不思議な存在へと昇華させる。食べれないというだけで不思議でもなんでもない化学物質なのだが、どうしても納得できない。

 

さっきから「石鹸」でも「せっけん」でもなく「石けん」と書いているのにも理由がある。

「石けん」と見ると、一瞬、「石(いし)……?けん……、あ、石鹸のことか」となりませんか?

なるんですよ。

「せっけん」の音イメージに石の要素が希薄だし、見た目も石よりか異国の菓子だから「石けん」と書かれると理解がほんの一瞬遅れるんですね。

私が「遅れる」と言ったら遅れるんだこの世界は。

 

私が「食べれる」と言ったら食べれるんだ。石けんは。

 

タスクバーは忙しさ指標

ードな一日、それはついてない一日だ。

とにかくやることが多くて一度にいくつものタスクを掛け持ちしていると、だいたい午前11時ごろには「今日は残業するな」と確信する。

15時ごろになれば「これは20時コースだな」と正確な時間までわかってくる。

でも仕事を切り上げる時間は自分次第なので「何時までコース」は仕事がいつ終わるかではなく仕事をいつ終わらせるかの、自分の中の我慢の限界時間でしかないのであまり参考にならない。仕事は終わるかではなく、終わらせるかどうかだからだ。

 

忙しいと川を流される落ち葉のように時間があれよあれよと進んでいく。

自分のタスク、やるべきことがあるのに後輩に「ちょっといいですか?」と訊かれる。ちょっといいわけないのだが、自分が先輩にきつく当たられた経験を反芻して、できるだけ笑顔で「どうした?」と話を聞いてやる。

話を聞くと、けっこう厄介なものを抱えている。

けっこう厄介だが、後輩一人の頭脳でもなんとかなりそうなタスクではあるので、ヒントを与えてやる。

「うーん、ちょっと考えてみます」と言ってパソコンを抱えて引き下がる後輩。彼女が考えている間に私は自分のタスクをすすめる。これが狙いだ。

すすめたいのだが、次の瞬間、問い合わせの電話が鳴って作業は中断される。

「以前、作業を実施していただきましたこの案件なのですが──」と電話の相手。去年やった仕事なんて忘れたよ。今更何の用だよ。

話を聞いてやり、解決策を導き出す。

それはもう、思考ではなく反射的な手段。経験から即座に出てくる対応策。AといえばB、北といえば西、川といえば山、カレーといえばライス。

それがうまくいかなければまた別の策を繰り出す。

 

ハードな一日、それはついてない一日だ。

私の対応策はことごとく潰され、時間を目一杯使ってなんの進展もなかった。頼りの先輩方も既にログアウトしており、あろうことか後輩はまだ悩んでいる。彼女が抱えるタスクもいくつかあるのだが、並列処理が苦手なのでせき止まってしまっている。

とりあえず問い合わせについてはいったん切り上げて、後輩には明確な解決策を与える。はっきり言ってがっかりしたのだが、先輩として教育が悪かった責任もある。

私が本来片付けねばならなかったタスクはここから巻き返して終わらせられる。残業はまだまだ続くけど頑張ろう。そう思った時だった。

「あの、もうひとついいですか……?」

いいわけがないのだが、情けない先輩として笑顔で「どうした?」と聞いてやる。

 

それからいろいろあったのだが、後輩は30分残業をして帰り、私は「もうひとついいですか……?」を片付けるべく居残り、どうして後輩のものを私が引き受けていて彼女が先に帰ってしまったのか納得がいかなかったが、まぁ、彼女がいたところでなんの足しにもならなかったので合理的と言えば合理的だな、とちょっと腑に落ちたりもして、その思考が後輩には残っていることが腹だたしくもおかしくてマスクの下で笑っちゃったんだけど、それにしてもコレめちゃくちゃ難しいな、なんでこんなアホ難しいのを誰にも連携しないまま抱えてたんだよ、もう泣きそうだよオレでもどうしようもないよコレ、え、もう19時半?うそでしょ、ああ、ユーザーが待ってるよ、え、これ死?詰んでるやつ?え、え、え、

 

ハードな一日、それはついてない一日だ。

なんの成果も挙げられず、ただ時間をいたずらに消費し、課題を残しまくったまま一日が終わる。

タスクバーにありとあらゆるファイルとフォルダが開きっぱなしになっている光景が、その日の壮絶さを物語っていた。

 

インベーダーゲーム/プリンアラモード/意外な才能

フェに寄ってみたら、テーブルがゲーム台だった。

プリンアラモードを注文し、懐かしのインベーダーゲームで遊んだ。

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懐かしの、と書いたけど私はカフェのテーブルがインベーダーゲームだった時代を生きていないので懐かしいというよりむしろ新鮮だった。だってテーブルの面がゲーム画面なんですよ。下にブラウン管が入っていて、ちょうど膝の辺りにコントローラーが並んでる。邪魔じゃないか。

100円で1ゲーム遊べて、彼女と対戦した。

コントローラーに年季が入っており、レバーにかなりアソビがあって正確に動かせない。

それでも1戦目は私が勝利を収めた。特に説明せずともルールを理解した彼女は「もう1戦やろう」と言い、今度は私を圧倒した。天才、というやつを見た気がした。

 

インベーダーゲームは友だちの家のスーパーファミコンで何度も遊んだことがある。シンプルゆえに優れたゲームだ。

ゲームの黎明期はカフェのゲームテーブルで100円玉を積んでこぞって並んでこれをやっていたらしい。私の母もその一人で、何時間も遊んでいたという話を聞いた。母はゲームにハマると狂人的にハマるので、それで時間と金を空虚に浪費したらしい。

シンプルなゲームはシンプルだからこそ飽きがこないものだ。私も一時期マインスイーパーにハマっていて、パソコンで一日数時間遊んでいたことがあるので、母の血を受け継いでる。

ブロック崩しとか、ソリティアとか、単純ゆえの魅力がある。

 

記念物的なテーブルでインベーダーを遊び、無形文化財的なプリンアラモードを食べた。

スプーンをさすと密度を指先に感じるかたさ。プリンはかたいものが好みなのでまずこの段階で嬉しい。小さな匙の先でぷるん、と揺れるその重さが幸福だ。

カラメルの苦味がプリンのほのかな甘みを際立たせる。甘いホイップクリームと缶詰のフルーツがプリンを邪魔せずに色めき立たせる。

プリンアラモードより美味しいものなんていくらでもある世の中だけど、プリンアラモードの美味しさと嬉しさはプリンアラモードしか持ちえない。

 

食べ終わったあとにもう3戦遊んだ。すべて負けた。

雪、ふるふる

宅勤務中に、ふと窓外へ目をやると街が白く染まっていた。雪だ。

私が涙を流すときと同じくらい静かに降るから、まったく気付かなかった。どおりでいつにも増して寒いと思っていたのだ。在宅勤務は下半身丸出しでやっているのとは関係なく。

 

雪が降ったらとりあえず外に出なければいけない。定時に仕事を切り上げて、パソコンを片付ける。

パーカーを羽織って外へ出ようとしたが、流石にこれでは寒いだろうと思い直してズボンを履いた。

 

まだ誰にも踏まれていない新品の雪がそこら中に積もっている。掬い上げられるほどの雪は久しぶりだ。燃えるように白いのに触れると脳髄が痺れるほど冷たくて、それがなんだかやたらに嬉しい。

見慣れた景色が非日常に染められていく。

街灯の明かりがロマンチックに見える。

いつもよりまばらな人影が孤独感を増している。

街から音が消えた。

雪は鳴かない。

ズボンを履いたとはいえ薄着で出たことを後悔した。私は自分のことを犬だと思っているのでこれしきの雪、むしろ熱烈歓迎と甘くみていたのだが、実のところ人間なのでさっそく指先がかじかんできたし、アゴが小刻みに震えて、どうしてかちょっと眠くなってきた。体温が失われているのだ。

 

尻尾を垂らしてハウスに戻ったが、ふと思い立って雪だるまを作ろうと決めた。

アパートの階段の踊り場に雪だるまを設置しておけば、仕事帰りの彼女が喜ぶに違いない。私はそういうサプライズが得意だし、自分でも結構、いい男だと自負している。

駐車場で雪を集めて丸め、一個は大玉スイカくらいの大きさに、もう一個はソフトボールくらいの大きさに形を整えて踊り場に運び、日陰となる角に設置しておいた。そこなら雪が降り積もって雪だるまが埋もれることもないし、日中は他の場所と比べて日照時間が極端に少ないため苔が生えてるほどの日陰になるのでしばらくは楽しめるだろう。

真っ赤になった指先を擦り合わせながらもサプライズの手応えに口角を歪ませて自分の部屋へ戻った。

 

帰宅した彼女は積雪に対してちょっと怒っており、帰り道がどれだけ大変だったかを興奮気味に話した。すぐには帰れなかったこと、会社が帰してくれなかったこと、在宅勤務の私を羨んだこと、雪道で滑りかけたこと、寒すぎること、などなど。その話の中に雪だるまはいなかった。

「あのさ、踊り場にさ、雪だるまなかった?」堪えきれず私から切り出した。

「ああ、あったね。どこの子どもがやったのかな?だってわたしたちのフロアに子どもいないじゃん?ということはほかのフロアの子がわざわざうちの階で作ったのかなって。でもそれってなんか気味悪くない?自分の階で作ればいいのにね。まさか大人があんな雪だるま作るわけないしね〜。なんか不気味で嫌だなぁ、どこの子なんだろ」

「ほんと、どこの悪ガキだろうね。まったくけしからんね。いやぁ〜これは管理会社に通報しとくか?けしからん、けしからん。よもや、よもやだ」

そう偽った私の声は震えてなどいなかった。

 

雪は音もなく降り続けた。私の涙と同じくらい静かに。