蟻は今日も迷路を作って

蟻迷路(ありめいろ)の文章ブログ。小説、エッセイ、真面目な話からそうでない話まで。Twitter→@arimeiro

残業、空腹、眠気

 運にも、新人ゆえに残業をしないで済んでいる。

 月10時間いかないくらいだ。

 だから、一日で2時間くらい残業するとへとへとになる。

 このブログを読まれる数多の社会人の先輩方にとっては、なんて羨ましい奴だろうと思われるだろうし、舐めてんのか若造とも思われるだろう。

 じっさいに若造だからしょうがない。

 

 残業代を稼ぐよりも、私ははやく帰って自分の時間を持ちたい派だ。

 仕事の時間が長引くほど、一日の半分しかない自分の時間は削られる。そのうちのさらに半分以上は眠りに費やさなければならないから、定時で切り上げてもプライベートで自由に使える時間というのは6時間もない。6時間のうちにブログを書いたり、小説を書いたり、エロいことをしたり、そうではないことをする。

 

 今日は2時間の残業をした。

 PCの画面を睨み続けたおかげで目がしょぼしょぼするし、肩がこるし、頭が痛い。脳みそをフル稼働させていたので思考が巡らない。

 職場を出てから、気分が悪くなった。脱水症状みたいに手足が重くて、胃から苦いものがせり上がってきそうになる。あとから気付いたが、極度の空腹だったのだ。血糖値が下がり、眩暈がした。

 空腹は不幸だ。

 いちばん悲しいことだ。サマー・ウォーズの栄おばあちゃんも言ってた。

 私の場合、空腹だとものすごくネガティブな気分になる。自分はどうして生きているのだろう、死ぬために生きているのだろう、どうしようもない圧倒的孤独感が心の穴を広げて奈落を見せる。すべてが憎い。

 改札口ですんなり通れない輩を前にすると、蹴り上げて舌打ちしたくもなる。目に障る人間を粛正したくなる。駅構内で叫びたくなる。

 そういうときは、だいたい空腹のせいだ。腹が満たされるとネガティブは影を潜め、心の奈落の穴は狭くなって見えにくくなる。ある意味幸せな人間なのかもしれない。

 たぶん、電車の中で態度が悪い人や舌打ちをする人間は、空腹で疲れているのだろう。

 

 20時半、自宅最寄りのコンビニで弁当を買う。ビールを3本とアイスを3カップ買う。

 家に帰り、弁当をチンして、その間にビールをすする。空腹にビールが沁みる。胃が痛い。

 弁当を食べながらラグビーを観戦する。ラグビーは多種多様な反則がある。こんなに反則を考えられるなんて、人間はろくでもない。

 

 弁当を食べ終えて、自室に入り、PCを立ち上げる。

 ブログを書くためだ。よくやるよまったく。これを書かないと私は仕事に一日を奪われた気分になって、よくない夢を見る。自分のために書く。

 最初の意味段落を書いたところで、急激な眠気に襲われた。自分が何を書こうとしているのかもよくわからない。私は眠りに落ちる前に、このブログを書き終えることがで

 

「心」の象形文字は「ちんちん」だろ

 学生の頃、ある講義の教授が「心」についてよく語っていた。

 心とはなんだろうか。

 それは「私」とはなんだろうか、という、学問が最終的に追い求める究極にして根本の問題につながる。

 「私」というものを究明するために我々は学問をするのであり、芸術をするのだ。だから私たち文学部は本を読み、そこから作者という人間を探ろうとする。文章を書くことでそこから読み取れる自分というものを探っていく。

 そして「自分」こそが最もわからないものである。

 文章は心を映す鏡であるけれど、自分ではなかなか本質を見極められない。

 そういう話をよくしていた。

 

 その話のさい、教授は「心」の字の成り立ちについても説明してくれた。

 「心」は象形文字が変形したもので、もともとは心臓を象(かたど)ったものだった。

 どういう象形文字だったか、教授は黒板に描いた。

 

 

 

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 ちんちんじゃん。

 

 

 

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  ちんちんじゃねーか!!

 

 

 「心」は「ちんちん」だった。

 後ろの席の男子がボソッと「ちんこじゃん」と言った。

 教授はなおも「心」の話を熱くする。黒板に描かれたちんちんを前にして。

 ひとしきり話す中で、教授は三度、ちんちんを描いた。何も知らずに途中から教室に入ってきた学生は、どうして黒板にちんちんが3つ書かれているのか、首をかしげたはずだ。あれは「心」だよと教えてやってもますますわけがわからなくなるばかりで、すごい詩的な変態の一言だと思われるのがせいぜいだろう。

 

 こういう経緯があって、私は「心」の象形文字をすっかり覚えてしまった。

 ノートにちんちんを描きながら、「心」だなぁと思った。逆である。

 

   ↓

 

 ところで「ちんちん」は「心」とはかけ離れたところにあるものだと思うのは私だけだろうか?

 彼(ちんちん)はまったく言うことを聞いてくれない。

 「今じゃない」と私の心は思っているのに彼は「今だ」と言わんばかりに怒張するし、「今こそだ」と私が命じたときには「今は時じゃない」と首を垂れる。

 私の肉体の一部であるにもかかわらず、他人のように振舞う彼は底知れなくも儚くて、ときどき愛しい。

 だからこそ、私の心と彼の意思が合致したときは、ゴテンクスよろしく一つの体になって最高のパフォーマンスをする。「よしよし、相棒」と、2人でグラスを傾けたい気分にすらなる。

 

 なるほど、自分の肉体の一部ですらうまくコントロールできず わからないものであるのだから、「自分」というものはそう簡単にわかるものではないのだ。

 私は自分というものを探し、見つけ出し、わかるために、これからも文学に励もう。



 

二度寝を阻む者共

  うちの職場は早番と通常出勤と遅番がある。

 早番は通常よりも1時間早く出勤し、遅番は12時出勤となる。どの出勤体制でも勤務時間は8時間半で変わらないのだが、早番の日は一日が早く終わり、遅番の日は一日が長く感じるので、私は早番が好きだ。

 

 遅番の日は半日家で寝ていられるかと思われるだろうが、実はそうもいかない。

 というのも、早起きに身体が慣れてしまっているので、遅番であってもだいたいいつもと同じ時間に目が覚めてしまうのだ。

 そうなると起きている時間が長くなるため、一日は長く感じられる。だけども、起きてる時間はどの勤務時間だって同じことなので、あまり関係がないように思う。だけども、ともかく早起きをすると一日が長くなるので損だ。だけども、それは損なのか、はたして。わからなくなってきたのだけどもね。

 

 遅番の午前中は時間を持て余す。

 なにかをするには時間が足りないし、このあと仕事行くんだ、という気が常にあって、リラックスもできない。いっそ殺せ、とも思う。

 今日も遅番なのだが、結局7時くらいに目が覚めてしまって、そこから二度寝をしようと試みたものの、一度朝日を直に受けた肉体は寝ることを良しとせず、ベッドの上で微睡んだりYouTubeを見たり、無駄な時間を過ごしてしまった。こうなることはわかっていたのだから、潔くなんらかの活動を始めるべきだったのだ。

 

 7時ごろに目が覚めてしまった理由は、私の部屋の窓に被さる小さな飾り軒の上をカラスがぴょんぴょんかちゃかちゃ跳ねて遊んでいてうるさかったからだ。

 寝ぼけていた私は最初その音の正体がわからなくて、父親の亡霊が窓を引っ掻いているのかと思った。カラスのかたいツメがトタンの軒を跳ねる音だった。

 カッチャカッチャカッチャ

 うるせぇ。

 ぎっ!と窓を開けて睨んだら、カラスは北へ飛び去った。

 二度寝しよう……。

 

 

 しかし、寝ようと思うほど眠れない。

 外の音が気になる。

 ちょうどいいかんじに眠りに入っていけそうだというときに、どこかのガキンチョが自転車のブレーキをキーキー鳴らして遊ぶ音が聞こえてきた。

 キーキーキーキキキキー

 

 うるせぇ。

 

 どうしてわざわざうちの隣でやるのだろう。その公道から早急に立ち退いてほしい。私の部屋の真横の道路で朝っぱらからわけのわからない遊びをしないでほしい。

 キーキーキーキキーキーキーキキーキー

 

 うるせぇよ。

 

「うるさい。やめなさい」

 その母親らしき声が聞こえた。親子かよ。さっさとやめさせてくれよ。

 ひとしきりブレーキ遊びに満足した親子は、私の目をすっかり覚醒させて南へ去った。

 わけがわからない。起きろってことなのか。

 

 それで起きて、こうしてブログを書いている。

 昨晩は夜更かしをしたので、瞼がまだ重い。どの出勤時間であっても、規則正しい寝起きの時間を定めるべきなのかもしれない。

やれやれ、僕は……

 上春樹の有名な文章といえば「やれやれ、僕は射精した」だけど、はたしてそんな文章などといったものは村上春樹の小説内に存在しない。完璧な絶望と同じように。

 誰かが作ったデマである。

 たしかに似たようなシーンはあるけども、「やれやれ、僕は射精した」という文章を村上は書いていない。捏造である。

 しかしながら、この「やれやれ、僕は射精した」は村上春樹の小説をひとことで良く表した文章であるとも言える。「こんなこと書いてたかもしれない」と思わせる。書いててもおかしくないのだ。書いてたかもしれない。

 

  ↓

 

 射精「やれやれ」は一見対比的な言葉の並べ方だけどここで重要なのは「射精した」という過去形の部分である。

 男は射精すると「やれやれ」という気持ちになる。

 私も「やれやれ」とつい言ってしまう。

 

 なんだろう。

 

 つい一瞬前の熱情は急速に冷却されて、俯瞰して自分を見ているような気分になり、こんなことして情けないような、寂しくも愛しいような、愚者のようであり賢者のようでもあり、結局のところ私は動物で、どこまでいっても人間なんて内には野生を秘めているんだなぁと、悲しくも嬉しくなる。シンプルに複雑だ。

 隣の恋人をもう性的なものとしては見れず、ただ愛しい存在になってしまう。

 それで充分だと思うけど、性行為には性欲という健全な動物がいて、そいつがいないと純正の愛は育めないんじゃないかと思う。あくまで自然なかたちとしての。

 動物と人間が内側に両立しているから、たぶんバランスが良いのだ。

 女には女の事情があり、男には男の事情がある。男はそのふたつの内なる生き物をうまく両立させて歯車をきっちり合わせてやらないと上手く機能しなくなり、あるいは暴発したり事件を起こしたりと、日ごろのメンテナンスが欠かせない。

 単純だけど複雑なのだ。

 そしてうまく野生を飼いならせない男は、男じゃない。

 

  ↓

 

 「やれやれ」と言ってしまってから、「しまった」と思った。

 男には男の事情があるように、女には女の事情がある。うまくできた男なら行為後に「やれやれ」なんて言って女の存在を蔑ろにして言うもんじゃない。女の熱は長引くのだ(あるいは最初から冷めているのかもしれない)。

 私は「よしよし」と言いなおして、彼女の頭に腕を通して寝ころんだ。

 

「からだが熱くなってるね」彼女は私の首に触れて言った。

「とても暑い。ホット」

「ホッテスト」

「I am hotter than she.」冷静思考の私ははやくもまどろんだ頭でそんなことを何気なく呟いた。すると彼女は言った。

「than herじゃない?」

「ザンハー」

「どうだったっけ。忘れちゃった」

「あれだけ受験英語をやったのにね。たしかに、thanのあとは目的格が来るのだった」

「目的格?」

「 she-her-her-hers 代名詞の活用。目的格はO(オー)だ。SVOのO」

「なんだっけそれ」

 ここから、冷静さを備えた賢者の私の口は、思うがままに言葉を垂れ流した。

(以下、読み飛ばし可)

「英語の文型だよ。SV、SVC、SVO、SVOO、SVOC。あれ?SVOOなんてあったっけ。はは、すっかり忘れてやがる。えーとね、たしか、SVが主語と動詞だけなんだよな。I run.(私は走る。)みたいに。主語と動詞だけで独立して文章を作れるいちばんシンプルな文型なんだ。SVCがbe動詞を使うやつで、SとCはイコール関係になる。I am a man.(私は男です。)『私』と『男』は同じもので、イコール関係みたいな。be動詞があったら間違いなくそれはSVCだ。SVOは動詞の行先を伴う目的格が入る。例えばI hate you.(私は彼を憎む。)憎むという動詞の対象が必要になるんだよ。この対象こそが目的語であるのだよな。例文が悪かったね。I love you.の方がいい。そんでSVOOだけど、はは、うまく思い出せないな。makeってSVOOの文型を作るんだっけ?She makes me happy.(彼女は僕を幸せな気持ちにする。)みたいに。あれ?でもこの場合、meとhappyはイコールの関係になれるから、というものさ、これってつまりI am happy.ってことだから、やっぱこれってSVOC文型かな。いやぁ、もう全然忘れてるね。高校生の頃これだけは得意だったんだけど、もう高校なんて6年くらい前だから。怖っ。……じゃあSVOOってなんなんだろうね。目的語がふたつあるってよくわからないな。I give you love.(あたなに愛をあげる。)とかかなぁ。あれ?この英文間違ってない?loveって不可算名詞?だよね。合ってるわ。数えられないよ、愛は。そもそもさ、愛ってひとつなんじゃないかな。どうなんだろ。いろんなものに向ける愛や程度の差があるけど、結局のところ愛のしくみというか構造って同じで、そのしくみのことをloveとひとくくりに言うのなら、たしかにひとつしかないわけだから数える必要がないわけだ。一つしかないものを数えることはできない。たくさんのものを数えられないのと同じように。星の数は数えられても星空の数は数えられない。いや、星の数も数えることはできないね。なるほどね。いやぁ英語ってむつかしいね。本来こんなこと考えないで使えるはずなんだけど、こういうのを教えて理論的に英語をやるから中学高校と6年間英語をやってもまったく使えるようにならないんだよな。こんなことなら英語教育をやる前に国語教育をもっと実践的にやるべきだよね。国語の時間だって少なくてろくな文章すら書けるようにならないんだから。だいたい作文とか定型のものって気に食わないんだよ。型どおりじゃないからバッテンなんて、必死に書いた文章が哀れすぎる。だから皆、書くのが嫌いになるんだ。もっと自由でいいと思うんだよね。書類とか手紙とか公にする文書みたいなちゃんとしたやつはそれはそれで書き方を習うとして、そもそもの書くよろこびみたいなものを身につけた方がのちのち……」

 

 恋人は儚くも私の腕の中で眠っていた。

 

「そんな話したいんじゃないよ」と寝言で言われて、私は口をつぐみ、「やれやれ」と思った。決して口には出さない。

 

 

ハンモックの上にて

  ンモックが家にあればどれだけいいだろう。

    絶対に良いに決まっている。 

    少なくとも悪いことはひとつもないはずだ。

    ハンモックっていいよなぁといつも思う。

 

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   とある施設でハンモックを体験する機会に恵まれた。

   実際にハンモックに揺られてみると、やっぱり良いということがわかった。想像通り、想像以上だ、

    

 

    ハンモックに揺られていると、たとえばカンガルーの赤ちゃんは、お母さんのお腹の中でこんな気持ちなのかな、と思う。

    はは。それ以上、特にそれといった考えも浮かばず、天井のシミを見つめる。

    ハンモックの中はなにか考えることにまったく適していない。次第に思考をやめ、考えることを放棄し、ハンモックとは かすかな揺れに身を任せて空中にとどまることに何もしない喜びを感じるための装置なのだと、うつらうつらと言葉が湧く。

    

    ソフトクリームが食べたい。唐突にそう思った。

    冷たくて白くてかすかに濡れているソフトクリームを食べたい。なぜだかはわからないけれど、ハンモックに呑み込まれつつある私はソフトクリームを食べたら素敵なのにと思った。そうやって死ねたら最高なのに

   ソフトクリームは、実は雲にいちばん近い食べ物なんじゃないかと思う。

    綿あめではなく、実はソフトクリームがいちばん雲に近い。綿あめはどちらかといえば霞によく似ている。

    夏の雲、厚くてこんもりとした輪郭の、空の青をまったく突き放したあの白は、まさしくソフトクリームそのものだ。いかにも やわらかそうで、口の中に広がる甘さをたくわえていそうだ。あんなに甘いから、空に浮かぶことができるのだろう。納得した。

    ハンモックも雲によく似ている。雲に寝たらこんな感じなんだろうなって寝心地がする。

    ハンモックに包まれた人間は無邪気で、年齢を問わず幼く見える。誰もが赤ちゃん的な気持ちを抱く。母親に抱かれる気持ちになる。

    たぶん、雲に寝ても人はそうなると思う。ハイジのように無邪気になるのだろう。教えておじいさん→教えておじいさん→教えてアルプスの森たちよ、って途中からおじいさん教えてくれないと察して諦めてるよね。「森」で誤魔化してるよね。

    まぁいい。

 

    ともかく、雲とハンモックとソフトクリームはよく似ている。類語だ。

 

 

    ハンモックのせいでゆるくなった思考でこのブログを書いたけど、ハンモックがどれだけ思考をたるませるかよくわかると思う。

 

 

    ハンモックが家にあればどれだけいいだろう。

    仕事で嫌なことがあっても(嫌なことしかない)、家に帰ればハンモックがあると思うだけで、自分という見失いがちなものを心にとどめて強く生きられる気がする。休みの日は一日中ハンモックの上でビールを飲んでいたい。

 

    そうやって生きたい。

 

写真を撮ることの難しさ

  日、会社の運動会で、朝の閑散としたグラウンドを曇天とともに写真に収めた。見るからに寂しくて、こんなもの写真に撮らなければよかったと後悔した。

    その時である。

    牛脂が鉄板の隅で焦げ腐ったみたいな顔したおばさんが、デデデ、と私の元に駆け寄ってきて、「ちょっと!」と怒ったのだ。

  「写真撮んないでもらえます?!子どもが写ってたらSNSに絶対に載せないでください!うちも載せないんで!」

 

    最初、なにを言っているのかまったくわからず、誰に向けて言ってるのかもわからなかった。というのも、そのおばさんが、なにか、もしくは灰色の風船に焦げた牛脂顔が乗っているものに見えていたので、人間とは認識できなかったためである。あるいは、その姿に驚嘆していた。

 

    おばさんが去ってから、あ、今おれは人間に注意されたのか、怒られたのか、と認識し、金麦をすすった。この日私は朝から飲酒していたのだ。

 

    なるほど。

 

    たしかに昨今、写真に写った背景の人がSNSに載せられて勝手に拡散されてしまう不本意な肖像権侵害の問題は甚だしく、また、怪しい男が子どもの写真を撮ってコレクションする・インターネットに載せるなど昔からの問題になっている不審な男の事案もあり、写真は撮りにくい時代になりつつある。

    母親が子どもを守るために防衛に出ることは正しい、というか、自然なことだと思う。

 

    前者の肖像権問題の場合、もうどこ行っても写真を撮ることが難しいよなぁと寂しくなる。まぁ、やたらに人間に向けてカメラを向けなければいいのだが、周囲への配慮が不可欠だ。

    私がショックだったのは、後者の不審者問題の可能性である。私はもしかして、ロリコン不審者に見られていたのだろうか?

    たしかに、朝から金麦を飲んでまったく準備にも参加せず、ぼーっと曇天を眺めている男は不審者に見えたかもしれない(自分で今こう書いてしまって、不審者だと思った)。

    だけど、不審者に見られていたとしたら悔しい。怒りたい。勝手に決めつけるな。

    あの牛脂バルーンおばさんの子どもがどんなに可愛いものかしらんが、私はロリコンじゃない。高校生以下はガキにしか見えない。

    子どもがどれだけ可愛いものなのかちょいと見てみた。よっぽど狙われやすいのだろうか。

 

    なるほど。

 

   母親に似て不幸な顔立ちである。

   ロリコンでも狙わないわンなもん。

 

    母親だってそのことを重々承知しているだろうから、どうやら私が子どもをつけ狙って盗撮する不審者に見られたのではなく、単に不本意な肖像権侵害はやめろと、先ほどの前者の意図を持って怒られたのだろう。安心した。

    私は不審者ではなかった。

  

 

    でもそれにしても、写真を撮りづらい時代になってしまったし、それもしょうがないよなぁと思う。

    子どもが勝手に拡散されるのも嫌だし、私だって不本意に写ってしまって拡散されたくない。なにが起こるかわからない時代だ。それこそ不審者がその写真の断片から子どもの身元を特定しにくるかもしれない。 

    

    私も気をつけようと思う。

    だいたい、なんでもかんでもSNSに載せるんじゃない。

    こういうことだから、家族の思い出として写真を撮りたい人も撮れなくなってしまうのだ。カメラや写真が悪いんじゃない。人間が悪い。

 

 

 

    

    

    

跳躍こそ私の使命

 日は会社の運動会があった。

 会社の運動会があることがまさか現実にあることだとは思っていなかったのでありえないと思ったが、私の会社はもう40年近く毎年運動会をやっていて、それこそありえないことだと思った。その金を、ボーナスにまわしてくれ。

 

 早朝、6時半に家を出て、貸し切ったグラウンドまで片道2時間かけて赴く。

 眠い。寒い。集合場所に着くと上司が缶を持っていて、一本くれた。乾杯。今日の私の朝食は金麦だった。

 

 運動会なんて面倒くさいだけで、なにひとつ面白いことなんてない。

 家族連れの参加者が多かったので、子どもたちがわいわい走ったり跳んだりしているのを、酒を飲みながら楽しく見ていた。なんて微笑ましいのだろう。

 「さぁ!ちびっこたち!集まれ~!」とMCが言うと、子どもたちは集合してかけっこやら玉入れやらをするのだが、「ちびっこ集まれ」を合図に集まる子どもたちにふと懸念を抱いたのは私だけだったはず。

 「ちびっこ」と呼ばれてMCのもとに行ってしまうのは、子どもが自分が「ちびっこ」だと認識しているということである。自分を「ちびっこ」と認めているのだ。

 

 それでいいのか、ちびっこたちよ。

 

 3~4歳くらいなら自分をちびっこと思うかもしれないけど、小学校低学年くらいの年齢だったら自分をちびっことは認めたくはないはずだ。私はその時分そうであった。私を「ちびっこ」と呼んだ大人たちの睾丸を削いでいったものだ。

 だから、ちびっこ集合コールにしぶしぶ参加する児童がいるかと思って、舐めるように見ていたのだが、どうやらいない。素直に集まっている。

 子どもたちは、私よりもよっぽど大人だった。

 

  ↓

 

 

 友だちと呼べる同期がいないので、まったくもって当然のように、私はほとんど孤独に過ごした。職場の先輩も来ていたので、ときどき喋ったくらいだ。

 こうなることがわかっていたから運動会になんて行きたくなかったのに、新人ゆえに行かねばならなかった。

 でも孤独は慣れている。残念だけど。

 独りには独りの楽しみ方というものがあって、そのコツは常にニヤニヤしておくことだ。そうするとなんだか気分が良くなってくる。こんなんだから人が寄り付かないのだろう。

 

  ↓

 

 開会式で準備運動をした。ラジヲ体操第二である。

 単純な体操だけど、関節や筋肉がいかに凝り固まっているかわかり、こんなに大変なものだったっけと戦慄した。身体がバキバキいうのだ。

 今年24歳。

 これでは30代になるころには肉体年齢は60代くらいになってるんじゃないか。

 学生時代に運動をしておくべきだったのだ。

 

 それにしてもラジヲ体操ってつまらない。

 腕を大きく回すことになんの面白みも工夫も感じられない。肉体を鍛えるとはこういうことだから、要するにつまらない反復の繰り返しだから、刹那的な生を生きている私は常に面白みがないことには耐えられず、筋トレなど続いたためしがないのだ。

 周囲の人間もいかにも退屈そうに体を伸ばしていた。うんちのにおいがしてきた。誰かが退屈に任せて放屁したのだろう。

 しかし、ある運動を気に、空気は一変する。

 それが、ジャンプである。

 その場でぴょんぴょん跳ぶだけなのだが、それを始めると急に人々はにこにこしだして、ざわつきはじめる。

 楽しいのだ。

 私も、楽しくてついつい余計にジャンプしてしまったほどだ。

 なにがおもしろいのかわからないが、ジャンプって愉快な動作だ。

 シンプルな愉快さがある。それでマサイ族がぴょんぴょんする理由が了解できた気がしたし、知的障碍者が電車の中でぴょんぴょんしている理由も相わかった。

 楽しい。ただそれだけだ。

 

 私はこれから、ジャンプしていこうと思う。

 つらいとき、かなしいとき、ジャンプしてその時を跳躍して越えていこうと思う。

 

 運動会中、グラウンドの隅でしきりにジャンプしている、友だちのいない私の姿があった。

 だから人が寄り付かないのだろう。