蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

ローランサン展に行く

Bunkamuraでやっているマリー・ローランサン展に行ってきた。

日曜の朝イチに行ったので、空いていてよかった。

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日曜の朝の渋谷は、あの大きな交差点すらも人はまばらで、道玄坂のあたりは50メートル先まで道を見渡せて、とても快適だった。歩きやすいことこの上ない。ネズミの死骸もまだ腐っておらず、新鮮だ。吐瀉物も乾いていない。

 

マリー・ローランサン展に行きたいと言ったのは妻だった。

「あなたと付き合いはじめてから、いろいろな美術館とか展覧会に行くようになったじゃない?ローランサンはわたしが初めて、自分でその良さを発見できた画家なの。だから絶対に行きたいの」

それはなんだか、私にとっても記念すべきことのように思えて、嬉しかった。

いつもは私が行こうと誘う展覧会に、妻が誘ってくれた。

 

ローランサンの絵はなんだか不思議だ。

写実的ではないし、個人を描きながらも明確にその個人かと言われると、そうでもない気がする。

個人のさらに向こう側に透けて見える「女性」とか「人間」とかそういう「存在」そのもののようだ。

淡いピンク、グレー、ブルー。輪郭もぼやけていて霞みたいで、描かれたものは人の形をした「概念」そのもののようである。

描かれた人々はつぶらな瞳でありながら、ぼんやりとどこか違う世界を見つめていて陰鬱そうですらあるのだが、それを見ている私は、たとえば雨に濡れる庭先を窓の中から眺めているときのような安らぎを覚える。

夢の中のような、という言葉の表現を展示プレートの中で見た。たしかにそうかもしれない。

でも夢でありながら、はっきりと画面の中に温度があって、囁き合うような笑い声が聞こえてくる。

意外と不気味な絵なのだが、なぜだか心が和らぐ。

 

第一次世界大戦が終わった直後のあたりからはグレーを基調とした暗い雰囲気の絵が続くが、世間では好景気に湧いて技術革新が生活を豊かにしており、ローランサン本人もパリの社交界で人気者となって羽振りが良かったらしい。

1930年代になって世界恐慌と次なる大戦の陰が広がりはじめると世間のモードは「新しいもの」から「復古調」へ、つまり過去へ還ろうという精神が見え隠れするようになるが、ローランサンの絵は黄色や鮮やかなピンクを用いた明るい画面へと転じる。

なんだか絵と時代背景がまったく逆のような気がして面白い。どうしてローランサンの絵柄がこうも変わったのか、彼女の人生と激動の時代背景に想いを馳せる。

展示では、ローランサンと交流のあった(仲が良かったわけではない)シャネルのポートレイトやコラボした衣服も展示されていて、見応えがあった。

シャネルの服というか、スタイルってめちゃくちゃ格好いい。

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シャネルとはモードではなく、スタイルだ。

展示室の壁にそう書いてあって深かった。

 

妻も満足そうにしていて、今度服の展示があったらぜひ行こうと誓った。

展示を見終わってもまだ11時くらいだったので、日曜日を長く過ごせたのも良かった。

美術館には朝イチで行くのがオススメだ。