蟻は今日も迷路を作って

蟻迷路(ありめいろ)の文章ブログ。小説、エッセイ、真面目な話からそうでない話まで。Twitter→@arimeiro

ブラジル国籍の男性が強盗の罪で逮捕された件

  朝、報道番組で掲題のトピックを目にした。

 事件の詳細は下記のリンクを辿ってほしい。

news.livedoor.com

 

 ベランダから知らない男が突然入ってきたら泡を吐いて気絶するしかないほどの恐怖である。

 被害者の女性はとても怖い思いをしただろう。

 殺される可能性も充分にあったし、強姦の可能性もあった。ここには書けないけど、もっと恐ろしいことに遭う可能性だって考えられる。

 記事に書かれている被害は現金一万円を奪われただけだが、実際には暴力を振られたかもしれないわけだし、こうした被害に遭うことは心にも傷を残すので、被害者の今後が安らかであることを願うばかりだ。

 

 ↓

 

 ただ、私はこのニュースを見て、言い難い悲しみを覚えたことを記しておきたい。

 

 男性の名前は「クマモト・ダニエル」容疑者。

 名前からも容姿からもわかるとおり、日系である。

 ニュースで流された彼の姿は、みすぼらしくて、目が虚ろに泳ぎ、諦めたように絶望しているように見えた。その絶望とは、この世には希望がないという絶望であった。

 逃げようとする被害者を抑え込んで、「オカネダケ、オカネダケ」と言ったらしい。

 お金が欲しかっただけなのだ。

 たぶん、生活が立ち行かなくなったのだろう。

 

 被害者が実際にいて、容疑者が逮捕されている以上、私からあえていろいろと憶測を言うのは憚られるし、真実がわからないぶん、自分はずいぶんと身勝手な立場で責任感もないと思うものだけど、それでもこのニュースについて私が涙を堪えた話をさせていただきたい。ただ決して、罪人を擁護するつもりはない。その旨ご承知いただきたい。

 

 容疑者は、ほんとうにお金が欲しかっただけなのだろうと思う。

 強盗しなければ生きていけないほど追い込まれていたのだろう。

 なぜそう考えられるかと言うと、現金を奪っただけ、それも、こんな言い方をしては語弊があるかもしれないが、たったの一万円、奪っただけなのだ。

 数日生きていくだけのお金を奪って逃走したのだ。

 もっと金が欲しければ被害者を殺してもいただろうと思う。なぜ殺してさらに金を奪わなかったのか?

 理由は、殺したくなかったから、に尽きる。

 それだけの金を奪ったら逃走したのはそれだけの金でとりあえずよかったからだろうし、殺してまで金品をすべて奪うほど悪ではなく、彼は立ち行かなくなった生活が一時的に(麻酔的に)どうにかなればよかっただけの、行き止まりでもがくひとりの人間だったのだ。

 

 「オカネダケ、オカネダケ」

 この言葉が切実さを胸に訴える。

 

 容疑者にも、彼を産んだ母親がいて、幼少の時代があったのだ。あるいはネグレクトされていたかもしれないし、幸福ではなかったかもしれない。わからないけど、彼の人生がある。

 逮捕され手錠をはめられた容疑者の目が虚ろに泳いでいるのを見て、たまらなく遣る瀬無い気持ちになった。私にはどうにも彼が心底悪辣な人間であるとは思えないのだ。

 よっぽど容疑者が快楽殺人者的で、強盗のスリルを味わうだけのヤンキーのほうがいい。

 私はなにを憎めばいいのかわからない。

 

 人間はその行為と結果によって誰でも悪人になる。母親だって、友だちだって、恋人だって、自分だって。

 

 適切に裁かれて、罪を清めてほしい。

 そして被害者に安寧があるといい。

 心からそう思う。

 

仕事終わりの いちごミルク

  ろいろあって、なんの成果もあげられないまま残業を4時間してしまい、こうなったら笑うしかなくて「もうやだ😂」とか言ってお茶を濁したけど普通にぐったり疲れてもう無理。

 

    残業なんてそもそもすべきじゃないのだ。

 

    だけど、どうしようもなく仕事が終わらない日だってあるものだ。

    空腹も一定のラインを超えたら感じなくなり、むしろなぜか満腹感があるから不思議だ。おそらく、この虚無の満腹感のラインを超えたら「飢餓」がはじまるのだろう。

 

    お茶も飲めない、トイレにも行けない、あたふたとオフィスを走り回り、半泣きでコントロール・パネルをいじり、Googleで調べ、努力はしたけど問題は解決しなかったどころか当初の目標の半分しか達成できず、脳裡に『進撃の巨人』で調査兵団の団長が仲間を巨人に食い尽くされてのこのこ帰ってきた挙句、町民に「なんの成果もあげられませんでした!」と泣く場面がよぎる。

    悲壮感はそれに勝るとも劣らなかったであろう。

 

    先輩は空腹と脱水症で立ちくらみを起こし、私は思考がより鈍麻になって時計が読めなくなった。もう帰ろう。今日は終わりにしよう。タイムアップだ。先輩はそう言った。

    当初の予定と大幅に遅れた仕事の成果をユーザーさんに平謝りし、後日リスケして必ずや今日のカタキを取ることを誓った。

 

    そうして私たちは長い1日を終えて、駅で別れ、私はホームに立ち尽くした。

    帰ったらブログを書かなければならない。でもだいぶ遅くなっちゃうから、電車の中で書こう。そんなことを思ったとき、ブログは休もうかとまた自己肯定感を安易に自傷したくなった。

 

    ひどく喉が渇いていた。ホームの自販機に寄ると、目に入ったのは いちごミルク だった。

    人を馬鹿にしたような色、意識の低いパッケージデザイン、卑しさ全開の飲む糖分。大人の男が、一匹の男がだよ、こんな女児の飲むようなもの飲むわけないだろ、田分け。

    なにもかも悲しくて面白くない。おれ以外のすべてが死ねばいい。私は財布を取り出して、自販機のボタンを押した。

    いちごミルクはガコン、と受け口に落ちてきて。

 

    気付いたら買ってたし、喉を鳴らして飲んでいた。

   意思に反していた、というよりか、意思に正直であった。肉体の求めるまま、無意識の欲するまま、低俗なファンシードリンクに身を溺した。

    うまい。うまい。うまい。

    喉が潤うだけでなく、細胞のひとつひとつが糖分の熱量に歓喜し、躍動する。血糖値が上がる。精神までも潤う。甘味がいきわたり、視界が広がる。欣喜して踊りたくもなる。叫びたくなる。歌いたくなる。相対的に、私は今までなんてひどい状況だったのだろうと可哀想になる。不幸は悲しい。悲しいは不幸。

    幸せって、なんて幸せなんだろう!

    いちごミルクを飲んで偏差値が7くらいになってしまったけど、いいものだなぁ!

    ハッピー!ハッピー!ハッピー!サンシャイン!

 

    

    つらい1日であったが、いちごミルク先輩の助けを借りてなんとか電車の中でブログを書けたことだし、あと2日がんばろうと思えた。

    3連休に入れば私の勝ちなのだ。

 

 

 

悪口の書き方

 フェイロンアイルランド 歴史と風土』という本を読んだ。

 

f:id:arimeiro:20200218193904j:plain

 

 古本屋で出会った本だ。

 私はアイルランドについてまったく興味がないし、アイルランドについて知っていることといえば19世紀のジャガイモ飢饉くらいで、あとは漠然とイメージするだけの荒涼とした大地、なだらかな丘陵、そして草原と冷たい風くらいしかアイルランドについて語れることはなかった。

 この本を読んで、じゃあアイルランドについて一席うてるようになったかというと、そんなことはない。なぜなら、全然興味がない事柄について文献をまるまる一冊読むというのはそれなりの苦痛にほかならず、おおよそうわの空で読んだからである。

 それでも岩波文庫で300ページ読んだのだから、よくやったと思う。

 

 なぜこの本を買ったのか、その理由はどうしても運命的な出会いとしか言いようもなく、説明は野暮だ。

 偶然古本屋に置かれているところを手に取り、最初の一文を読んだ。この本は次のようにしてはじまる。

 

「カメラを搭載した人工衛星がヨーロッパから西方に向かって軌道を回っていくと大陸の端に、今にも大西洋の荒波にすべり落ちそうに存在する、ぎざぎざの海岸線を持つ島が見えるだろう。」

 

 特に感動的で劇的な始まりでもないけど、どうせつまらない本なのだろうなと思ってページをめくった私にとってこの一文は「おや?」と思わせるに十分だった。

 私が表紙とタイトルだけ見て抱いた印象とは少し違うようだった。

 この部分がひっかかって、古本屋を一周した私は結局忘れられず、これを200円で購入するに至った(他には『銀の匙』と『山の音』と『万葉集歌(二)』(『万葉集歌(一)』はもちろん持っていない)などを買った)。

 

 

  ↓

 

 

 読み進めていくうちに、ぜんぜん内容が頭に入ってこなくなり、そもそもアイルランド人の精神性を歴史を踏まえて探っていく内容であるから無知にはピンとこなくて、もうすこし勉強してから読んだ方がよさそうだった。

 ただ、このオフェイロンという筆者は自分もアイルランド人のくせしてアンチ・アイルランド的なところがあり、国民に対してかなり批判的で、権威に対してそうとうの恨みを抱いていることだけはわかった。

 というのも、悪口が頻繁に出てくるのだ。

 

 学も無くやる気もなくただ苦しむだけでなにもしない愚かな農民やカトリックに対して、筆者は革命家の言葉を借りて批判する。

 

「臆病者極まる」

「わが平民、みすぼらしい輩」

「うんざりだ」

「食うものはまずく、寝床はどうしようもない」

「どうしようもなし」

「くたばれ無知な因業者(いんごうもの)」

 

 言葉を借りているかと思いきや、その後で筆者は革命家たちを「アイルランドに与えたのと等量を奪った」と批判し、革命の失敗について「彼らは思想よりも情熱に生涯のすべてを捧げたからだ」と痛烈である。

 他にも、アイルランドの詩人については「どうしようもないほど場違いなもの」と言葉を借りて批判するし、政治家を「嘘つきのごろつき」と揶揄するなど、ほとんど悪口みたいな箇所は抜き出せば枚挙にいとまがない。だんだん慣れてくると皮肉を皮肉とも思わなくなってくるほどである。

 

 悪口をする場合は、あるいは皮肉や非難をする場合は、この本を読んで学んだことは、

1.徹底的に

2.端的な言葉で

3.繰り返し

やるのがよいとわかった。

 「なにもそこまで……」と読者に思わせたら勝ちである。

 ただ、ずっと悪口を羅列するのではなく、論理性を持ってとくとくと言葉を繰り出す流れの中で、まるで掬いあげた水流に紛れ込んでいた魚の棘(とげ)のように言葉を刺すのがいいだろう。痛烈さこそ真骨頂だ。

 だけど、これがおもしろいのは、悪口や非難が「滑稽」に転ずるのはその繰り返し方と語彙の選び方もさることながら、結局は自己卑下であることだろう。

 筆者がアイルランド人で自分自身をもまとめて非難するからなんだか気持ちが良いのだ。

    そして何よりも、対象に愛情を抱いていないとはじまらない。

 

 私は『アイルランド』を読んで以上のことを学んだ。

 アイルランドについてはなにも覚えていない。

羊は数えるまでもなくただ一頭

  私の通っていた小学校では中庭でうさぎやニワトリを飼育していたのだが、なかでも存在感の大きかったのが羊のメェちゃんだった。

 いったい誰が名付けたのか知らないが、じつにお役所仕事的な名前である。羊だからメェちゃんというのは、小鳥ならピィちゃんと名付けることや犬にポチと名付けることくらい面白みがない。私だったら嫌いな教師の名前を付けて、毎年毛を刈ってやるのに。

 

 いつからメェちゃんは学校にいるのか?オスなのかメスなのか?なんという種類の羊なのか?なぜ羊が一頭きり中庭で自由に暮らしているのか?

 

 あの四足獣に関する詳細はまったく謎に包まれていたが、あの頃は誰もそんなこと気にしていなかったように思う。

 メェちゃんは学校に体育館があるのと同じように、あるいは理科室や図工室があるのと同じように、「学校にそもそもいるもの」として認知されていた。誰も「羊がいるのはおかしい」なんて言わなかったし、「殺処分しろ」などと唱える親もいなかった。

 

 メェちゃんは中庭でぴょんぴょん跳んだり、クローバーを食んだり、日向で遠くの空を見つめたり、あるいは校舎の日陰で蟻の行列を見つめていた。

 瞳は奇妙な形をしていて、顔つきはちょっと不気味だった。人ならざるものの顔つきをしていた。いや、羊だからそりゃそうなのだが、表情は一切の「無」であるにもかかわらず、その"無さ加減"が実は腹の底では黒いことを考えていそうな、あくまで「無」を装った感じがして不気味だった。仮面のような、裏のある「無」なのである。

 

 そんなメェちゃんははたして学校の人気者だったかというと、そこまでそうでもなかった。

 石があったらとりあえず投げてみるとか(小学生男子は石を拾ったら投げるか蹴るか川底で洗うかしか選択肢がないのだ)、そこらの草を食わせてみるとか、後ろから飛びかかるとか、ばしばし叩くとか、そういう愛され方をしていた。

 私たちが体育館には体育館への愛し方をするように、おんがく室にはおんがく室なりの愛着を抱くように、メェちゃんにはメェちゃんへ向ける愛情のあり方があったのだと思う。

 私がメェちゃんだったら教室で糞(くそ)でもまき散らしてやりたくなるだろう。

 

 

 メェちゃんは本当にそう思っていたのかもしれない。

 

 小学2年生のある日の給食時間、一階の中庭に面した私たちの教室に、メェちゃんは闖入(ちんにゅう)してきた。

 走るでもなく、吼えるでもなく、徐(おもむろ)にさも当然のことであるかのように、しかしどこかおどけた様子でもありながら屹(きつ)として怒りを煮えたぐらせた様子でもあり、つまりは唐突に一頭の羊は教室に入ってきた。

 誰も騒がなかったし、なんなら全身が教室に入って後ろ黒板の中ほどに居つくまで誰も気付かなかったくらいだ。そのくらい突然に、しかし当然のことのようにメェちゃんは給食時間の朗らかな教室に入ってきた。動物の気配の消し方は「絶(ぜつ)」に匹敵する。

 先生がアッと立ち上がったとき、メェちゃんはまたしても卒爾(そつじ)であった、大量の糞と小便を噴射した。

 

 床に広がる大惨事と「ばばばばばばば」と噴射されるその音、理解が追い付かないなか、一同阿鼻叫喚。しかしその光景に笑う者もいた。小学低学年の教室で突然うんちとおしっこが登場したら笑うに決まってる。

 先生はあたふたとして、冷静にちりとりとほうきを装備していたけどもはやその冷静さも滑稽で、騒ぎを聞きつけた他のクラスの先生や生徒が集まりもはやパニックは猖獗(しょうけつ)を極め、給食なんて食べるどころじゃなかった。羊が糞をする中で食事をする生徒がいたらはやくスクール・カウンセラーに診せるべきだろうから、私たちは健全でもあった。

 先生たちは片やメェちゃんを引っ張って中庭へ連れ戻し、片やちりとりで糞尿を掃除し、片や換気をし、片やパニックを収めようとした。すごく冷静にあたふたしていた。

 先生とは大変な職業である。

 

 あの時の光景を私はよく覚えているけど、そのあり得なさにもしかして私の妄想なんじゃないかと今でも思っている。

 そのくらい非日常的状況だった。

 

 

 その後メェちゃんは、たぶん私が卒業するまで中庭で草を食んでいたような気もするし、5年生の頃に死んでしまったような気もするし、4年生の秋にどこか牧場へ引き取られたような気もする。

 メェちゃんが詳細にどうなったかはわからないけど(覚えていないけど)、たぶんもうジンギスカンになっているだろう。

 ただ私の記憶の中で、曖昧な現実と非現実の狭間で、羊についてなにかを語ろうとするとき私にとってはあの一頭しかいないし、今もまだ教室はざわめいている。

 

2泊3日温泉旅行記

「金曜日に有給休暇を取って、銀山温泉に行った。

 

f:id:arimeiro:20200216190701j:plain

     (銀山温泉のイメージ図)

 

 銀山温泉山形県の山奥にある、正直言って都心からのアクセスの悪い温泉郷であるけれども、あえてここを選んだのには理由があって、というのもこのアクセスの悪さだと1泊2日では到底のんびりできなく、2泊以上の時間がなければくつろぎを得ることはできないためで、今回はそのためにも有休を取って2泊の時間を得たわけだし、2泊の時間を得たということは銀山温泉に行くしかなかったというわけだ。運命的であるし、覚悟がある。

 2月、最も寒いシーズンに雪景色を拝みに行こう。

 

 温泉で2泊、と言っても銀山温泉にはアクティビティや有名な観光スポットがあるわけではなく、ここはほんとうにただくつろぐためだけに存在している温泉のための温泉郷なので、旅館に着いたところでとくにやることはない。

 15時半をすぎたところ、旅館に到着してとりあえず茶を淹れ、旅館の和室のあのスペースの椅子に腰掛けて、一息入れる。

 雪に染まった通りと向かいの屋根の向こうに見える雪化粧の山、重く空を覆う雪雲に熱い緑茶は味わい深い。

f:id:arimeiro:20200216194657j:plain

   (旅館のあのスペースのイメージ図)

 

 温泉旅館とは本来くつろぐために存在しているものだ。

 「もったいないから」なんてもったいない理由で外に出てつまらないことをしたりする必要はなく、何もしない贅沢を満喫するべきだ。

 忙しい都会の喧騒から離れて、時間の流れるままに風景と現在の刹那を楽しめばいい。大人の楽しみ方とはこういうことなのだ。私は今回、何もしないためにここに来た。

 

 と、ずっと旅館のあのスペースに座っていても仕方がないことは仕方がないので、夕食前にひとっ風呂浴びるとしようか。

 この旅館には露天風呂のある大浴場と、使用者制で貸し切りをする屋上の露天風呂とがあり、ここはまず基本の大浴場へ参ずる。そんなに大きい旅館じゃないから期待してなかったけど、大浴場には必要な快適さがすべて揃っていて、なによりも人が少ないのがよかった。マイナスの気温のなか浸かる露天風呂の気持ちよさには格別のものがある。温泉の良さはその湯質にもあるけれど、なによりも空気の美味さが大切であると私は思うものだ。都内の天然温泉と謳う温泉施設では味わえない空気がここにはある。

 

 部屋で夕食を食べ、用意された布団に横になるとすぐさま眠気に襲われてしまい、結局そのまま寝てしまった。やや酒を飲みすぎたかもしれない。女中さんが美人だったせいかもしれない。本当は屋上の貸し切り露天風呂に行きたかったのだが。

 その想いを捨てきれなかったのか、深夜2時ごろに目が覚めた。

 案内では、屋上の貸切露天は24時間やっていると聞いていたので、使用者がいなければ入れる。とりあえず行ってみることに。

 しかし残念なことに、使用者がいて使えなかった。私と同じような者が他にもいたのだ。そう思うと腹だたしいというよりむしろ愛しく思える。

 すこし大きめのスリッパをかぱかぱ鳴らしつつ廊下を歩くと「足湯→」と案内板。矢印の方に進むと、3階の小スペースに露天の足湯があるではないか。

 外は大変に寒そうだが果たして……貸し切り露天への想いを捨てきれなかった私はカラカラカラ、ガラス戸を開けてテラスへ出た。とても寒いが、──」

 

 

 といった、温泉に行ったらなにをするかという妄想話を恋人にとくとく話し続けた。

 「おじさんみたい」「ずっと笑顔だね」「一人で行けば?」という感想をいただき、その通りなものだと思った。

 でも、二人で行きたいじゃん。

 「おじさんくさくてやだ。『何もしない贅沢』なんて」

 

 しょうがないだろ。おじさんなんだから。
  

バレンタインデーと失われた日

  人ができるまで、バレンタインデーとは「そわそわの日」以外のなにものでもなかった。

 

 とくに高校生の頃はバレンタインデーのたびにそわそわしていて、下駄箱のロッカーに扉がついているのは、女子が意中の男子の下駄箱にこっそりチョコを入れるのが恥ずかしくないためであると信じていたくらい、私は思春期のケモノ然としていた。(実際には部外者の変態が女子の革靴を盗む事件が勃発したために扉が設置されたらしい)

 

 だけど、いくらそわそわしてもいっこうにチョコは貰えない。

 なにせ私は女子と手を繋いだこともなければ会話もしたことないくらい奥手で、要するに絵に描いたような童貞だったのだ。

 そもそも関係性のない男子に女子が心寄せるわけがないのだ。思春期のケモノだった私は、そう客観的に自分を見ることができず、無駄にそわそわして、放課後あえて教室に残って同じく奥手だった友だち(関係ないけど今は無職らしい)と馬鹿話をしたり、黒板に世界史の用語を書いて知的アピールをしていた。死ねばいいのに。とっとと帰って勉強でもしていたらよかったのだ。

 友だちの一人がジャニーズみたいなガチの光源氏みたいなイケメンで、クラスどころか学年、というか学校中の女子から菓子を貰うのを間近に見ていて、自分にももしかして可能性があるんじゃないかと期待していたが、お門違いも甚だしい。あの頃の自分を愛してやりたい。

 

 結局、毎年クラスの女子が全員に配って回る薄い義理の菓子だけを貰って、学校中の女の子からチョコを貰う友だちを傍目に、惨めな思いを抱きつつ夕暮れの寒空の下、自分の影を踏んで帰った思い出が青春のバレンタインデーのすべてである。

 

 

 ↓

 

 

 大学生になると、これまでの経験からバレンタインデーに甘い思いをすることは不可能であることをわかっていたので、余計なそわそわもなくなり、いたって平常心で過ごせるようになった。

 サークルの女の子から義理を貰って、ありがとー、みたいな、人間関係を円滑にするためのバレンタインデーの社会性を理解し、期待をしなくなった。シンプルにチョコを貰えて嬉しいな、ってくらいで、ホワイトデーのお返しは面倒だけど誰かのためにお菓子を選ぶのは楽しくもあって、これはこれでいいものだなと、要するに私はちょっと大人になった。

 だけど心の中では、だいたいバレンタインデーにお菓子を配るというのは広告代理店が菓子業界の金儲けのために考えた「手段」にほかならず、市民の純粋な気持ちを弄ぶ意地汚い商売根性で我々はその犠牲になっているだけなんだ、と相変わらずチョコレートを溶かすほどの熱量をくすぶらせていた。

 こんなことだから、私はバレンタインデーとほぼ無縁な人生だったのだろう。

 

 

 だけど現在は本当に平常心だ。

 というのも、大学生の頃に現在まで付き合っている恋人ができて、バレンタインデーに一切の関心がなくなってしまったのだ。

 私は恋人から貰えれば満足だし、恋人から貰えなくたって構わないと思っている。彼女がいてくれれば大満足なのだ。

 今年なんて、今日の昼頃までバレンタインデーのことを忘れていて(作業書に日付を書いて気付いた)、そういえばバレンタインデーなんてあったな、世間のバレンタインデーも下火になってきたんだな、と思ったけど、単に私がバレンタインデーに一切の価値を持たなくなったせいだった。

 

 これからは一生、バレンタインにそわそわする日は来ないし、惨めな思いをしなくてもいいのだ。

 彼女が私に寄り添っていてくれる限り、バレンタインデーは永久に失われた。

 

潤いを求めて

 がイガイガして、この感じは「乾燥」だと人生経験からすぐさま悟った。

 

 乾燥はよくない。風邪をひきやすくなるし、肌が荒れるし、肌が荒れると心が荒む。

 

 すぐさま加湿器を焚こうと思ったけど、しかし、私は加湿器を持っていなかった。

 いや、持っていたな、とふと思い出したのは、いつだったか誰かにプレゼントで卓上加湿器を貰い、机周辺のどこかに箱のまま放置されている風景が脳裏によぎったからだである。

 たしか埴輪(はにわ)の格好をした小さな加湿器だったな。

 ここで、「加湿器はあそこにしまってあるんだよな」ってパッと出せないのが私らしくて苛立つ。物を所定の場所に戻す、収納するという、考えてみれば簡単なことができない私は部屋の隅の慎ましい瓦礫の中を機嫌悪く漁って、そこに発見できないととりあえず部屋の真ん中に立ち、視線を高くしてぐるりと見回した。小さな加湿器はなぜか本棚の上にあった。なにか妖怪がいたずらでそこに置いたとしか思えない。

 

 埴輪の加湿器の説明文を読むと、なんと電気がいらないらしい。

 素焼きみたいな陶器でできていて、埴輪の体内に水を入れることで水が素焼きに浸透、自然の力で加湿をしますと豪語している。可愛いじゃないか。シンプルがいちばん良い。

 湿度に飢えていた私は早速、埴輪に水を注ぎ、付属の小皿にそれを載せて、机に飾った。

 こんなことで本当に加湿されるのだろうか?浸透するのだろうか?

 私の不安をよそに埴輪は目と口をぽっかり空けて、「シェー」のポーズで虚無を抱いている。

 君、本当に働けるのだろうね?そう問うても「……」と無言で、その沈黙には一切の思慮も含まれていない、完璧な虚無なのであった。賢者も愚者も余計なことは語らないようにできているものだ。

 とにかく私は彼の仕事ぶりを観察することにした。

 

 

 設置からしばらく経って表面を触ると、結露するようにじんわり露が染み出していて、小皿と接面する下部は水が滴ってすらいた。ちゃんと仕事してる。

 よしよし、お前はこうやって潤いを与えるのだね、と頭を撫でてやっても、彼はなんの表情も示さない。無印良品みたいに味気なく、解脱した人のように無欲で穢れないようにも見えるし、はたまた無尽蔵の欲望を湛えているようにも見える。

 とりあえず彼の仕事が見えてきたので、好きなようにやらせておくことにした。徐々に加湿の効果も見られるだろう。

 

 

 しかし、私の期待を裏切るように、埴輪はそれ以降、まったく仕事をしなくなった。

 いや、たしかに仕事をしているのだけど、それが期待外れの出来で、はっきり申し上げて全然加湿できていない、どころか「加湿効果はないけど加湿していると言えなくもないでしょ」みたいなギリギリ叱られない程度の手抜きをしている調子で、じつに意地汚い。

 ぽかーん、とした顔は賢者の解脱した姿ではなく、怠け者のそれだったのだ。

 注いだ水は数時間経ってもいっこうに減っていなくて、表面がじっとり湿っているだけの素焼きの陶器でしかなくなってしまった。表面がじっとり湿っているだけの素焼きの陶器が机の上にあるのはなんだか心地がよくない。

 

 そもそも、こういったグッズに本来の加湿効果を求める方がおかしいのだろうか、と私は例によって卑下をはじめて自尊心を自傷してしまう。

 だんだん、埴輪のあり方が、仕事をしている私自身にも見えてきた。

 それとなく手を抜いたり、帰ることばかり考えていて、ぽかんとした顔つきでいつまでも新人ちゃんぶっているもうすぐ2年目のドアホに見えてきた。私を採用した人事の落胆が、今こうして埴輪に愛想を尽かせている自分と重なる。

 

 悲しくて涙が出てきた。

 涙の方がよっぽど加湿できそうで、それがまた滑稽で悲しかった。

 

 

 結局、バスタオルを水にぬらしたものを吊るして大々的に加湿をしている。

 タオルが朝にはパリパリに乾いている一方で埴輪に注いだ水分はまだ半分以上残っている。ぽかんと虚空を見つめている。