
いくつか撮影可能な作品もあった。
土曜日の昼下がりに行ったのだが、それなりに混んでいて忙しない鑑賞だった。最近、都内の美術館は土日だとどこもかしこも混んでいる。
日本画っておもしろいな〜と最近魅力がわかってきた。
それは、ひとしきり西洋絵画を観てきた目だからこその発見で、油絵だとこうは描かないよなとか、西洋絵画はここをこう描くんだろうなという比較からくるおもしろさだ。
西洋画に比べて大胆な構図とか、大胆な省略、かといってリアリティを損なわない描写力、説得力、力強さ……美術の東洋西洋に魅力の差はなく、等しくおもしろくて、美しく、心を打つ。

なんか…国宝の屏風。
雪の積もった松。
墨と金だけで描かれているとは思えない。白いところは白墨ではなく、もとの紙の白だという。近くで見ると墨のほとばしりまでもが震えるように伝わってくる。
ついそこに植っているように、存在感を放っている。同じ大きさの写真を用意したとしても、この屏風(?)の松のほうがリアルな存在感があるように思えるのはどうしてだろう。
松とはこんなにも格好良い木だったのか。
雪はこんなにもやわらかに銀色なのか。
美術に感銘を受けると、これまで見ていた世界の美しさに気付かされ、世界を再発見できる。
日本画は「省略」がすごい。
竹林を描いてください、と言われたら、私のような凡夫は竹を一生懸命にたくさん描くだろうと思うのだが、日本画は数本しか描かない。
しかも、緑色とか青とか使わない。墨一色だ。
手前の竹は濃く枯れた墨で描き、奥に行くほど薄く淡く描く。絶妙な配置と、奥に行くほどぼやけた輪郭によって、屏風の中には竹林が広がっているかのように見える。あくまで「見える」のであって、これは錯覚みたいなもので、正確には、私の脳内に竹林が林立しているのである。
この、鑑賞する人への体重のあずけかた、大胆さ、図太さ、信頼感。
細部まで精密に丹念に描くことが「伝える」の全てではないし、鑑賞者に「伝わる」わけではないのだ。
だからといって細密な描写がないわけではなく、そこまで描きますか?ってくらい丹念に描かれる部分もある。
とくに、顔(表情)は丁寧に描いている印象だった。
苦行を終えた釈迦が山から出てきたときの絵があったのだけど、それなんかは表情や髪の毛の細密さが異様なまであった。
苦難を示すかのように、頭髪は抜け落ちているのだが、ツルツルになっているわけではなくて、ちょうど疲れきったサラリーマンみたいに薄毛になって頭皮が透けているような感じに描写されている。
厳しい修行を終えた精悍な顔つきは、しかし険しいわけではなく、どこか慈愛をたたえており、このあと仏となるひとの和らぎがある。しわひとつの演技とか、まぶたの重みの描き方とか、伸びた爪、薄く光る後光、それらがこの複雑な状況を演出している。
そして衣服がすごい。これだけ細密に表情や肉体を描いているのに、衣服はすごく荒々しく描いていた。荒ぶる筆を抑えきれないといった様子で、まさに修行の激しさを物語っている。
この差、すごすぎ。
ここまで表情や肉体を描けるなら、当然衣服だって布のしわひとつまで完璧に表現できるはずなのに、それをしない。省略している。
でもその省略があるからこそ人物が浮き立つわけだし、省略しているからといって描写を捨てたわけではなく、修行の荒々しさを印象的に伝えてくる。
釈迦にも修行の期間があり、それを経て涅槃に辿り着く。その過程は仏だけど神がかっていて、話だけ聞くとどこか神話的で神秘的だ。
でも、この絵を見たら、釈迦の人間らしさというか、人間の強さ・弱さ・あたたかみを感じられた。
釈迦を単に描いたのではなく、人間そのものを描き出したように思えた。
ほかにもすごい絵がたくさんあった。
こんな構図ありなんですか?と言いたくなるもの、こんな表現は現代のマンガでも見ないほど尖ってませんか?というものも。
全体的にめちゃくちゃ格好良いんですよね。
つい、うーんと唸ってしまうものばかりだ。
円山応挙って天才なのかもしれない(そうです)。