蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

タイだと思うことにした

年は特に暑い、というのがもうここ3年くらい続いてるけど、それにしても今年は特に暑い。

暑さの種類が「暴力」とか「迫害」とか「殺傷」とかそういう類になってる。これらの熟語にならぶ概念として「夏日」が加わる。

 

夏、好きだったな〜。

午前中とか朝は涼しい風が吹いててさ、昼から夕方にかけてはカンとした暑さがアスファルトを焼いて、夕方になるとこもった熱が夕陽に溶けていく匂いがしてさ、ちょっと淋しくなるんだ。

今はどうだ?

朝がまず最悪で、駅に行くまでにその日の体力の半分くらいを使い果たし、駅で待っている間に汗が吹き出す。なんで立ち止まると汗が出るんだろう。止まれよ。

電車に乗っても全然暑いですね。クーラーがあんまりきいてない。これは私の路線の問題なのだろうが、ドアの開け閉めが多いのと人がたくさん乗ってるので、冷房の恩恵をあまり受けられてないんですよ。

いや、これが普通の暑さだったら十分なのだろうけど、この酷暑では意味をなさない。20分くらい乗ってるんだけど、ずっと汗ダラダラ。

弱冷房車に乗ってる人の気がしれない。

あと、これは、ここからは悪口になっちゃうので読み飛ばしていいんですけど、寒がりの人ってなんなんですか?

寒がりの人ってノースリーブとかテロテロの涼しそうな服着てて、「寒い!」って騒いでませんか?どう見ても寒そうな格好して寒いと騒ぐのって……笑

こっちはクーラーを22度とかに設定してるわけじゃなく、26度くらいで譲歩してるんだから、寒いなら上になにか羽織れよ。こっちはこの温度でも我慢してんだわ。

上着ても体の中心部、内臓が冷えるから意味がない?

外に出て日光浴びてこいよ。亀みたいに。

すみません。

 

で、話戻すけど、昼になるとさもっと暑くなんのね笑

この暑さがちょっとすごすぎる。

息を吸うと、肺が焼ける感じする。

BBQで肉焼いてるときみたいな。

こんな暑さは今まで体験したことが……いや、ある。

数年前にタイに行ったとき、ちょうどこんな暑さだった。

排気ガスと湿度と熱射。それはちょうどタイと同じ。

そう思うと、なんだ、タイか、と納得できて、いま私はタイにいるんだと思えて、異国情緒に浮かれてもくる。

タイなんだ!

なんて楽しくてハッピーなんだろう。

 

昔のちょうどいい暑さのときはアイスコーヒーとかかき氷が美味しかったけど、いまはもうそんなことはない。店に行くまでがしんどすぎる。

いま気持ちがいいのはエアコンだけ。

エアコンを発明した人には紫綬褒章とかなんらかの栄誉ある表彰をすべきだ。天皇陛下直々に感謝の詔を宣うべきだ。

 

夕方の美しさもなくなり、夜も夜でアホみたいにぐつぐつしてる。

地球はもうダメかもしれないと思う夏。

微笑みのないタイと化した日本。

 

信号機ラプソディ

号機を無視してはいけないのだけど、無視してもいいものはある。

うちの近所には2機ある。

ひとつはまったく意味のない信号で、どうしてここにあるのかもわからず、地元の通行人からは完璧に蔑ろにされているものだ。

その信号機は虚しくも赤と青を灯し、時折、点滅したりもする。だけどそのすべてが無視されている。使命に駆られて馬鹿みたいだ。

かつてはその道の奥が施設?と繋がっていたようだが、その施設は潰れ、袋小路になっているので、その信号もお役御免というわけだ。

だが、信号機は撤去もされずに今なお歩行者へ安全を呼びかけ、道路を正常に保とうと努力を続けている。道路自体がなくなったわけではないし、ごく稀に工事機械の行き来があるようなので、撤去もできないのだろう。

 

2つ目は朝の通勤時のみ無視してもよい信号機だ。

一方通行の出口にあり、速度の出せない道路で、しかも見通しが良いため、クルマが来ていなければ余裕で無視できる。

朝は急いでいるし、駅の近くにあるため、ここの赤信号を律儀に守って電車一本逃すなんて馬鹿らしいのだろう。

見ていると、左右の確認もせずダーッと駆け抜けていく歩行者もいる。走行者か。

ちなみに夜はそこそこクルマが通るので、無視すると死ぬ。

人々はこの2つの信号を無視して、我が家の春とばかりに横断歩道を跋扈する。

 

ところで私はちゃんと守ってますよ?ええ、守っていますとも。私が無視してるなんて言いましたか?決めつけはやめてくださいよ。失礼ですよ。

 

信号機は作動しているのに、まるで死んだ人みたいに無視されていて、そこにいないみたいな扱いを受けている。

信号機が可哀想だな、と思う。

もしも自分がこの信号機だったらノイローゼになってしまうだろう、というのも、給料はもらえてもやりがいのない仕事で意味を見出せないからだ。徒労である。

でもこの信号機たちは機械的な機械だから、律儀に赤と青と点滅を正しい時間に繰り返す。

そう、たとえ、私が死んだとしても。

まるで最初からその世界に私がいなかったみたいに、なんの影響もなく、信号を変え続けるのだろう。

自分の存在の小ささを信号機に理解させられる。信号機だけでなく、ほとんどすべての世界で、実は私がいなくなったところでなんの影響もないのだけども、信号機はその最たるものだ。

 

誰もいなくなった世界ですべての信号機が虚しく交通整理をしている光景を想像すると、あの無視されている2機に、よかったね、と言いたくなる。これでみんな一緒だね、と。

2つの信号機は、お互いにお互いの存在を知らないまま、ホッとする。我々はようやくこの徒労から解放されるのだ。

誰もいなくなったとわかって初めて、2人は目を閉じるかもしれない。

使命から解き放たれて、まるで眠るように。

 

業務用ジェットコースターに乗りたい

ェットコースターが好きだが、1人で乗るにはちと腰が重い。あれは一人で黙々と乗るものではなく、友だちや仲間とワイキャイ言いながら乗って楽しむものだ。

ジェットコースターはスタート前に「さあ、みんなで手拍子を!」とか「いってらっしゃーい!」とかいった、テンションを上げるためのイベントや、愉快な音楽がかかったりなど、喧しい。独りにはこういったイベントが最も堪える。

独りでそういうイベントにノってみても、スタッフや周りのお客さんに配慮してもらっているな、という負い目を感じてしまう。

みなまで言わなくてもわかるだろうが「あ、この人、独りなんだ」の情念を周囲から感じる。

「独りでも楽しめているならいいよね」

「おひとり様でも楽しめますよ!」

「独りなんだ」の本心を否定し、覆い隠すように心の表面で浮かんでいるそういった言葉が生み出す表情を、私は見逃さない。

私が存在することで、みんながジェットコースターを楽しめなくなっている。

私が存在することで、ジェットコースターの楽しい雰囲気を阻害している。

私は、あの落下のうちに、ひとり奈落まで落ちていきたい。スタート地点に戻ったとき、私だけが底のない暗闇へ堕ちていたい。

 

そうならないためにも、おひとり様専用のジェットコースターが欲しい。

友達と来ているやつは乗れない。完全に孤独なウルフだけが乗れる。

音楽もかからないし、スタッフは二日酔いの人ばかりで覇気がなく、乗り物の装飾も最小限に抑えられており、色はなんの塗装もなされていない錆びた金属色である。

定員に達すると、「動きます」とだけ伝えられて、一人でにマシンは動き出す。ぎこぎこと機械の摩擦音がする。

刻々と頂点へ上り詰めると、なんの感慨もなく重力に任せて落下する。物理の教科書をこのとき思い出すだろう。叫ぶ人もいるし、叫ばない人もいる。

いくつかの坂を登り、落下し、回転し、また落ちる。

そうして40秒ほどの楽しみは終わる。

スタート地点へ戻ってきたときに、笑う人もおらず、拍手をする人もいない。降りて荷物を受け取り、誰も喋らず(喋る相手がいない)黙々とその場を後にして、振り返りもしない。背後ではまた次の番が動き出しているが、機械の音しか聞こえない。

これが業務用のジェットコースターである。

こういうのが近所にあれば毎日乗りに行くのにな。

 

現実的に考えてこの乗り物は遊園地にあるものとして成立しない。

もうこうなったら私は、断続的に落下する雰囲気を楽しめる薬があれば、それでいいとさえ思っている。

薬をビールで飲み下し、シングルベッドに横たわる。

10分ほどすると心臓の音がバクバク聞こえ始め、鼓動に合わせて体が浮き沈みするような感覚が湧いてくる。

20分ほどすると体の重さが消える。ふいに、自分の体重を感じて、この世界の重さに目を覚す。落下する。

もう、こういうのでいい。

 

すべての美しいバスタオル

の持っているバスタオルは、すべてクサい。

お澱(よど)、と名付けて呼んでいるバスタオルたちは全部で4種類あり、緑、青、白、赤(錆色)にそれぞれカラーリングがあって、それぞれにニオイの種類も異なっている。最悪である。

緑のやつは風呂場の排水溝に溜まった石鹸みたいなニオイがする。石鹸なのでまだマシなのだが、どことなく排水溝の腐った水のニュアンスが繊維の網目にまで染み付いていて、宿痾(しゅくあ)を司る悪魔という一面もある。

青のやつは最悪で、なんかもう、わかんねーけど、動物の死体のニオイだ。ちょっとこれはもう話にならないので、このブログを書き終えたら捨てようと思う。

白いやつは清楚な雰囲気を漂わせる優雅な庭園のようでありながら、その実は人糞まみれの肥やし畑。見た目は子供、頭脳は大人と同じようなもんだ。見た目は清楚、ニオイはうんこ。カスのコナン。

錆色のこいつは一番意味がわからなくて、これまでのどれとも違う。小学校の下駄箱、真夏の校庭、盗まれた体操服、雨の日の犬の散歩、湿った靴下、みんなが忘れていた手紙の行方、墜落する気球、おばあちゃんちの炊飯器にこびりついてる黄色い飯、倒れた競走馬。ニュアンスとしてはこんな感じだろうか。

お澱たちのどれにも共通する二字熟語を挙げろと言われたら、腐敗、四字熟語なら腐乱死体。

 

バスタオルは一度使ったら洗うべきなのだが、毎日洗濯をするわけじゃないからそれは難しいので、洗濯機を回すタイミングまで同じものを使い回している。

これがよくない。雑菌が繁殖する原因だ。

雑菌まみれのタオルで、洗ったばかりの体を拭うとはこの矛盾やいかに。

きれいにした体にわざわざ汚い布を擦り付けて、ふぅ〜さっぱりした!とか言っているのだこの男は。

濡れた体ははやく乾かしたい。なぜなら陸上生物である人間が濡れた状態であるというのは「異常」だから。それなのに私は腐ったバスタオルしか持っていない。

いっそのこと、脱衣所によく乾いた藁を敷き詰めておこうか。風呂から上がったら、藁の上でゴロゴロして体を乾かそう。これならもう二度と、バスタオルがクサくなることはない。

 

藁を買うべくAmazonを開いたものの、いったいどれほどの藁があればよいのか見当もつかないので、結局はバスタオルを買うことにした。

商品一覧に載っているバスタオルはどれも新鮮で美しく、まさに体を拭うのに適していると言える代物ばかりだった。

すべての美しいバスタオル。

私の体を拭い清めておくれ。

 

君はサーティーワンに並んだか?

ティーワン・アイスクリームで必ず食べるのはポッピングシャワーだ。

ポッピングシャワーだけは、サーティーワンでしか食べられない。

可愛げの塊のような味に、どこか哲学的なニュアンスのある歯応え。目も眩むような色味に、まったく何も考えなくても楽しいことが伝わってくる名前。口の中で弾けるリズム。何もかもが最高のアイスクリームだ。

f:id:arimeiro:20240617213327j:image

それはそれとして、なんか最近、激安でアイスクリーム10個を買えるキャンペーンをやっていたらしい。

どのサーティーワンも見かけるたびにひどい人だかりで、みんなそんなにアイスが好きだったのかと驚いた。

ただ、普段からこれだけ激安ならみんな気軽に食べにくるのだろうかというと、そうでもない気がする。

本当に好きなのではない。

「安い」という情報が好きなのだ。

「今だけ安い」ことに踊らされているのだ。

私はサーティーワンを高くても買う。なぜなら好きだから。

安いときしか買わない人々よりも高貴である。

 

と、ひとたび思うと、冷凍庫の前に行列を成す人だかりがなんだか浅まく見えてくる。

あーあ、みっともない。

クソみたいに長時間並んでなんだ、アイスを買うってか。

めでてぇ奴らだ。

貧乏人情緒丸出しって感じだな。知らねーけど、品川区高輪とか白金台とかにあるサーティーワンには全然並んでないんだろうな。安売りしてなくても買える人たちばっかりだから。

あーあーあー、こんなに、うわー、他のお店の前にまで並んじゃって。

あなたおやめなさいよ、並ぶの。魂というものがあるのだとしたら、穢れますよ。確実に。

ええ?奥さん、どれくらい並んでるんですか?もうかれこれ50分?いやー、大変な騒ぎですな。

ここでサーティーワンの店長さんにお話を伺ってみましょう。こんにちは。どうですか景気は。

「いやー、それがとにかく売れまくるんですけどね、いつもより単価が安いでしょう。儲けがあるわけじゃなくてね、なんか安く買い叩かれてるようで気分が悪いですよ。それでいてとにかく忙しい。バイトもこの一週間で2人辞めちゃって。ほんと、本社にはなんとかしてほしいですね。せめてインセンティブ、欲しいですワ。このままじゃまアイスを掬いすぎて腱鞘炎になって、労災っすよ」

へぇー、これはこれは……。暑くなる一方で私もアイスなんか頬張れたら嬉しいんですけども、こんな状況じゃとても並ぶ気にはなれません。現場からは以上です。

 

私はそんなことを考えながら、サーティーワンの前でしばし呆然と立ち尽くし、歯をぎりぎり言わせて、その場を去った。

泣きそうになった。

 

おれだって、おれだってな、アイスをたらふく食いてぇよ。本当は。

 

でも、あそこに並んでしまうとこの痩せ細ったみっともない矜持が傷つくんだよ。

そんな状態で食べてもきっと美味しくないんだよ。

自分を傷つけるばかりか、誰かを搾取しているような気持ちにすらなるんだよ。

ぼけっと並んでる貧乏人どもと同じステージに立ちたくないんだよ。

でもアイスは食べたい。正直、めちゃくちゃ羨ましい。

貧乏人どうこう言ってるけど、私だって威張れる年収ではないどころか、大学の同期とはどんどん差をつけられている。

おれは、どうしたらいいんだ。

じゃあ定価のときに爆買いすればいいじゃないですか。実は28歳の誕生日のときにサーティーワンのバケツサイズを購入し喜んでいたこともある。そうだ、それでいいじゃないか。

でも、定価で買うとそれは今度は、ああ、なんで安いときに買わねぇんだおれは、損をしている。と思ってしまって、美味しく食べられない。

何がしたいんですか?私は。

 

おれは、面倒臭すぎる人間だ。

ゴミカスみたいな矜持を、大切な宝石のように大事にしている。

世間から浮いてる。世間を汚いもののように思っている。馬鹿だと思ってる。聞く耳を持ちたくない。

そうして、だからおれは、孤独になっている。

本当の馬鹿はどちらか、目に明らかだ。

 

サーティーワンに行列ができているというだけでこの有様。

生きるのに向いていない。

こんな気分のとき、ポッピングシャワーを食べられたらどれだけ救われるだろう。腱鞘炎になった店長にもうひと掬いしてほしい。

「リスキリング」に踊らされるな

スキリングって最近ちょっと流行り始めてて、意識が高い人はいくつもスキルを身につけてウハウハな人生を送り、最後は死ぬことができるらしいのだけど、ところでこのリスキリングって、本当か?と思うところがある。

リスキリングというのは、私も簡単にしか聞いたことがないので簡単にしか説明できないのだが、現在持っているスキルのほかに、何か別のスキルを2つか3つ身につけないと破滅して死ぬ、というキャリアデザイン的な話だ。

たとえば医療事務のスキルとデザインスキルと広東語が話せるとか、プロダクトデザインとカメラワークと簿記とか。そういう人は結構素晴らしい。便利な人間だから、いっぱい働いてもらいたい。

このように多元的にスキルを持っていないと今後の世界では通用しなくなっていく、というのだ。

通用しなくなるというのはつまり、誰からも必要とされず、誰からも愛されず、誰かに抱きしめられることも誰かを抱きしめることも、温かくて笑顔のある食卓に座ることも、懐かしい音楽を聴いて望郷の念に浸ることも、柔らかなベッドの上で息絶え、ちゃんとした棺桶に納まることもできない、ということだ。

逆にリスキリングさえすれば、誰かから必要とされ、誰かに愛され、彼かに抱きしめられたり誰かを抱きしめたり、温かくて笑顔のある食卓に座れて、懐かしい音楽を聴いて望郷の念に浸り、柔らかなベッドの上で息絶えて、ちゃんとした棺桶に納まることができる、というわけだ。

ちゃんとした棺桶(四角くて重くて清潔で扉がついている)に納まりたいなら、すぐにでもリスキリングすべきである。

そういう思想がリスキリングだ。

 

リスキリング、本当か?

なにかひとつを極めて、それに誇りを持って生きられれば十分だと思うのだが。

十分すぎると思うのだが……。

問題とすべきは、ひとりでいくつもスキルを持っていないと不幸のどん底に突き落とされてしまうような世界の方にあるのではないだろうか?

そのような優しくない世界については、申し訳ないけど価値がないと言いますか、極端に言えば革命によって解放されるべきじゃないでしょうか。

少子高齢化がえげつないスピードで進んでいて、もうちょっと救いようのないレベルまで来ちゃってるらしい。そういう背景もあって一人で何役もこなせないと社会が成立しなくなるのだろうか。

……そうか???

いまいち腑に落ちない。

今よりも人口が少なくて生活水準も今より低かった江戸時代の人たちもリスキリングしていたのか?百姓と大工と屑屋を兼任していたか?そうしないと社会は成立しなかったのか?その時の人たちには棺桶も骨壷もなかったのか?

 

今から嫌なこと言うけど、リスキリングは誰かの金儲けだ。

広告や書籍で不安を煽り、それによって焦った人たちが、転職や資格やリスキリングリスキリングしたものに金を注ぎ込むことで経済を回す(ソファでくつろぐ誰かの懐に金が入る)ことを目的としている。

断言する。

そうです。

これに踊らされているようでは魂の格が落ちます。

 

私たちは、リスキリングを推奨する社会の方に問題があるということを、もっと問題とすべきだ。

そんなに立派になるのが大事か。立派な生き様というのは誰かに規定されなきゃ自分で決めることもできないのか。

立派ではない人間にとってはそうなのだろう。

堂々と生きていくのに誰かの気まぐれで決めた尺度を使うなんてみっともないと思わないのか。

 

スキルをいくつも身につけないとやっていけない社会という、なんとも選民的でエリート嗜好で即物的な価値観が気に入らない。

誰が言い始めたのか知らないが、そんなあなたは好きなだけ重厚な棺桶に入ればいいと思う。

「ユニクロの新しい服着用時サイズシール付着恐怖症」になってしまった

ユニクロの服には値札以外に、サイズの表記されたシールが貼ってある。

M

M

M

M

M

M

↑こういうやつ。

そんなM言わへんでもわかるわ、ってことからか、それとも昨今のエス・ディー・ジーズ風潮もあるためか、この間買ったシャツは左の胸の辺りに

M

この一文字が心許なく貼られているだけに収められ、なんだか世も末だと思った。

(こんなことで世も末と思うわけないのだが、これは文章上の演出というか、嘘、ですね。なんか世も末とか言うておいたらおもろいんちゃうか、みたいな、なんて、浅い考えです。すみません。)

(もうひとつ告白すると、ユニクロの話をしてるけど、これGUの話かもしれない。

GUとユニクロって姉妹ブランドで同じビルの違うフロアに入ってたりしてハシゴすることも多いからどっちがどっちかわからなくなるんですよ。

GUかユニクロか、その議論をしてもしょうがないので、この記事ではユニクロのこととして進行します。)

 

閑話休題

とにかく、ユニクロの服にはサイズシールが貼ってある。

値札はハサミで切るけど、このシールが曲者で、衣服にシールが貼ってあるスキーマ(認知の枠組み)がうまく形成されていないからか剥がし忘れることがしばしばだ。

これはユニクロあるあるで、よくネタにされている。

私も剥がし忘れたことがたぶんあったし、友だちが剥がし忘れているのを見たこともある気がする。ネットで調べると、剥がし忘れた人が何人も出てくる。

 

「剥がし忘れたかも」

3〜4回着るまでこの思いを拭えない。

その服をくまなく見てシールがないことを確認したうえでも、着てからしばらくすると「まだどこかにあるかも」という念が思考を支配してきていてもたってもいられなくなる。

この間なんてトイレの個室に入って服を一旦脱いで確認してしまったほどだ。

どこにもシールはなくてなんとか落ち着きを取り戻せたが、この行動はちょっと異常なんじゃないかと思った。

強迫観念に近いというか……。

さすがにこの一件でその服に関しては納得できたが、また別の服には強迫感を抱くかもしれない。

 

シールがまだあるかも、という恐怖はトイレでの脱衣にまで至らせた。一度気になるといてもたってもいられなくなるのだ。

そもそも新しい服であってもまずは洗うべきだとする見方もある。それは正論だが、試着などで着まわしたものではないのなら、私は洗わない派なのだ。そういう思想なので仕方がない。宗教が違えば、

そちらの邪神は我々の神になる。そういうことだ。