蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

信じられん

信じられん、これが5連休の終わりだとは。

シルバーウィーク。

ところで今年の私のゴールデンウィークはそれは悲惨なものだった。謎の病気になって、連休の9割を病床にふせた挙句、出勤日も起き上がれずに休んだ有様だった。酷い咳で喉を傷め、声が出なくなった。

それを取り返すかの如くシルバーウィーク。

しかし、酷い台風が押し寄せて、2日間は家に閉じ籠り、ちゃんと晴れた日は1日しかなかった。私が住む千葉県は大変な災害に遭い、たった1日で半年分の雨が降る記録的な豪雨に見舞われた。家財を失い途方に暮れる同朋を思うといたたまれない。

それはそれとして、5連休なんてあっという間だ。

連休始まりの金曜日の夜、この5日間はちゃんと5日間の意識を保ったまま、100%の気持ちで過ごそうと思っていた。だから、そう過ごした。濃密な時間を過ごすことで時間は引き延ばされるのである。

しかし、それでも、5日間はあっという間だった。5日前がつい1時間前のように。

金曜日の夜に戻りたいと何度も思った。

 

連休最後の夜は好きなアイドルの映像だけを見て過ごした。

彼女たちに笑顔、言葉、歌を見ていると優しい気持ちになれる。

一生懸命歌っている姿に涙ぐむ。

ふと、私が彼女たちにハマっていなかったら今ごろどうやって過ごしていたのか気になった。ほかのコンテンツにハマってそれに救いを求めていただろうか? 

あるいは、死んでいたかもしれない…。

 

みんなこんな夜を過ごしているのだろうか?

だとしたら、私たちは手を取り合って、肩を組んで、お互いの名前を知らなくてもお互いの幸福を祈れるような関係になれるはずだ。

 

「ピアノが弾けたら」じゃない、弾くんだよ

妻の実家に電子ピアノがあったので試みに弾いてみたところ、素晴らしく楽しい楽器だと感動した。

鍵盤を押すと音が出るのである。

なんて簡単なのだろう。

尺八という楽器を私はやったことがないけども、これはちゃんと音が出るようになるまで「首振り三年、ころ八年」などと言われているほど難しいと聞く。また、オーボエなんて木管は最も難しい楽器なんて言われてるし、ヴァイオリンも金管楽器もきちんとした音を出すことがそもそも難しいようにできている。

それに比べてなんだピアノは。鍵盤を押しさえすれば音が出る。音符を辿ることができればメロディーを奏でることができる。スタート位置からしてこんなにやさしい楽器はないではないか。

私はギターをやっていたのだが、ギターはすこしばかり人間工学に基づいていない設計をしており、指が痛くなったりどこを押さえているのか見にくかったり、右手と左手が同時に見えないからキョロキョロせねばならないなど不便な点がいくつもある。

しかし、ピアノはどうだろう。正面に押すべき鍵盤が並び、ドレミの位置もわかりやすい。まさに音楽を奏でるべくして最適化された楽器といえよう。

 

私はギターはやっていたものの、ギターとピアノは「ピザ」と「麻婆豆腐」くらい異なるモノだから、早速ピアノを両手でツラツラ弾けるなんてことはない。だいたい、音符を読むのも一苦労だ。

一音ずつ音を確かめながら「えいや」といった感じに和音を鳴らし、いちいちその美しさに感動しているだけである。

たぶん最初のうちはよくある練習曲的なものから始めて段階を踏んで技術を習得すべきなのだろうが、かねてより忍耐力のない性根なのでそんな悠長なことはしていられない。なにも発表会に出たり30歳からプロを目指そうなんて志はまるでないのである。

ただ今、ピアノを楽しめればいい。

堅苦しくなく音楽を楽しめるってなんて素敵なのだろう。

ショパンのノクターンをちょろっと弾けたのならそれでいいのである。

ノクターンの難易度がどれくらいのものなのかわからないが、ズブの素人からすればどの曲だって難しいのは同じこと。好きな曲から練習したい。

 

ノクターンは12/8拍子という8部音符が1小節の中に12個並んでいるリズムになっている。雰囲気的には小さな3拍子が1小節のなかに4つあるという感じだ。

右手は単音でメロディーを弾いているためそこまで難しくはなさそうだが、音符を見ながら弾けないため、一音ずつメロディーをたどりながら手の形を覚えた。

左手は小さな3拍子で和音を繰り返しており、とてもじゃないがすぐには弾けそうもない。

どうするか。

楽譜を観察したところ、表拍というのかな、そこが和音ではなく短音になっていることがわかった。とりあえずそこだけ弾けばいいということにした。

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(左手(ヘ音記号)の中に単音がいくつかある。そこだけ弾く。)

https://youtu.be/cCRte3GEj3Q?si=UB06nRgoNWcJoZYc

 

しかしそれでも、単音だけ弾くといってもズブには難しく、結局2時間半くらい練習して4小節しか弾けるようにならなかった。

右手を練習する→4小節通してできたら左手を練習する→それもできたら合わせてみる→1小節もできない、この繰り返しだ。

だが、休まずに続けていると次第に弾けるようになってくるのだからおもしろい。

私は勉強もスポーツもまるでダメだったけど、昔から美術と音楽だけは練習すればなんとなくできるようになる性質(タチ)だった。それは才能というか根気の問題で、美術と音楽だけは集中力があるのだった。好きなのだ、要するに。なんでそっちの道を目指さなかったのだろうと不思議だが、まぁ人生はそういう侘び寂びもまた味のひとつだ。

練習の最後には、アレンジバージョンで4小節通して弾けるようになった。

 

ショパンは今から200年ほど前の人で、この曲が作られたのも200年ほど前のことだ。ショパンは39歳で亡くなっており、もしかしたらノクターンは今の私と同じ年齢のころに書かれた作品かもしれない。

200年を経て曲が残り、同い年くらいの、全く異なる国と言葉の人間が、こうしてなんとか弾こうとしているというのはなんだか胸が熱くなるような思いになる。音符の中で私はショパンと繋がっている。

左手の単音だけたどっても美しく、半音ずつ下がったり、オクターブで音が跳躍したり、さまざまな工夫がなされていることがわかる。この音符の一つ一つにショパンの意思がこもっている。

もしかしたら時代の中で変わってしまった音もあるかもしれないけど、この音符は200年間みんながたどってきた音に違いない。

今まで弾いてきた人はみんなこの音符になにを思ったのだろうか。

言葉ではなくメロディーにその答えがある。

音が重なることはなんて美しいのだろう。

そこに感じた美しさは、草原一面の花を見たときとか、夏の雲とか、満月を見たときに感じる「美しい」と思う感情と同じものだった。音楽という人間が作ったものなのに。

妻の実家の仏壇の前の電子ピアノの前に座っているはずなのに、私はこの世界の大いなる美しい仕組みのようなものと繋がっている気がした。たったの4小節、それも音を抜いて弾いただけなのに。

ピアノって素晴らしい楽器だと思った。

 

左手をちゃんと動かせるようになったらどうなってしまうのだろう。

ピアノ、欲しいかもしれない。

この世にはありがたいことに名曲が多すぎる。一生かけても楽しむに値するものにもしかしたら出会えたのかもしれない。

 

夜のコインランドリー

寝て覚めたら、お腹、太もも、腕のあたりに痒みを覚えて、見てみるとプツプツと赤い点が広がっており、これはもしやダニというやつでは。私はすぐさま思い至った。

しかし、布団を叩いて近くに寄って凝視したもののそれらしい虫は見当たらない。ただ、一度ダニかもしれないと思ったからにはこれを放置しておくわけにはいかないので、ダニを滅却する薬剤を購入(Amazon)した。

布団も洗うべきだろう。

そう思い、仕事から帰宅して夕飯を食べて22時ごろ、家から徒歩15分という絶妙に遠いところにある最寄りのコインランドリーに、使っていた毛布、シーツ、枕を持ち込んだのである。

 

コインランドリーには洗濯機が3台と乾燥機が7台あり、稼働率は8割といったところだった。平日のこんな夜でもみんな何かを洗濯する必要に迫られているのだ。人間は服を着る生き物であると同時に、洗濯をする生き物でもあるということがよくわかる。

空いていた洗濯機に寝具をぶち込んだ。洗濯機に記載の「容量」を超えていたが、仕方がない。ぎゅうぎゅうに押し込んで、30分のコースを選ぶと「洗濯を開始します」云々と洗濯機が威勢よく宣言した。

30分なので、ここから家に帰ってもまたすぐに出なきゃいけなくなるから、コインランドリーで終わるのを待つことにした。

店内には私のほかにプリン頭のギャルが一人いて、ケータイをいじってる。

洗濯機の小さな窓に水がバシャバシャと打ちつける。私はこれを見るのが人生の何よりも楽しみで、ジッと観察しては昔ゴーグルをつけて海に潜ったときのことや、中の洗濯物たちの気持ちなどについて考え、感傷に浸る。隣にあるドラム式乾燥機の働きを見るのも好きだ。衣服がドラムの中を踊るさまは「幸福」の象徴のようだ。30秒くらい感傷に浸って満足し、文庫本を読んで過ごすことにした。

ギャルは洗濯が終わると衣服を片付けて店を後にした。そのすぐ後に、男性が入ってきた。

メガネをかけていて、痩身で硬そうな肉付きをしている若い男だ。

バックパックみたいな大きなカバンの中から靴下をひとつ取り出すと、彼はシゲシゲと検分を始めた。靴下の表を返し、裏側に顔を近づけ、もはや匂いを嗅ぐほどに細かく調べていて、このまま口に入れるんじゃないかとすら思った。

その靴下が終わるとまた別の靴下が出てきて、それが終わるとまた別の靴下が出てくる。ようやく靴下のターンが終わったかと思えば、今度はパンツの検分が始まる。パンツ、肌着、その他の衣類も靴下同様の手順で何かを確認している。

まさかあのバックパックに入っている大量の衣類すべてを確認してから洗濯するつもりなのか。その作業は自宅で終わらせられなかったのか。一体何を調査しているのか。なにか生き物でも殺してきて、その返り血を浴びたので一着ずつ調べているとか…?

なにもかもわからない。もう好きにさせておこう、と思った。満足するまで衣類を見つめていればいい。あなたの人生なのだから。

どれほど時間が経ったか、私の洗濯が終わり乾燥機に移し替えている間も、彼はまだ検分していた。おそらく、20分近くやっていたのではないか。

 

乾燥機を30分ほど回す。

その間に、さまざまな人の出入りがあった。1人で来る人もいれば、カップルもいた。みんながそれぞれ事情があって今夜このコインランドリーに、会話もなく目も合わないけれど居合わせたのだ。袖ふれあうも他生の縁。あなたが回転させている洗濯機の横に私の回転させている乾燥機がある。夜のコインランドリーにもなにかの縁があるはずだ。

街灯の少ない道のそばで煌々と光って洗濯機を回すコインランドリーは、まるで宇宙にぽかんと浮かんでいる停留所みたいだ。

私の乾燥も終わり、ふかふかになった布団を取り出しているとき、先ほどの男はパイプ椅子に座って、なにやら資格の勉強をしていた。

なんの資格なのだろう。2級土木施工だろうか。野菜ソムリエだろうか。わからない。好きにさせておこう。

コインランドリーを後にし、家に帰って、きれいな布団で寝た。

 

木曜日は電車が混んでいる

不思議なことに、木曜日は2割増しで電車が混んでいる。

なぜ木曜日だけなのか、理由はもちろんわからない。

いつもはいない人が当たり前みたいな顔をして列をなし、私が座るべき座席を占領し、車内の温度を上げ、みんなして高速平行移動する。

まぁ、いつも座れないし、車内の空調は適温よりも幾分高く設定してあるので、人が多かろうが少なかろうがどうだっていいのはどうだっていいのだけど。

ただ、どうして木曜日に混んでいるのかその理由を知りたい。

月曜日と金曜日に混むのは感覚的にわかる。普段はリモートワークの人も週の初めと終わりには出社しないといけないのかもしれない。水曜日が混むのも同じ理由で理解できる。

なぜ、木曜日なのか?

そもそも会社員ばかりが利用者ではないことだって考えられる。

何か特殊な事情が私の住む地域にはあるのだろうか?

 

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「木曜日が混む理由、知ってる?」と君がいう。

「知らない」と僕はいう。

君はまっすぐ線路を見つめながら、いう。

「サースデイ・ラッシャーのせいだよ」

夏の日差しが線路を焼く。電車はすぐには来ない。早朝の信号機トラブルのせいでダイヤが乱れている。ただでさえ木曜日で混んでいるというのに、ホームはすでにこぼれ落ちそうなほど人で溢れている。

「サースデイ・ラッシャーはね、」と僕の反応を待たず君は続ける。「みんなの頭の中に住んでいる怪物のことだよ。ずっと昔から、月曜日とか火曜日とか日曜日とか、そんな概念が生まれたときから人類に巣喰いはじめた悪魔。安息日を決めたのは神様だから、神様がいたときから存在していたことになるね」

「どういう見た目の悪魔なんだ?」

「さあね」

「……知らないのはおかしいんじゃないか?」

「どうして?」君はムッと頬を膨らませる。「私にもわからないことはたくさんある。サースデイ・ラッシャーの見た目もそうだし、スカンクの体重とか、線路一本の値段とか、私の寿命とか、とにかくいろいろある」

たしかに僕にもわからないことはたくさんあるな、と変に納得してしまった。

てっきり僕はサースデイ・ラッシャーは君の創り話なんだと思っていたが、もしかしたらよくある昔話で、僕が知らないだけなのかもしれなかった。

「あとで調べよ。それで、どんな悪魔なんだ?」

「サースデイ・ラッシャーは、人々の頭の中に巣喰い、人々に『ああ、何かをやらなければ』と焦りの気持ちを芽生えさせる悪魔なんだよ」

「なんだそれ」

「誰しもあるでしょ?ああ宿題をやらなかった、ジムに行かなかった、部屋の掃除をしなかった、お風呂に入らなかった……can'tじゃなくて、don'tなことが。そういったdon'tのときに抱く罪悪感とか諦念を食べて、木曜日になると『焦り』という気持ちに変えて吐き出すの」

「それで木曜日は電車が混んでいると?」

「そう。とくに夏の終わりと年末と、3月末の木曜日は電車が混むよ」

「そんな悪魔の存在を今まで感じたことなかったな」

「でしょうね」

『間もなく3番線に快速小田原行きが参ります──』

「私が今考えた話だもの」

僕たちが乗るべき快速小田原行きがホームに滑り込んで来た。これ以上は入れませんってくらいぎゅうぎゅうのドアが開くと、人々は抜け目なくわずかな隙間にめり込んでいき、僕と君をホームに残して全員が四角い箱にすっぽり収まってしまった。電車が少し膨らんで見える。

僕たちはベンチに座った。これに乗っても乗らなくても、遅刻には変わりない。乗れないのではない、乗らないのだ。

息も絶え絶えにドアが閉まる。そのときドアにへばりついたサラリーマンのおじさんと目が合っう。おじさんは少し笑った。何かを言いたげな瞳をしているもののぐっと言葉を飲み込んだときにしかできない笑顔だった。

歪んだ電車は声にならない叫びを上げながら、小田原方面へ去った。

「サースデイ・ラッシャーは実在すると思う。今、ここに」

皮膚病の街2〜何もかもうまく行かない日〜

皮膚病にかかってから2か月、継続的な投薬治療により、蕁麻疹もだいぶ落ち着いてきた。

6割がた治ったと言えるレベルまで落ち着いてきたのだが、ここで薬をやめてしまうとまた悪化しそうで怖いので、完治するまでは病院へ通ったほうがよさそうである。

そこでいつもの皮膚科へ予約をした。

この日は250分待ちであった。

この異常な混雑。皮膚病患者で溢れるこの町。

以前にも書いたが、この皮膚科はうちの近所にあるなんてことない皮膚科のようであるが、実は名医らしく、遠方からも患者が集い、土日に限らず平日でも大変な活況を呈する病院なのだ。

皮膚病の街 - 蟻は今日も迷路を作って

しかし、私はもう何度もこの病院の異常な混雑に直面して慣れているので、この日はある作戦で乗り切ることにした。

朝病院の予約を済ませたら、映画に行くのだ。

映画は8:25から始まる「マイケル」だ。

なかなか時間を作れなくて観に行けなかった話題作。朝一番の回であれば空いている座席で優雅に楽しめるだろう。

前日夜に座席予約をしようとしたらすでにweb予約時間は締め切られていたため、当日映画館に直接赴いてチケットを買うことにした。

朝、作戦通り病院の予約を済ませた私は映画館へ直行した。

まだ眠気の残る商業施設は映画館以外のお店は閉まっていて薄暗い。ひっそりとした施設の中で、映画館の周りだけはやたらと人混みになっている。朝からポップコーンの匂いが鼻をくすぐる。まぶたはまだ少し重い中でポップコーンのキャラメルの香りを嗅ぐと時間が錯誤するような感覚になった。変な気分だ。

パネルの機械でチケットを購める。

そこで私の指ははたと止まった。

「マイケル」のチケットは満席により売り切れていたのだ。

朝の8:25の回のチケットが売り切れているのである。

あたりをキョロキョロと見回した。誰かに「どういうことですか」と聞きたかった。そんなことがあるのか。そんなことがあっていいのか。

はっきり言って人気をなめていた。

公開からそこそこ時間が経ったし、この朝だし、そんなにいい席ではないとしても予約しなくても観れると思ってた。

私はしばらく映画館の周りをうろうろし、血迷って同時刻上映のアンパンマンでも見ようかと思ったが、やめた。ドトールでコーヒーでも飲もうかと思ったけど、それもやめた。

全身から力が抜けるようだった。

この街は皮膚病とマイケル信者ばかりだ。どうかしてる。

 

病院が始まるのは9:30で、そこから250分以上待たねばならない。

外は暑く、曇りの予報が嘘みたいな晴天だった。

そうだ、洗濯をしよう。気持ちを戻した私は家に帰り、紅茶を淹れた。

洗濯機を回し、ギターの弦を交換した。もう2年くらい弦を替えていなかった。錆のない弦はつるりと指先をすべり、美しい倍音が響く。なんて素晴らしい楽器なのだろう。マイケルを観れなかった。病院が混んでいた。そんな動揺もギターを弾くと静かな湖面のように気持ちを凪いでくれる。

洗濯物を干すとき、さっきまであんなに晴れていた空がにわかに曇り始めた。愚かな私はそれに多少の怪しさを感じていながらも、まぁ大丈夫だろう天気予報でも雨の予告はしていないし、と呑気になって、眠ることにした。

 

起きたとき13時前になっていて、皮膚科の予約状況を確認するとあと130分で順番が回ってくるとのことだった。相変わらず異常である。

お腹が空いたのでコンビニへ食料を調達しようと外に出ると、道路は洗濯でもされたかのように水浸しだし、大きな水溜まりがそこかしこにあるし、空気はひどく湿っていて、空は今にもこぼれ落ちそうなほどに暗く重い色に沈んでいるではないか。

私が眠っている間に、大雨が降ったのだ。

今は雨が止んでいる。今から洗濯物を取り込んでも意味がないから、とりあえずコンビニへご飯を買いに行くことにして、帰ってきてからいろいろと考えようと思い、とりあえず近所のコンビニへ急いだ。もちろん、このときは雨は止んでいたから、傘を持たずに。

コンビニの帰り、そこそこ雨が降った。

ちょっとこれは着替えないとアカンね、ってくらいの雨だ。

この雨の中干されている洗濯物たちのことを想った。

歌でも歌いたい気分になった。

 

病院は呼ばれない、映画は観れない、洗濯物は乾かない、皮膚病は治らない。

病院が終わらないために、たったこれだけの皮膚病のために、1日何の予定も入れられず、予定を入れてもうまく行かないなんて、どうかしてる。この1日は社会人にとって貴重な休みだということをどこかの誰か──この1日をつかさどる神様は十分に理解して然るべきだ。

何もかもうまく行かない日というのは人生の中でときどきある。

その日の担当の神様がヘマをやらかして、つまらない運命を仕組んでいるのである。そんな神様はただちに抹殺せねばならない、なるべく苦しい方法で。

でも、せめて、ブログをやっていてよかったと思う。こういうしょうもない日もブログに書けば面白い1日になるのだ。神を抹殺するなどと不穏なことも自由に書き殴れる。ブログをやっていてよかった。この時代に生まれてよかった。

私はブログに助けられたのだ。

そう思うことにして、病院の待合時間にこのブログを書いている。

 

君たちは男子トイレを知らない

よくよく考えたら、この日本の人口の約半分を占める女性諸君は、そのほとんどが男子トイレに入ったことがないのではないか?当たり前すぎて気づかなかった。

同じように私たち男性も女子トイレに入ったことがない。入っていたとしてもごく幼少期に母親に連れられて、というのがほとんど。これ以外の理由で合法的に女子トイレに入れるのは至極限られた職務にあたる人だけだ。

でもまぁ、別に入れなくたって紳士たる私は困ることなんてなく、また入りたいとも思わない。女子トイレなんてのは、別に入らずとも、中の実態というのを容易に想像できるような退屈な場所なんだろうね。

個室が並んでいる。「音姫」と呼ばれる装置がある。生理用品が売られている場合もある(これは知らないけど、そういうものがあってもおかしくないと思う。たまにちり紙売ってるのとかあるし)。手洗い場で化粧を延々と直している人がいて、単に手を洗いたいだけなのに邪魔だな、と思うことがある。そんなところだろうか。

しかし、女性から男子トイレの実態を想像するのは少し難しいのではないだろうか。

なにせ、男子トイレには「小便器」があるのだ。これによってトイレ内の風景は女子トイレとは一線を画す。

 

⚫︎男子トイレの実態① 小便器がある

小便器とは、なんて語らなくてもいいだろうが、実は、洋式トイレに比べてスタイルというかデザインは多様性に富んでいることをご存知だろうか。

陶器のボディが床にまで伸びている大柄なものや、膝の高さあたりで止まっているもの、しずく型のもの、横から見ると直角三角形のような形をしたものなど、さまざまだ。かなり昔の古いものだと、単に「壁」しかないものもある。古い公園などに設置されていて、床と壁の間の側溝に定期的に水が流れるのだ。さすがに私も人生で一度しか見たことがなく、壁タイプには用を足すのにも抵抗感があった。

小便器の底には昔はよく丸い消臭剤が置かれていた。おしっこや洗浄の水をかけると丸い薬品が徐々に溶け、独特なにおいを発するのだ。キンモクセイとかバラとかレモンとかの類いのにおいではなく、「トイレの消臭剤のにおい」でしかない香りがした。

また、小便器の中の下のほうに、的(まと🎯)のようなものが描かれていることがある。それに的確に小便を当てると色が変わり、「当」などの文字が浮き上がる仕掛けが施されているのだ。小便をエンタメ化している。

これだけ書くとマジで男子ってくだらないと思われるかもしれないが、これは「ここにちゃんと小便を当ててくださいね」という施設からのメッセージでもある。なぜこんなことをするのか?

それは、実態として、小便器の周りは他人の小便でびしょびしょだからである。

信じ難いかもしれないが、男性は小用の際、半ばコントロールを失することがあり、大きく照準が逸れて放物線を便器から外してしまう場合があるのだ。

私はこれまでに一度もそういった経験がないのでどうしてそんなことになるのか理解できないのだが、やむを得ず手が不自由だったり、歳をとっていたり、集中力を欠いていたり、散水機のことを考えていたりするとそのような事態に陥るのかもしれない。

そういう事情があるため、「的」を設置して一点集中を促しているのである。

ここで浮かび上がる実態は「男子トイレは小便で汚れていることが多い」だ。

 

⚫︎男子トイレの実態② 他人のモノを見ることができる

小便器はご想像のとおり人々が横並びになって使うため、当然自分のすぐ隣で小用をしている人が存在している構図となる。隣にどんな人がいるのか顔も身なりもわかるわけだ。

仕切りもほぼない。9割、仕切りは設置されていない。だから、その気になれば、隣の人のモノを、見ることもできる。

これはなんだかすごいというか、男性は幼いころからこういう環境で生きてきたのだ、という感じがするものだ。

でもだからと言って、モノを覗きには行かないし(見たくない)、覗いてくる人もいない。

男子トイレはあくまでも人々の倫理観に託されているのである。

ちなみに、小さい子どもの尻を見ることはたまにある。

これはなにも私が尻を見に行っているわけではなく、男児は幼いうちは、ズボンとパンツを膝まで下ろしてオシッコするのが通例なのであって、図らずも目にしてしまうだけだ。

思えば私も小さいころはそうしていたのだが、どうしてそんなことをしていたのか。

ある程度大きくなると必要最小限に軽くズボンを下ろしたり、社会の窓を使用したりして用を済ますようになる。

 

⚫︎男子トイレの実態③ 手を洗わない

男性で手を洗わない人はそれなりにいる。

女性でもそんな人はいるだろうけど、男性は手を洗わない人が多いイメージだ。

洗ったとしても、ちょびっと水に触れる程度。

しっかり石鹸も使って洗っている人は少数派だろう。

なぜなのか。

知らないけど、女性よりも男性の方が性器に触っている気がするのだが。

 

⚫︎男子トイレの実態④ 外から見えることがあるけどいいのか?

公園とか寺とかにある、外に専用の建物として設置されているタイプのトイレは入口の作りが雑だ。

扉もなく、衝立すらもないため、全然外から丸見えになっていることがある。

これは、なんか、蔑ろにされていないか?と思わざるを得ない。

「どうせ男なんて隣の奴のチンポが見える状態でいつもしてんだから、外から見えるくらいどうってことないでしょ」

そう思われているフシがある。

私個人としては問題ないし、これを重大な問題と捉えている男性は少ないとも思われる(みんな普通にそこを利用してるから)のだが、問題と捉えていないことがそもそも問題だし、利用者がどう思ったかではなく、制作者が「どうせ男なんて丸見えでもどうってことないでしょ」と思ってこのような造りにしたことに問題があると思う。

そう、男の権利というのかな、なにかそういったものがコケにされている気がするんだ。

せめて入口から通路を作って見えないようにするとか、衝立を置くとかしませんか?

配慮のハの字もないことに悲しみを覚える(でも使うけど)。

 

⚫︎男子トイレの実態⑤ 並び方がわからない

男子トイレには小便器だけでなく、個室もある。

男子トイレだって混むときがあって、中に入ると小便用の列と個室用の列ができていたりする。これが、どっちがどちらの列なのか、わからない。

小便をしたくて並んでいたら、個室用の列だった、ということがよくある。

入口からどの列かわかればいいのだけど、中に入ってみないとそれが何の列なのかわからないところにシステム的な問題がある。

列になっているから並んでみたが、なかなか進まないから個室のものだとわかって、列を抜かして先頭まで躍り出ると案の定、小便器はガラガラに空いているということはよくある。

この列は進みが遅いからもしかしたら個室のやつか?と思い、列を抜かして見に行ってみると、小便器が2つあるうちひとつが故障していてそれで列をなしている、みたいなこともある。

ホンマにわからん。

「個室はこの列」みたいな表示もない。あるわけない。その場の雰囲気とノリで列を守っているのである(なぜなら男子トイレは人々の倫理観に託された空間だから)。

これは早急に政府が解決に臨むべき課題であるといえよう。

 

とりあえず、男子トイレの実態はこんなところだろうか。ほかにもまだありそうだが、ここまで書いたらだいぶスッキリした。

女性の皆さん、これだけ押さえておけば、いつ男子トイレに迷い込んだとしても、恥はかくまいよ。

世界平和について我々ができること

平和について考えるということは、なにも戦争の惨禍を映像で見たり話で聞いたりニュースで目にするなどの体験を伴わなくてもできることなのだが、光を描くためには影を描かなければならないように、戦災の過去を(そして現在を)見ないことには平和について考える機会は少ない。

それは恵まれていることで、現在進行形で少なくとも身の回りは平和ということの証拠でもある。

戦争兵器で亡くなった人の中には私のように、こうして無意識に平和を享受しているうちに、たとえば次の日とかその2日後とかに、不意の攻撃で命を落としたという人もいるのだ。

www.nhk.or.jp

広島出身の段原瑠々ちゃんが好きで、NHKでこのような特集をやっていたので視聴した。

瑠々ちゃんは自分の歌声で世界を平和にしようと本気で思っており、実際それは可能なレベルで歌が上手く、当番組でも被曝ピアノによる弾き語りで「見上げてごらん夜の星を」を歌っているのでぜひ見ていただければその目標が至極現実的なものだと理解できるだろう。泣きたくなるような歌声だ。こんなにも自分のことを大切にしてくれる歌があるのかと思える、そんな歌を歌える人なのだ。

このお歌目当てで番組を見ていたのだけど、特集の内容がとてもよかった。

1945年の8月5日の広島にスポットを当てていた。

原爆投下の前日、人々はどう過ごし、何を思い、生活していたのか。

番組の中で語られる話はあまりにも「日常」のこと。当然のように明日というものが来ると信じている人たちによる、ありのままの「その日」のこと。

81年前という長い月日がほんの昨日のことのように思えるくらい、現在の私たちに重なるほどの日常。

時代も価値観も異なるけど、その日々の中で感じていたことや感情につけられる名前は今とまったく同じで、なんだか私は、この番組を見てほとんど初めて、その日から今日までが地続きであることを実感した。

81年という時間の長さは、たったの、81年だったのだ。

だからこそ、8月5日という日の話に胸が苦しくなった。

 

どう考えても戦争はしないほうがいいに決まっている。

しかし、安全保障やなにやらいろいろ現実的に考えた末、そうとも言ってられない、という事実もある。あれだけの戦争を経験したうえでそうなってしまうのだから、そうなのだろう。語り部の人たちや数々の映像や絵や写真や音声があの時の惨状を81年間訴えかけ続けてもこうなのだから仕方がないし、これが自然の成り行きなのかもしれないとも思う。

でも、それでもなるべく戦争にならないように、私の行いや選挙や税金が殺戮に繋がらないようにしたいとは思っている。

そして、誰しも平和を願っているのだ、ということを信じていたい。

私に何ができるだろう?

あまりにも微力で意味もないかもしれないけど、困っている人がいたら助けようと思う。誰であれ。

誰であれ、尊重し合いながら、お互いを理解することを諦めずに、言葉の気持ちを持って接しよう。

81年前から現在が地続きであるように、見知らぬそこのあなたも私の地続きの存在なのだから。