蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

暇眠

月末まできわめて多忙だったのに、4月に入ってからとんと仕事が落ち着いてしまって、今月の月残業は3時間未満だった。

私はこれまで何をやっていたのだろうと言いたくなるくらい、手持ちの仕事がない。

仕事が無いわけではない。先々の予定は埋まりつつある。

ただ、さまざまな運が重なって、現状私の手持ちの仕事がないのだ。

スケジュールが先方の都合で後ろ倒しになったり、思いのほか進行が速くてさっさと終わってしまったり、仕事相手からボールの戻りが遅かったりして、私が手を動かせることが無く、とにかく時間がたくさんある。

先回りしてやっておくような仕事もすべて終わらせてしまった。

干された?と一日のうちで3回考えてしまう。

悪いことが重なるように良いことが重なる。忙しい時期が重なるように、暇な時期も重なったのだろう。

 

ガチになれば1日で終わる仕事を5日かけてやっている。できるだけやることを希釈して、丁寧に回り道をして、それなりにこなす。

Wikipediaを読む時間が増えた。

今日は「インパール作戦」「國民の創生」「マッジ・オーベルホルツァー」などを読んだ。

この記事を書いた人はどういう人生を送ってきたのだろうなどと思いをはせる。マッジ・オーベルホルツァーというアメリカ人の女性について丹念に調べてWikipediaに書く人が、この世界にはいるのだ。

でもこの人も、私よりか暇ではないだろう。

 

同僚の仕事を手伝ったらどうか?という意見もある。

そんなこと百も承知。

当然手伝ったのだが、それもあっという間に終わってしまって、1日の時間を潰せない。

だいたい私たちの仕事はあまり人に任せられる類のものではないというのもあるし、会社としてはなるべく最近入った新人に仕事を回して教育したいので、私にまで下りてくる仕事は本当に味噌っかすみたいなものなのだ。

私は本当に干されているのかもしれない、と一日に3回は思う。

 

暇でしょうがない一日の最大の敵は睡魔だ。

関係者から送られてきた長大な文章を読むのは、すこしずつ自分の尊厳を失っていくようなつらさがあり(文章がとにかく下手で読むに堪えない)、文章の端っこから発想が飛躍して気を抜くとすぐに夢うつつの世界に迷い込んでしまう。

仕事中なので、眠るわけにはいかない。Wikipediaを読んだとしても、眠るのだけはよくない。

眠い眠い眠い。

ぬるくなったコーンポタージュを小さなスプーンでゆっくりかき回しているような眠気だ。

文字がぼんやりと浮かんだり沈んだりする。ときどき、体がこわばる。

 

5月も多分そんな感じ。

暇をつぶすのはつまらないけれど、忙しくて泡を吹きそうになっていた時に比べたら気持ちは楽だ。

いずれまた泡を吹きたくなるような日々になるだろうから、いまはこの退屈を享受しよう。

桃太郎の犬・猿・雉についての簡単な考察

太郎のツレといえば、犬・猿・雉だ。

私だったらもうちょっとマシな仲間にするが(管理会計ができたり楽器を演奏できたり多言語話者だといい)、でもまぁ、結果として鬼退治はできたわけだし、動物を連れてファンシーな絵面になっただろうから、良かったんじゃないかなと思う。

 

それにしても。

犬・猿・雉。

この並びに違和感を覚える。

犬、猿、と来たら「鳥」になるのが自然ではないだろうか?

犬とか猿という呼び方は種族、概念としての動物を示している。猫とか魚みたいに。

好きな乗り物はなんですか?という問いに対してクルマ、電車、ボーイング747、と答えてるみたいなもんだ。

だから本来は、「雉」ではなく「鳥」であるほうが犬猿に対してフェアだ。

それなのに「雉」とかいってさ。

雉っつーのは概念じゃなくて特定の具体例でしょうが。「科」のレベルでしょうが。

どうして雉だけ、鳥ではなく、具体例として示されたのだろう。

 

いろいろ考えた結果、ひとつの結論が導き出された。

結論👉『桃太郎』が成立した当時、犬も猿も特定の種まで分けて認識されていなかった。

 

犬といえば日本には柴犬とか土佐犬とか秋田犬とかいろいろいるけれど、『桃太郎』の成立した大昔は雑種の野良犬とかムク犬みたいに、そこら中にいる犬に対しては犬種を特定していなかったのではないだろうか。

血統書なんてない時代だ。

今のように人権を獲得しつつある犬はいなくて、犬といえば犬でしかなかった。

犬=そこらにいる犬だった。

猿はおそらく日本猿しかいなくて、チンパンジーとかオランウータンとかボノボは日本にいないので、猿といえば日本猿を指し、それ以上でもそれ以下でもなかったのだろう。

犬は犬。猿は猿。

 

では鳥はどうだったかというと、当時から多様性を重んじられていたと考えられる。

カラスとか鳩とか、メジロとかウグイスとか、ホトトギスとかトンビとか、知らないけど万葉集とか古事記にも出てくると考えられる。たぶん。

そういった多様性があったため、鳥、とだけにしてしまうと読者(聞き手)は「どの鳥?」と疑問を呈してしまう。

大きい鳥も小さい鳥もいる。スズメを仲間にするのとダチョウを仲間にするのとでは話も変わってくる。

そのような経緯があって「雉」と明記したものと考えられる。

 

では、どうして雉なのか?

それは知らないけども、雉って鍋にしたりご馳走の象徴なんですよね。たぶん。良い鳥ってイメージある。

「高貴」のイメージもある。

羽根は美しく、尾は長く凛として、高潔だ。

こういう時代に言うのも何だけど、ルッキズムです。見た目が良かったから、に尽きる。すみません。

だから、日本にクジャクがいたら、雉の座はクジャクになっていた。そのほうが明らかに盛り上がるから。

 

以上、桃太郎の仲間に関する簡単な考察でした。

いかがでしたか?(感想の強要)

現代版にするなら、犬と猿も具体的にしたほうがいいのか、それとも雉を鳥として、読み手が感情移入しやすいように抽象化したほうがいいのか。

そもそも、仲間の種類を特定してしまっているのがよろしくないという見解もある。

n、n+1、n+2くらいの表記にとどめておいたほうが親切ではないだろうか。

 

andymori解散から10年

andymoriがTikTokの女子高生に流行っているらしく、喜ばしいことだなと思っている。

好きなものが自分以外の誰かによって不当に消費されてしまうのは悔しいし、ノスタルジーが汚されるような感覚に陥るのもわかるけど、単純に、andymoriを好きな子が増えたら嬉しい。とっかかりはなんであれ、自分がそうであったように、聴き継がれていってほしい。音楽は再生(play)されるたびに再生(rebirth)される。

いつか自分よりも10コ年下の子に、andymori好きなんです、って言われたい。

その子も、私と同じように、10代をandymoriと共に過ごしていてほしい。

10代の時間を共に過ごした音楽は故郷の景色と強く結びついていて、その頃よく聴いた曲を今聴くと、故郷の街の風景とか、灯りとか、においまで、頭の奥のほうで明滅し始める。

「僕が白人だったら」とか「ゴールデンハンマー」とか「楽園」とか「ナツメグ」の話をしながら、いつまでも10代を思い出していたい。

 

andymoriが解散して今年で10年が経つ。

2014年の私はまったく冴えなくて、浪人して予備校に通い詰めていた。

2014年の思い出は、予備校の蛍光灯の眩しさと効き過ぎたエアコンの寒気と、andymoriの解散だけだ。

解散コンサートの日本武道館に行きたかったけど、チケットが秒速で売り切れて、転売の価格もすごいことになっていて、行けなかった。

動画配信がされていて、その日は勉強をせずに、スマホの前で固唾を飲んで見守っていた。

解散コンサートだったけど、悲しさよりも、なにか興奮が勝っていたと覚えている。ライブの間は繰り出される音の波に夢中だった。

ライブが終わったあと、バンド仲間とLINEをしたように思う。すごかったね、解散した気がしないね、と。

でも、終わっちゃったね、と。

 

あれから10年。

もう10年。

 

この10年の間を思い出すと、苦い思いもあるけれど、大学に入ったり、卒業したり、就職したり、結婚したり、転職したり、じつにさまざまなことがあった。

そして私はandymoriを聴き続けている。

andymoriを聴き続けて10年以上が経っている。

聴くたびに心の中にあるふるさとに帰る気がしていて、自分を取り戻すような感覚になる。

 

普通に邪悪な地球温暖化

ギリス・ロンドンを流れるテムズ川では毎年、大学対抗のボートレースが行われていて、優勝チームは川に飛び込む恒例行事があるのだけど、今年は飛び込み禁止になったらしい。

信じられないくらい汚染されているからだ。

川で吐いた学生もいたという。ふつうに、人糞が浮かんでいるらしい。ほとんど下水なのだ。

そんな川でオールをばしゃばしゃ漕いでどのチームが1番になれるかを競うなんて、やや滑稽ですらある。これにはブリティッシュ・ジョークもきかない。

どうしてこんなことになっているのか。

イギリスの下水法では、浄水施設の許容量を超える雨量の場合は、浄水せずに川に垂れ流してよいと決まっており、最近は例年の倍以上の雨が降ったため処理が追いつかなくなり、ロンドン市民のとんでもない量の汚染物質がテムズ川に放流されているのだ。

実際に大腸菌は命に関わるレベルで増殖していて、ひどいニオイで体調を崩す人もいるらしい。

菌は皮膚粘膜からも浸透するため、安易に手で触れるのも御法度だ。

そもそもテムズ川は汚い川として昔から有名だ。1850年代には悪臭により病気が蔓延したとも言われている。

 

それにしても、こんなひどい雨が降るのも、地球温暖化に端を発する異常気象のせいかもしれないと思うと、恐ろしい。

ドバイでも2年分の雨が1日に降ったりするし、日本の夏には集中豪雨で災害が起きるのが恒例になりつつある。

地球温暖化のせいで大量の雨が降り、それによってテムズ川を人糞が流れ、その水に触れた者のお腹を壊す。大規模なことが、ある民家のトイレにまで繋がって、一人のお腹をぶっ壊している。

こうなると地球温暖化は他人事ではない。

まぁまだ平気だろう、とたかを括っていたが、もう取り返しようのないところまで来てしまっている。

これが人間のせいなのかわからないし、どうにかできるのかもわからないけれど、なんか馬鹿にしたりするのはやめようと思う。

環境活動家が歴史的絵画にトマトスープを投げつける気持ちもわかる。でも私が真に地球を愛する環境活動家だったら、ただちに自身の呼吸を止めて絶命を図るだろう。もはや人間一人間引くのが、温暖化抑止には手っ取り早いと考えられるから。

私たちはこの星を汚染せずにはいられない。

 

クソみたいな天気(春なのに30度を超えるなど)になると「令和ちゃんはまだ天気のコントロールに慣れてない!」みたいなネタがあるけど、この期に及んでまだそういうことを言うやつがいたら、そいつに向かってトマトスープを投げつけようと思う。

現実逃避してる場合か?と。

お前の言う令和ちゃんの正体は、ただひたすらに邪悪な、地球温暖化なんだぞ、と。

 

2019年のこと

2019年に書いたブログにコメントをくださった方がいた。

それは私がお台場のエセ・ニューヨーク気取りに苦言を呈するというなんとも若々しいブログで、今読み返すとちょっと笑えてくるくらい「おいたわしい」文章で、読んでいるとむずむずしてくる独特のノリがある。

コメントをくださった方は、お台場の自由の女神像について調べていて、拙ブログにたどり着いたらしい。

なんでもかんでも調べる人がいるものだな。

調べた挙句、ただただ、苦言を呈するその記事に辿り着いたのだから、時間の無駄もいいところだ。

でも、その人にはなにかちょっと、共感を与えることができたっぽいので、まぁ、これも、いつかの愛ということになろう。

 

そのブログを読み返して思い出した。昔のブログは行頭を一字下げにしていた。

それがオリジナリティだと信じていたのだが、今見るとなんか読みにくい感じがする。

また、太字や色文字を多用していた。

太字で笑いを取ろうとするのは結構難しいことがわかる。そもそも、こんなブログに太字にすべき大事な箇所なんてないのだ。

昔、教科書に赤線を引いていたら「全部大切なんだから意味ないぞ」と先生に言われたことを思い出した。だからなんだよ。じゃあ教科書まるまるテストに出せよ。

突然の殺意。

 

ブログの頭を大文字にするのは一貫して続けている。

これにはまったく理由がなくて、それこそオリジナリティだと思って最初に始めたのだけど、今となってはこれをやっておかないと、自分のブログという感じがしないまでになっている。

これ、本当になんなんだろう。

謎に思うたび、もうこういうのは止めるか、と逡巡するが、でも読みにくくもないし尖ってもないし止める理由もとくにないので、なんとなくで続けている。

 

このブログもいつか読み返す日が来るのだろうか。

4年後に誰かがこのブログにコメントをくれたとき、私は今日のブログに何を思うだろう。

ヒカルの碁

『ヒカルの碁』を読破した。今更。

これまでジャンププラスでたまに無料開放されていた話を断片的に読んでいて、こりゃあ面白い漫画だと思っていたのだが、もう我慢ならず、満を辞して電子書籍で全巻購入して一気読みした。

すごい漫画だ。

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よく言われる「ヒカルの碁を読んでも囲碁のルールはよくわからない」というのは本当で、頻繁に出てくる用語もどこかで一回は説明を見たはずなんだけど、なんとなくでしかわからない。

盤面の解説も用語だらけでよくわからないし、その解説は作中の人物の会話でしかなされないため読者としては何が何だかわからないのだが、まったく問題なく話が成立している。

囲碁がわかれば面白いし、わからなくても面白い。

囲碁の知識は作中に出てくる最低限すらわからなくても、話が面白いから読ませる。

どうしてそう面白いのかというと、話の主軸が盤面の形勢ではなく、勝ったからキャラクターはどうなる、負けたからキャラクターの心情はどう変わる、手合いにどういう気持ちで臨む、相手とはどんな関係性にある、といった人間ドラマにあるからだろう。

殴り合いやビームの出し合いや空中戦なんかはない、会話劇で話は進むし、囲碁という地味な描写で、しかしながらどこにどんな手を打っているのかわからないにも関わらず、ハッと息を飲むほどに迫力のある描写が随所にある。

いくら囲碁が地味だとは言え、この作品は小説では成立しえなかったのではないだろうか。

漫画特有の「見せる」読ませ方が、囲碁というよくわからないゲームの、素人目の退屈さを感じさせない。

「よくわからない」状態がもはや心地よい。

なんかコミとか、ヨセとか、用語が格好いい。

なんとなく伝わる「凄み」で読める。

それには、小畑先生による実に誠実な作画技術があるからだろう。本当に誠実に、精密に、丹念に、職人的に描いている。

 

「どうして囲碁を打つのか」というテーマが根幹にあって、それは佐為が現代に蘇った理由に関わることであるし、そのテーマから派生して「どう生きるか」があり、さらに「真剣になるということ」とか「目標を持つという素晴らしさ」とか「向き合わねばならない弱さ」などといった派生テーマが繰り広げられている。

ヒカルの碁』というタイトルの回収が素晴らしくて、このタイトルにこそこの作品の言いたいことが詰まっていると思う。

ヒカルの打つ囲碁は、ヒカルだけが打つ囲碁じゃない。遠い過去からの研鑚と、現在の出会いと、そして未来へ繋いでいくものなのだ、という。

 

何を言ってるのかわからない人は、ぜひ読んでください。

本当に最高の漫画。

なんていうか、漫画という表現の可能性を押し広げた、漫画史に残る傑作だと思った。

オッペンハイマー

『オッペンハイマー』を見てきた。

クリストファー・ノーラン監督の作品はいつだって信頼しているし、その期待を裏切らない作品だったと思う。

断片を繋ぎ合わせたようなノーラン節全開の会話で状況を呑み込むのに時間がかかった。ワンカットごとに時間軸が移動する展開には『メメント』のときの技法も見られたし、おお、ノーランだ。という感想が常にスクリーンに映し出される。

監督の作品を映画館で見るのは初めてだったのでまずその点において感慨深かった。

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内容的は予告通りに重いもので、笑えるシーンといえば「一緒に揺れたい」という会話からの濡れ場&行為の途中でサンスクリット語を読むところくらい。なんだそれ。

個人の感想として、これが日本で公開延期されていたのは、配給会社の及び腰だったのでは、とも思ったし、その配慮もわからなくもないな、という感じだった。

原爆を作った人間の英雄譚ではないし、かといって断罪の映画でもなく、問いかけの映画だったように思う。

映画の冒頭で、人間に火を与えたプロメテウスのギリシャ神話が引用される。プロメテウスは神々から奪った火を人間に与えた罰で、岩に縛り付けられて永遠に拷問されるのだ。

オッペンハイマーは原爆を作ったことにより、人類に最悪の「火」を与えた。

広島と長崎の惨劇、冷戦の始まり、水爆の開発……。列強各国は当然のように核弾頭を所有し、ボタンひとつで世界を滅亡させることができる。

私たちの歴史は原爆開発の事実をどのように受け止め、彼への評価をどうすべきなのか?

まだその過程にあるわけであって、これから歴史に起こる「行動」がその評価を決定付ける。

ロスアラモスの大地を誇るか、呪うか。

見る人の倫理観や、歴史観や、感情によってこの映画への評価はそれぞれに異なるものだろう。

もし私自身が原爆に焼かれた人だったら、オッペンハイマーの栄光も罪悪感も政治劇も「知るか」と吐き捨てるだろう。なにも知らない異国の子どもだったら、原爆が成功してよかったと喜んだかもしれない。

私は日本人で、戦争を知識でしか知らない。その立場があるからこそ中立的には見れないし、どの立場であったとしても、誰しもがそうなる映画なのではないだろうか。

歴史への評価はいつだって「揺らぎ」があるから。

だから、さっさと公開して、論争を巻き起こせばよかったと思う。

 

原爆投下後、英雄として祭り上げられた彼の虚無と罪悪感を描き出したスピーチのシーンは、圧巻だった。

喜び、涙を流し、吐く人や夫婦で抱き合って成功を喜ぶ人たちを目にしながら、罪の意識で冷ややかに押し潰されていくオッペンハイマー。歓声なんて聞こえなくて、自分の言葉が嘘みたいに響く。歓喜に沸く人々のなかを、人の形をした灰を踏んで歩く。あそこが撮りたかったシーンなのだろうなと思えるくらいよかった。

 

上映後、すごく頭が痛くなったので、帰って眠った。