大学生のころにぼくが心酔していた先生は、夏になるとたいてい乳首が透けていた。
日本文学の先生で、キッと切り立った岩山のように強い志を持ち、ときに厳しくも愛情を持って学生に接し、長い髪をひと束にまとめて教壇に立つ、学生を導く革命家のような人だった。
だが、先生の乳首はいつもシャツから透けていた。
念のため言っておくと、先生は「男性」である。念のため。
誰かが先生に乳首が透けていることを教えたほうが良いのではないか。
先生は高そうなジャケットを脱ぐと教壇の上に大雑把に置き、白いTシャツから乳首を透けさせる。クロムハーツの指輪や重そうなネックレスよりも乳首は自己主張が激しく、まるで学生を睨む第二・第三の眼(まなこ)のようだった。
なんて黒いのだろう。
信者たるぼくはいつも教室の前方の席で講義を受けていたが、ギッと睨まれると萎縮するのであった。
先生、肌着を着たほうがよいと思われます。
しかし、挙手してそのように訴える者は一人としておらなかった。
先生は苛烈で虎のように獰猛であり、かと思えば文学者らしく芍薬の花のように繊細なのである。もしそんなことを言ったら……。想像しただけでゾッとする。
授業が終わると学生たちはヒソヒソと「今日も透けてたな」などと囁いて笑う。授業中にこのようなヒソヒソ話をしようものなら一発で退場、即火葬なので雑談は必ず授業後と決まっていた。
たしかに今日も先生の乳首は透けていた。
だが、本当に「それだけ」だろうか?
先生はただ闇雲に乳首を透かしているのだろうか?
あの碩学(せきがく)たる人が乳首をむざむざ日の光の下に曝すとは到底思えない。
これは先生からのメッセージなのではないか?
だんだんとぼくはそう考えるようになった。
当時、ぼくは教室に友だちと呼べる人がまったく居なかった。居ないというか、そういう関係性を持てるような優れた人間性ではなかった。そうした人間性に目を向けて諦念を抱けるようになったのはこの数年だが、当時はそんなメタ認知をしていなかったため、「ぼくに友だちがいないのは、ぼくが悪いのではなく、周囲のレベルが低いからだ」と断定し、迎合をよしとしなかった。そんなことだから友だちがいなかったのだろうと、今ならよくわかる。
周囲が先生の乳首を笑う中、ぼくは先生をさらに崇拝するようになった。
そうしてある日、孤独なぼくは、先生の乳首からメッセージを受け取ったのである。
「孤独ではなく、孤高であれ」
乳首が透けているからなんだというのだ。
先生はいつだって胸を張って、肩で風を切って歩いていた。
「堂々と自分らしく生きろ」
先生の生き様はまさにその言葉通りのものだ。
学問をする理由の究極のところは、人間とは何か?を追求し、自分とは何であるか?の答えを出すところにある。これはアリストテレスのいた時代から共通するところであり、あらゆる学問は結局、「人間」に向き合って、人間を究めようとしている。
文学はその最たるものだと先生はよく仰っていた。
自分とは何か、その問いを追求する者が自分自身をまったく持っていなかったらどうなるだろう。その問いを究めるには圧倒的な「自己」が必要なのである。
乳首はその象徴的なものなのだ。
ふつう誰だって乳首が透けるのは恥ずべきものであるが、先生は隠さない。
「そんなことをどうとも思っていない私」が確立している証拠、それこそがあの乳首なのである。
圧倒的な自己。揺るぎない自我。
それはまさに孤高である。
あれから数年。
先生は今もお透かしになられているのだろうか。もう最後にお会いしてから8年近くの時が経とうとしているのだから、先生の気持ちが変わってしまっている可能性もある。
「乳首が透けていることは必ずしも自己の確立ではない」
先生は肌着を着ておられるかもしれない。
でもそれは少し寂しいな、と懐古の念を抱く。
先生の乳首は今でも透けていますか?
今年もまた、夏が来る。