機会があって、プロに似顔絵を描いてもらった。
私は大反対をしたのだが、妻がやろうやろうとせがんだ。子どものようにせがむので、結局折れて描いてもらった。たぶん、私に子どもができたら、子供にせがまれて私はあえなく折れるのだろうな。
似顔絵ってなんか怖い。
知らない人にずっと顔を見られるのは恥ずかしいし、緊張して表情も固くなってしまうだろう。それに、出来上がった作品が自分に似ていなかったらどんな反応をすればいいのだろう。
だいたい、自分の絵なんて、どこに飾ればいいのか想像もつかない。水場だろうか?
そんな危惧から、例によって日常平穏主義である私は、余計な負荷を心にかけたくなくて反対したのだった。
そして結果として、危惧はすべてそのとおりになった。
プロはおよそ2分あまりで私を描いてくれた。
恥ずかしさから表情も固くなり、妻から「人を殺す目をしてる」と言われ、そして出来栄えも、あまり似ていなかった。
私の絵には違いないのだが、30人いるなかからこの絵のモデルを選んでくださいと言われて、私は選ばれるかというとかなり怪しいところだ。これならキュビズムに描いてもらえばよかった。
私は画家にいくつか聞きたいことがあったのだが、口を挟む隙もないほど画家は早口でまくし立ててきて、静寂を恐れているかのようでもあったほどだ。でも、聞きたいことだってどうだってよかったのだ。たとえばどこで修行したのかとか、難しいモデルとか、自分の顔は描くのかとか。どうだっていい。
妻が描かれる番になったので画家の手元を見させてもらった。
筆致に迷いがなく、すぅと輪郭を捉える。
たしかに、輪郭はよく似ている。そのまんまと言ってもいいだろう。
筆にはインクがよく染み込んでいて、切れ味のいい布バサミでカーテンを裂くように、音もなく確かな線を引く。
見事と言うほかなかった。
しかし、出来上がった妻の絵は、やはり似ていないのだった。
なんなんだ。
家に持ち帰り、さてどうしようかと、とりあえず鴨居に飾ってみる。
2人ともまったく似ていない。
似ていないのだけど、見ているうちにだんだん妙に似ている気もしてくる。
奇妙な絵だ。
「親戚……従兄弟の絵だと言われたら信じるかもしれない」
「特徴は捉えているけど、似てなくて、でもやっぱりこれは自分でしかない」
「歪んだ鏡」
「なんか、ずっとこれ見てると、自分はこんな顔だったかもって思えてくる」と妻が言った。
たしかに。
毎日この似顔絵を眺めていたら、この絵みたいな顔になってしまうかもしれない。
いつか絵と入れ替わってしまうかもしれない。
絵にはそう思わせる謎の説得力があった。
気付けば私たちは30分以上もそうして、似顔絵の魔力に惹きこまれていた。