蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

不必要な我慢と憎悪

装工事される前のJR御茶ノ水駅は、バリアフリー化がまったくなされておらず、車いすや松葉杖をつく人に対してひじょうに不便な造りをしていた。

エレベーターは小さくて古いものが片側の出口に一基しかなく、エスカレーターは無く、ホームは狭く、階段も狭かった。

階段が狭いので、改札に行くまでにちょとした渋滞になることもあって、急いでいるときに限って先頭に老人がえっちらほっちら杖を突いて渋滞を作っていて、参ったものだった。御茶ノ水は総合病院が立ち並ぶ場所のくせに、駅まで配慮は届いていなかったみたいだ。これが2019年くらいまでそうだったんだから、すごい。東京駅から二駅の場所でそのレベルだったのだ。

現在は改修されて、エレベーターも新しくなり、エスカレーターもできた。

御茶ノ水駅は神田川の上に立っているような状態で、工事が難しかったのだろう。かなり難儀して時間がかかっていた。

 

古い御茶ノ水駅の階段には、車いす専用の昇降機が手すりと一体化して付属していて、係員を呼ぶと颯爽と登場し、機械を起動、昇降機に車いすの方を載せてゆっくり階段を登ってくれるのだが、これが結構私には参っていた。

それが動いていると階段は強制的に半分埋まらざるを得なくて、急いでいるときに限ってそれのせいで渋滞が発生してしまうのだ。

もちろん、車いすの方は悪くないし、係員も悪者ではない。

だけど、このせいで、普通に歩くことのできる私たちが時間の割を食っているのが納得できなかった。

私一人ではなく、電車から降りた数十名がそれのせいで人生の時間の一部を奪われている。

なんかこれって正しいの?とおもった。

だからさっさと駅の改修を進めるべきなのだ、と怒りさえ覚えた。

 

 

少数者や弱者の意見や価値観が、多数決やマジョリティによって排斥されたりあるいは迫害されたり、機会を奪われたりすることはあってはならないことだ。

でもその逆も同じこと。

主語が大きいので、個人のレベルにまで落とそう。

価値観の押しつけがましさに胸焼けがすることがある。知り合いならまだしも、顔も名前も知りもしない他人に合わせた結果、自分の機会が損なわれたり、自分の価値観に泥を塗られることには遺憾になる。

些細なものかもしれないけど、自分の一部分が犠牲になっている、という構造が耐えがたい。

 

マジョリティにせよマイノリティにせよ、どの立場でもそれは変わらないことだとおもう。

 

さらなる排斥や憎悪や、または我慢を強いたり自己犠牲が必要なのではなく、変えるべきなのは構造の方なのだ。駅の改修をしてすべてのひとが使いやすくなるように。