蟻は今日も迷路を作って

蟻迷路(ありめいろ)の文章ブログ。小説、エッセイ、真面目な話からそうでない話まで。Twitter→@arimeiro

千疋屋のパフェを食べるの段

月に放映のあった、140字小説のドラマの原作使用料が先月(ようやく)入ったので、記念に「いいパフェを食べよう」ということになった。

原作使用料はいいパフェを2人前にコーヒーを付ければちょうどいいくらいの値段であった。相応だと思う。

 

いいパフェ、といえば資生堂パーラー千疋屋(せんびきや)ある。

資生堂パーラーは前にも食べたし、次行くときはコース料理を食べてみたいから、今回は千疋屋がいいと思うの」

彼女がそう言うのならそれが世界で最も正しいことになる。

私たちは銀座の千疋屋へ馳せ参じた。

 

メニューをめくると、国産マンゴーパフェが3000円〜で国産でないものでも2000円〜。

「国産高いなぁ〜……」と眉を寄せる恋人。

たしかに高い。庶民の感覚じゃない。3000円あれば『鬼滅の刃』の単行本を6巻まで買える。6巻といえば柱合会議があったり、修行パートがあったり、無惨様のパワハラ殺戮大回しがあったりと見どころ満載の巻である。ちょうどアニメ一期の終わりのあたりだ。3000円とは、鬼滅の刃のアニメ一期と同じくらいの価格なのだ。たいへんな額である。

だが私は言ってやった。

「是非とも、今日は国産を食べるべきだ」

 

私はメロンのパフェにした。こちらも3000円ほど。目に緑がほしかった。夏だから。

注文して、わりとすぐに、やってきた。牛丼くらいの速度でもって、しかし蝶のように軽やかに舞い降りてきた。

 

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歌いたくなるくらい美味しい。

なんなの?ってキレるくらい美味しい。

溢れる果汁と比例する悦び。オアシス。

感想が「美味しい」以外に出てこない。

写真からもわかるだろ、美味しいことが。

 

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バニラアイスの部分もすごく甘い。すごく甘いのだが、しつこい甘さじゃない。爽やかで、お淑やかで、しかし情熱的な甘さだ。

一口食べるごとに美味しい。

毎回美味しい。

全身に糖分が染み渡る。

 

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あらゆる角度で写真を撮ったのは、あらゆる角度で撮らなければパフェの美味しさが伝わらないと考えたからだ。

私が画家だったらこのパフェはキュビズムで描いたことだろう。すべての角度を網羅しなければ魅力を伝えるのに十全とは言えないだろうから。

 

 

我々はパフェを堪能した。

腹ペコの犬のように綺麗に食べた。

 

「140字小説書いてよかったな〜」とつい口に出た。

最近はまったく書いてないし、書く気もないのだけど、こんな良いものを食べられるなら またちょっと書こうかな、と下心が出てきた。

このような下心があると上手くいかないことはわかってる。

やる時はやる、楽しむためにやる。目標は目標で持って、まずは楽しむこと。分けたほうがいい。

ちゃんと線引きした方がいい。千疋屋なだけに。

 

さばいていくっ!

前のスーパーで鯵が158円だったので買うのをやめ、魚屋へ見に行ったら、150円だった。

ここで買うべきか迷ったが、150円てちょっとした値段だよな、嫌だな、もしかしたら家の近くのスーパーの方がワンチャン安いかもな、とそのワンチャンに賭けて魚屋でも購入を見送った。

嘆願しつつ家の近くのスーパーへ行ってみたら、一尾99円。

大勝利。

2尾を購入し、アジフライを作るに決めた。

 

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我が家では魚や肉やニンニク、ネギなど臭いものを扱うときは牛乳パックを分解した使い捨て俎板を使用する。たぶん衛生的にもこの方がいい。使ったら洗わずにそのまま捨てられるのもいい。

 

魚を捌くときのコツは、って語れるほど捌いたことがなく、何をどうと言えることはないのだが、毎回捌く前にはYouTubeでやり方を調べてじっくり観、イメージを掴んでから取り掛かるようにしている。

結局、数稽古でしかないのだから、初心者のできることなんて心を決めるくらいなのだ。

 

鯖をさばくだけの動画【三枚おろし】【サバのさばき】 - YouTube

 

やり方を頭に入れて、イメージを深くし、あとは勢いが大事だ。

頭を落とし、内臓を引き摺り出して、手早く捨て、包丁を一度そそぎ、俎板を一度洗う。

 

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うちの包丁はこれでもかってくらい切れ味が鈍く、トマトもろくに切れないのだから魚も綺麗に捌けるわけがない。つっかかり、時には急発進し、切るというよりも断つようで、あらぬ方向に刃が向かう。

一尾はわりと上手く三枚におろせた。まだまだ甘いけど、形は綺麗だ。

もう一尾は少ししくじったので、ここには載せない。写真にも収めていない。

 

小骨を取り除くには骨抜きが必要なのだが、そんなものもちろんないので包丁で割くものの、形が崩れて嫌らしくなる。

 

骨抜きと、もう少し高価な包丁を買おう。毎回思う。思い続けて3ヶ月くらい経ってる。

 

 

あとは、塩、胡椒を振って臭い汁を浸透圧により出し、小麦粉をまぶして卵に漬け、パン粉でデコって熱い油に入れるだけだ。

レシピには170℃の油で〜とか書いてあるけど、温度計もないからよくわからない。油につけた菜箸の先がしゅわしゅわしたらそれでいい。揚げ時間も気にしなくていい。焦げなければいい。キツネ色も正直わからん。野生の勘だ。ここだと思うところで油から救出しよう。

 

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どうにでもなるもんだ。

小骨を取り除く際に形が崩れてグズグズになったが、揚げちまえばこっちのもんだ。食べれば同じさ。熱いうちに食べれば美味しいに決まってる。

レモンをかけ、ソースを垂らして、まだ油の熱いうちに頬張る。白米をすかさずかっこむ。

 

これでいい。

 

 

魚を捌けるとQOLが上がるので、これからも練習したい。

鯛が好きなのでいつかやりたい。

包丁を買う。骨抜きを買う。温度計はいらない。

僕たちはいつでも大根をおろせる

いきん、大根おろしの魅力に気付いた。

大根はおでんのイメージもあって煮物にして食べることが多く「冬の食べ物」の印象が強かったのだが、おろしてしぐれにすることで近頃の不安定な暑さで衰えがちな食欲が刺激されてさっぱりいただけるとわかり、夏は大根おろしでいい、とおでん一辺倒だった印象に新たな視点を加えた。

冬も夏もそれぞれ美味しく食べれるなんてすごい。大根ってもしかしてすごいんじゃないか。両刀使いか。

調理法によって味わいが変わったり、調理器具によって料理の幅が広がるって、当たり前のことではあるのだけど、なかなか道具を加えたり変えることって無いから、小市民的日常生活の中では食材に文字通り新しい切り口が見つかるとむしょうに嬉しいものだ。

 

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大根おろしとわかめとツナの冷製スパゲティ

 

こうして大根おろしを楽しめるのは、ひとえにおろし器を買ったおかげである。

 

以前、100円均一ショップでおままごとみたいなおろし金を買ったのだが、それがまったく使い物にならず、「これ使うくらいならアンタの髭でおろした方がマシよ」と恋人に言われる始末の粗悪品であった。

小さくて全然おろせないし、おろせたとしても老婆の陰毛のようなボソボソしたしぐれが出来損なうだけの、まったく意味のない代物である。

「アンタを拷問するくらいにしか使えないねェ」と恋人がしきりに言うので、封印してしまった。

安かろう悪かろう。

こんなもののために百円を支払うなら小さい観葉植物でも買った方がまだ花も咲いて趣があったろうに。

 

後日、スーパーでちゃんとしたおろし器を買い求めた。

きちんと取っ手が付いていて、鬼おろし、と表題に付するだけあって いかめしい棘、棘、そこでおろすと穴から大根おろしが落ち出て下の透明ケースに溜まっていくという仕組み。天才が作ったに違いない。

買った日もたしかそれを使って、使い心地の良さ、大根おろしの出来の良さに感激した覚えがある。

 

さいきん大根おろしをよく作る季節になって、あの日このおろし器を買ってよかったとつくづく思うのだ。

この子のおかげで人生がわずかに豊かになった。

大根をおろすのは大変だけれど、それも苦じゃない。ひとえにこのおろし器のおかげだ。

ありがとう。

大根をおろすのに躊躇しなくなった。気軽に、随意に、どこでもおろせる。なんてありがたいのだろう。救われた。魂が。輪廻のレベルで。

恋人も「これでアンタの尻肉をおろすには高級すぎるねェ」と考えを改めてくれた。

ありがとう、おろし器。

Love you .

スクルタス(古代スポーツ)

クルタ(英:Skultas)は屋外で行われる格闘技の一種。

全世界の競技人口は減少の一方だが、最盛期の18世紀にはヨーロッパ大会やインド大会が開催されていた。カスピ海を源流とする新スポーツの一種とされる。

 

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目次

 

 

概要

クルタスの大きな特徴はなによりも「勝敗を決しない格闘技」という点である。選手は土俵のような「ステージ」に裸足で上り、一対一で競技を開始する。武器の使用が認められた*1例もあるが現在では素手蹴り、組手のみの肉弾戦が公式ルールである。

勝敗を決しないという稀有な特徴により、誰でも参加可能で、男女差のハンデ、身体的なハンデは設けられない。また、八百長や身分の違いによる忖度も生じえず、すべての人間が「ステージ」上では平等である。

こうした競技の特徴を踏まえてスクルタスは「古代から来た現代スポーツ」とも称される。

 

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歴史

クルタスの源流には諸説あるが、最も支持されているのはカスピ海西岸地方、現在のジョージアアゼルバイジャンイランの付近で自然発生的に始まったとするものだ。

スクルトには古代カス語で「美徳」という意味があり、接尾語の-asが付いて「徳のある人」に変化した。その言語論的な意味と競技内容が合致することから、カス語を源流とするカスピ海西岸および南西部が発生地であると推測されている。しかし、発生の起源は明確にされていない。

どこかの誰かが明確な目的を持って作ったものではなく、人々の自然と調和する暮らしの中で培われたの観念が、祭事余暇の時間にそれらを「魅せあう」ものとしてひとつの「遊び」に定着したのではないかと考えられている。後年的なイスラームキリスト教と結びつかず、土着信仰アミニズムに端を発すると考えられている。

クルタスと名付けられたその遊戯は、数々の戦争やカスピ海交易を通じて、西欧地中海沿岸北アフリカ中央アジアシルクロードに乗って中国大陸に伝播し、極東の日本にもたどり着いた。日本では相撲の源流になったとする説もある[?要出典]

 「美徳」がいかにして格闘技となり現在のかたちになったのか、文献資料が極端に少なく、また研究の始まった現代では競技人口もわずかであるばかりか、伝承していた家元も消滅しているため不明である。

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ルール

性別年齢人種を問わない選手が一対一で「ステージ」に上がる。この際、衣服の着用は自由だが、自分が最も誇りを持てる状態であることが条件となる。たとえば格好が粗末な麻布を巻いたものだとしても、それが最も自己矜持を示すものであるならば「ステージ」に上がることを許される。

「ステージ」の広さは定められていない。

審判は一人。ゲームスタートの号令と反則があった場合に止める役割を担う。先述のように勝敗を決しないので、論理的にはゲーム終了の判断は審判の一存ではつかない。あくまで選手同士の合意の上で、その旨を審判に伝え、審判がそれを受理することでゲームが終了する。

格闘技である性質上、怪我や損傷の恐れがある。ルール上反則にあたるのは「致命傷を目的とした攻撃手段とそれに類する卑劣な行為」である。

武器は装飾品の一部であるという新解釈により一時期使用を認められていたものの、けが人の続出と「詭弁説」により現在では廃止されている。*2

なお、記録上、競技中の死者は確認されていない。

 

誠意を持った「格闘」の末、双方納得の上で試合は終了する。そのタイミングはさまざまで、ひと振りの拳の触れ合いで終了することもあれば、三日三晩不眠不休でも終わらない場合がある。*3

どのようにして試合が終わるのかは、選手の格闘を通したコミュニケーションでしか理解しえない。選手は競技が終わると互いを褒め合うことが儀礼であり、それが試合終了のアピールでもある。観客は結果なき結果に対して頷き、同様に納得するほかない。

 

このスポーツに勝敗が無いのは、美も徳も競うものではなく、ただ胸の内にあるものであるからだ。

クルタスはその意味で自己を発散し理解し合うためのコミュニケーションの一種でもあるとされる。

 

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(アゼルバイジャンの草原風景)

 

保護活動

競技人口の減少は「勝敗を決しない」というスポーツとしては異例の特徴が招いた悲劇である。勝敗が無いことで向上心闘争心を生まず、結果として衰退から逃れられない。

このようなルール上の特徴と、一時期は世界的な広がりを見せたという稀有な文化的事例として、アゼルバイジャンではユネスコ世界無形文化遺産競技部門に指定されている。

 

新スポーツとして

ニュースポーツの概念は20世紀に誕生した。

選手の体格や人種や性別にとらわれず、純粋に身体を動かす喜びと、スポーツによる社会的なつながりと健康維持のために考案されたスポーツ概念である。多くの競技では勝敗は決さず、楽しかったかどうか、効果的な運動であったかに重点が置かれている。

このような観念はスクルタスに見られる特徴である。

クルタスは古代に生まれた新スポーツとして認知されているが、一部意見では美徳のコミュニケーションに重点が置かれることからスポーツとは一線を画すものであるともされており、その分類には議論が絶えない。*4

 

著名な選手

松崎 光陽(日本スクルタス協会)

・ジェイソン・マルコム

・ロバーツ・K・クリオン(サラトガ大学教授)

 

 

*1:文献に残る19世紀のシュヴァルツヴァルト大会が代表例

*2:マーク・ザッカールト『スクルタスの歴史と論争』

*3:文献に残る最長記録は1766年イランの試合。7日間続いた。

*4:ロバーツ・K・クリオン『スクルタス言語論』

げんじつとうひ

ぁ、気のせい、だとは思う。

考えすぎということもある。

一度それに気付いてから確認をせずに放っておいたところで事実は変わらないのだが、それでも一度「忘れる」ことで現実から目を背けて気を紛らわせる、といういわゆる現実逃避は誰しもあるだろう。

私の場合は現実逃避ではない。現実を認めたうえで「大丈夫だ」と自分に言い聞かせて心を保っているだけである。本当に大丈夫だから。

心理的にも肉体的にもどうということもないからこそ、気のせいだ、気のせいだ、と おまじないのように繰り返し言えるのである。

 

「異常」に気付いたのはつい最近のことだ。

それはひょんなことだったし、見方によっては常と変わらぬ些細な変化でもあったかもしれない。

それゆえに最初は、まぁ気のせいだろう、と軽く受け流せたのだが、日が経つにつれてしかし、軽く受け流せない場面もあったわけで、そうなると「気のせいだろう」という楽観は「気のせいなんだ。気のせいなんだからな」と次第に語調を強めていき、時には憤りも交えて、誰に言い聞かせるともなく「口答えをするな!!!」と怒鳴ったりもした。

どう見ても取り乱している。

思えばこの時点で私の「意識」は「認知」へ変わっていたのかもしれない。

 

それでもあえて言おう。

 

これは、気のせいに過ぎない。

 

被害妄想みたいなもので、思考が視界を歪めて目に見える現実を真から偽へ曲げてしまうのだ。人は枠にはまった思考回路や先入観により見えていてしかるべきものを見逃したり、見えないはずのものを見たりするのだ。聞こえない声を聞いたり、集中の向き先によって人の声が耳に入らなくもなる。

それと全く同じことだ。

あえて「気のせいではない」と悲劇を認知した気になって、実は現実とはそぐわないにもかかわらず歪んだ妄想で視界を歪めることで、正しい事実を認識できていないのだ。

ゆえに、本当の意味で、これは、気のせい、なのである。

 

悪い方に悪い方に考えをつめて、予防線を張って、卑下し憎み落胆することで、いざ現実を目の当たりにした時に大したことなかったんだと思えるように予防線を張っておく、ある意味でこれはそんな種類の現実逃避なのかもしれない。

 

気のせい。気のせいだ。実際、気のせいなのだから。

 

 

ここまで読み返してみると、さっきから事実を認めたり現実逃避したり気のせいだと言ったり認知してなかったり、論が滅茶苦茶な気がする。

明らかに取り乱している。

事実を認めたくなくて。

 

 

 

どんな事実かって?

 

いや、まだ事実と決まったわけじゃねーし。

気のせいなんだよな。

気のせいなんだよ。

絶対に、なにがあっても、気のせいに過ぎない。悲劇は見方を変えれば喜劇。誰かの笑顔の裏で誰かの悲しみがあるように。

そんなもんさ。

気のせいなんだ。

 

気のせいなんだよなぁ。

 

 

 

25歳にして髪の毛が薄くなってきたの、完全に気のせいなんだよな。

 

 

 

生え際が後退して自然に分け目ができちゃうのも、シャワー浴びた後になんか頭皮が透けてるのも、気のせいなんだよな。最近の違和感とか、そういうのじゃないから。決して。決してな。

昔からこんなもんだったよ。

親族に誰も禿頭はいないしね。あり得ない。

 

え?

現実逃避してないで現実の頭皮に目を向けろって?

 

かましい。くたばれゴミカス。

なんだおめぇ。喧嘩売るってのかおい。

一日が79時間あったとして

曜の夜はよく「一日が79時間あったらな」と夢想する。

79という数字に意味はなく、都度55時間だったり、98時間だったり、61時間だったりする。とにかく24時間よりも大きい数字だ。

一日が79時間だったら、もっとたくさん寝て、本を一日2冊も3冊も読んで、凝った料理をたくさん作って、ゲームして、やりたいことが全部できるのに。

青梅のヘタを取って梅酒を仕込む時間もあったろう。長大な小説を読み終わる時間もあったろう。小説を書く時間もあったろう。今日できなかったことをできる時間があったろう。

そして、休みを長く味わえただろう。

 

一日が79時間あれば、休日のみならず平日だって有利なことがたくさんある。

仕事から帰ったらゆっくり食事を作り、ゆっくり風呂に入り、小説を読んで小説を書き、ブログを書き(もっと中身があって有益で面白おかしい記事になるに決まっている)、恋人と心ゆくまで抱き合える。仕事終わりの時間をこれでもかと有効活用できる。

現実の24時間では、家に帰ったら急いで食事を作ってシャワーを10分で済ませ、小説を読む気力などなく、もちろん小説を書く体力も無く、ブログを急いでしたためて(サンゴの骨みたいに中身がなく白くて硬い文章だ)、恋人に投げやりな返事をして仲たがいして眠るのだ。もちろん悪夢しか見ない。

 

こんな人生でいいわけがない。

土日を満喫したい。

「あ~なんで土日はこんなにもはやく終わっちまうんだろうな」と毎週毎週思いたくない。これが毎週、死ぬまで続くと思うと背中がぞっと寒くなる。

すべては一日が79時間になれば解決するものと思われる。

私は79時間を有効活用して大大富豪になりたい。大大大富豪になりたい。

 

一日は79時間であるべきなのだ。

 

 

だがこの夢想は、毎回ひとつの帰結に終わる。

「一日が79時間あったら、この国は『じゃあ一日もっと長く働けるな』って思考になって、結局60時間くらい猛烈に働かせるんだろうな。税金もむちゃくちゃ搾取して。そういう国だ」

そういう国だよな。国っつーか、思想が。絶望だよまったく。

 

根源的な希望は絶望からしか生まれない。(──ジョルジュ・オースキン)

人は愛や夢ではなく、絶望のみによって本質的につながりを保てる生き物である。(──バージランド・グリセン)

 

この帰結により、なんだかんだ24時間でよかったな、と思えるのであった。(まる)

走愛性の生きもの

の話が好きだ。

愛って、つまりLOVEね。かたちとか金銭じゃなくて、魂みたいな、とらえどころが無いけれど誰もが感じられるもの。

誰もが、と書いたけど、もしかしたらこれを読んでいる人の中には愛を感じていない人がいるかもしれない。うまく愛を感じられないし、うまく愛情を表現できない人がいるかもしれない。

でも大丈夫だと思う。根拠はないけど。うまく言えないけど大丈夫だよ。おれ、そんなあなたのために歌ってもいい。そう思うんだ。

愛ってなんだよ、って話をするととても長くなるし、なんかそれって無粋だなって気もして、言葉にしちゃうと「愛」の持つ重力みたいなものがどんどんどんどん軽くなっていくみたいで、── 要するに愛ってそういうものだ。

 

愛の話が好きだ。

 

好きな愛の話は、あなたが心血を注いでいる趣味への愛情とか、推しへの愛とか、家族愛とか、動物との絆とか、そういう種類の愛の話だ。もちろん恋愛も好き。

誰かを想う、たとえば祈るとか愛情を抱いて涙すら流す、人間のそういう側面が好き。

 

『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』は愛の話だった。

いろんな人々の、いろんな人々に対する、想いの話。その結実=愛。最初に観終わったときも、2回目に観終わったときも、メタのレベルでもすべての愛につつまれて言葉にはできない感動があった。

愛の話じゃん、そう思った。

大好きな『チェンソーマン』も愛の話だ。

主人公:デンジはずっと愛されたくて、愛したくて、それは敵もずっと一緒で、世界を救うのはLOVEでした、って最後が泣けて泣けて泣けた。

ちょっと異常かもしれない愛のすがた。いい漫画だ。

先日観た『インターステラー』も愛の話で驚いた。

ちょっと難しくてわかんないくらい複雑なSF映画なんだけど、これはSFの枠を借りた愛の話だとわかってから話の筋をすんなり受け入れられた。

宇宙規模の、世界人類を巻き込んだ、超絶SFストーリー。でもその目的は「家族に会いたい」ただそれだけ。ただそれだけなんだけど、それ以上って無い。

歴史的な名画だと思う。

 

 

しかしながら、こうして書いちゃうとなんだか陳腐なものに見えてしまうのが「愛」のつらいところだ。

その原因は、この世の中に愛の話が多すぎるせいだ。人々は大昔から愛に群がっている。電燈に群がる蛾みたいに。走光性ならぬ、走愛性なのだ。

下手な恋愛芝居で量産される恋愛の話が多くて、さっきも言ったけど、愛の持つ重力が軽くなっているのだ。

私たちは愛の話が大好きで、コンテンツとして消費しまくっている。だから愛が軽くなって、いずれインフレして掃き捨てるものになってしまうだろう。

 

物語において私たちは、愛についてあまり大声で話したり、「これは大恋愛ストーリーです。愛の話です。泣けるんです。キュンとするんです」なんて言わない方が良い。

ただ演出と、セリフと、ひたむきな行動によって示すべきなのだ。