蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

クロッキー公開の是非

家志望の人や美大生とか漫画家の卵なんかが、たとえば電車で乗り合わせた人を速写する絵の練習をクロッキーという。

有名な画家ともなると練習のためのクロッキーにあとから価値がついて美術館に額入りで展示されるなんてことも、ままある。

クロッキーは練習の要素が強いのでじつに内省的で個人的な営みの要素が強いと思われるが、有名な画家になってクロッキー練習帳に数千万の価値がつくのだから、ネームバリューとはすごいものだ。

 

クロッキーは上述したとおり、個人的な営みであると思う。それはひとえに練習の性質があるからだ。

たくさん練習して立派な画家になってほしいから、どんどんクロッキーやればいいし、なんなら電車の席でふて寝してる私をモデルにしてくれたって構わない。

構わないのだけど、勝手にモデルにしてるんだから、それは公表せずにそっと引き出しにしまっていてほしいと思う。

電車で人の写真を撮ったらそれは「盗撮」と呼ばれる。

クロッキーは細密じゃないし、とても個人を特定できるものではないけど、「写しとっている」点では写真と変わらない。

誰だって、無許可に写真を撮られたら嫌なように、無許可に絵を描かれたら嫌だろう。絵を描くんだから、ジッとコチラを見ているに違いない。知らん人にジッと見られるのも相当嫌だ。車両を変える。

知り合いならいいものの、そして許可をとってくれるならいいものの、見ず知らずの無許可というところに嫌な部分がつまっている。モデルにした人に糾弾されても何も言い返せないだろう。

 

盗撮された写真をSNSに上げられたらどうなる?

勝手に描かれたクロッキーSNSで見せびらかすのは大きく括ればそれとそう変わりない行為なのではないか。

最初の方にも書いたように、クロッキーは練習としての側面が強く、個人的な行為だ。練習したいなら勝手にすればいい。

でもその練習は、練習であるから許されているのだ。

そして、練習であるがゆえに公にはされないという暗黙の了解がある。いわゆる「知らぬが仏」システムが成立している。

撮られていても、描かれていても、知らなければ怒りようもない。それが知らぬが仏システムだ。

家族とか恋人にちょっと見せるくらいならまだしも、SNSに載せる行為はなんだか、「練習」として認められた暗黙の了解を打ち破っていやしないだろうか。

見ず知らずの他人を勝手にモデルにする時点で多少の罪悪感というか背徳感くらいは抱いてほしいものだ。私たちはフリー素材的なモデルじゃない。

「すんません、勝手にやらせてもらってます」の後ろめたさがあれば、おいそれとSNSに投稿して、画廊では評価されないで当然の浅薄な自己顕示欲を満たそうとしないはずである。

 

でもじゃあ、大御所の描いた美術館に飾られてるクロッキーはいいんか、とおっしゃる人もいるだろうが、そうなったらもうしょうがなくて、むしろ自分がモデルとなったクロッキーが美術館に飾られてるならそんなに悪い気もしないものだというのと、金は正義であるということと、それからやはりそういった作品は後世に「作品」になった場合が多くて、SNSにあえて投稿するような露出の意図はハナからないものと思われるから、「しょうがない」と納得できる。

あと、知らぬが仏システムによれば盗撮も許されると考えられかねないが、盗撮がいいわけない。

でもそれでクロッキーが暗黙の了解上、すくなくとも私からは許されているのは、それが「練習」の大義名分を負っているからだ。盗撮には名分がないではないか。

 

なんかうまくまとめられなかったけれど、とにかく私は、不特定の他者を勝手に速写するクロッキーを意図してSNSに上げるのには否定的な立場だ。

許されてると思ってるなら大間違いだし、なんかこう、ドブねずみのように卑しい行為だとも思う。

勝手に描いて勝手に載せるな。気持ち悪い。

 

このモヤモヤを書き殴ってみたかった。読みにくくて申し訳ない。