春はあけぼの、やうやう白くなりゆく山際すこしあかりて──
これはそれぞれの季節の中の「をかし」な時間を書き綴った『枕草子』のチョー有名な一節だけど、今更、はたして「春はあけぼの」がほんとうに「をかし」だろうかと疑問になってきた。
夏は夜、月の頃はさらなり──
秋は夕暮れ、夕日はなやかにさして──
冬はつとめて、雪の降りたるは──
そうだろうか?
そんなに「をかし」だろうか?
たしかに春の朝はすがすがしい気持ちがするものだし、ビル群に朝日が当たってガラス窓に反射して光るさまは現代的な「をかし」かもしれない。
だけど、春こそ朝は嫌なものだ。
あたたかいからずっと眠っていたいし、「新学期」とか「新年度」って響きはいつまでも慣れなくて、新しい人間関係に気を遣ったり、事務的な手続きの多さに辟易としているから、朝は起きないで全部すっぽかしたい。
「をかし」というかどちらかと言うと「うし(憂欝)」だ。
『枕草子』のこの有名な一節を「をかし」ではなく「憂し」とも読めることに気付いた。
逆『枕草子』。「うし」の世界。
夏は夜。夏の夜は汗ばんで寝つきが悪い。街中にどこかからノスタルジックな香りが立ち込めて、どこにもない郷愁を誘われ、あてどころのない寂しさにまた汗ばむ。蛍が飛んでる。どこにもない故郷の記憶の中で。
秋は夕暮れ。黄昏の深さは死にたくなる季節。空が落ちるように赤くなり、影はいよいよ濃くなって伸びる。トワイライトシティに溶け込んでいずれ闇に呑まれる僕たち。「なにかやり残したことがある気がする」季節が終わる焦燥感に駆られる。
冬はつとめて。早朝、なぜか体中が痛い。寒さで関節が強ばるのだろう。布団の外は「アイスヘル」。布団から出るか出ないかでさんざん悩み無駄な時間を過ごす。わかってる。はやく布団から出るべきだ。でも正論が人を救うわけじゃない。耳たぶが冷えてる。
ただ『枕草子』は「春はあけぼの」の一文で終わるわけではなく、具体的にどこがどのように「をかし」なのかそのあとに続くから「をかし」が成立している。
春は曙、やうやう白くなりゆく山際すこしあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。
だから「枕草子は憂しの世界なのでは」という新解釈は成立しない。
平安の風景を知らないのにその美しさに共感できるのは、普遍的な、人々の心の中にある「良さ」を書き綴っているからだろう。
「憂し」をくだくだ述べてもきっと現代まで残らなかった。