妻と『君たちはどう生きるか』を見てきた。
妻は初回の鑑賞、私は2回目である。
初回鑑賞時の作品考察はこちら。今回の記事もネタバレあるかもしれないので気をつけてください。
私は初回に見たときに、いろいろ考察をして、なんとなく感動を自分なりに解釈することができた。訳のわからない箇所に解釈を与え、自分なりに作品からメッセージを受け取った。どうして、いったいどこに、私の何が、この作品の何を私は見て感動したのか、それを理解するには作品を自分なりに解釈する必要があったのだ。それらを整理するためにブログに投稿した。
そういった営み抜きにしても、この作品を見終わったあとの青空のような清々しさと、静かで深い感動は得難い体験だった。
できるだけ多くの人に見てほしい作品だと思った。
でも、この作品が万人ウケするエンタメ作品ではないことはわかっている。
だから妻と見に行くのも、本当をいうと、少し怖かった。
妻が眠ってしまったらどうしよう。つまらない、わけがわからなかった、といわれたらどうしよう。そういわれた瞬間に、この作品の価値は、私の中で揺らいでしまうのではないか。私は、そんなことをいう妻と、これからやっていけるだろうか?やっていけるだろうけど、もの悲しさをずっと抱えなければならないのではないだろうか?
結果から伝えると、そんなことにはならなかった。
妻は上映後、涙を拭い、「すごく、よかった」とシートにもたれ、暗くなったスクリーンの余韻を見つめていた。
「意味不明なところは多かったけど、なんだか、すごく救いの物語だと思ったよ。ぜんぶ繋がってるんだね。だってね……」
と語る、妻が作品から受け取ったメッセージはまっすぐで、ぴかぴかの玉のように澄んでいた。
ときどき思い出す映画の一場面には、涙をまた流した。私も話しながら、思い出して感動して、ちょっと泣いた。
夏子さんが産屋で眞人を拒絶するけど、お母さんと呼ばれた一瞬で表情がほどけるところ。眞人がお母さんから贈られた物語『君たちはどう生きるか』を読みながら涙をこぼすところ。眞人のお母さんとの別れのシーン、アオサギとの粋な友情……。
感動を二人で共有できて嬉しかった。
作品の解釈はひとそれぞれ。考察なんてしてもいいし、しなくてもいい。おもしろかったとか、つまらなかったとか、その程度でも全然いいと思う。
どう受け取るかはその人次第。考察や解釈に正解などなく、だから他人が好き勝手にいうことを気にする必要は、一切ない。自分はなんて浅い考察だろうなんて思わなくていい。なんかいってんな、くらいでいいのだ。私の投稿した考察記事だって、読み捨てればいい。いってら、と。
作品というものは、鑑賞者をうつす鏡のようなものだと私は思っている。
どんな感想を抱くかは、その人の生き方とか、これまで得てきた経験や物語や知識が反映される。
いまはSNSで作品の解釈とか誰かの感想が一方的に流れてきて、なんだか大多数の意見のほうが正しいような気がしたり、誰かの解釈が正解のような気がしてしまうけど、そんなことはない。せっかくの自分の考えや感想が、誰かの「鏡」のうつしになってしまうなんて悲しい。自分の感想を守るための手段として、言語化は大切だと思う。
自分の抱いた感想は自分の体のように大事にすべきだ。誰がどう思ったかではない。自分自身がどう思ったか。
作品は自分をうつす鏡。
私の解釈はやや飛躍していて、論理性を保とうとしていて、奇抜なのがじつに私らしいと思える。妻の解釈は素直で、染まりやすい彼女らしい。そして温かい。
『君たちはどう生きるか』を妻と見て、彼女と結婚して良かったと、心から思った。