蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

「村上春樹」殺し

(読了所要時間15分未満)

 

 

 やれやれ、と僕は村上春樹よろしくため息をついて、10万文字書いた小説のデータを躊躇なくゴミ箱に移した。にっちもさっちもいかなくなったのだ。
 書いてて「つまらない」と思ったらその小説は死んだ小説だ。死体に装飾をしても仕方がない。なぜなら、生き返ることはないのだから。
 なにせ、僕が書いていたのは村上春樹作品の劣化版だったのだ。
 影響を受けてるなんてもんじゃない。ストーリー展開から文体まで、主人公がスパゲティを盛んに茹でてリノリウムの床を闊歩するところまで、やれ射(「やれやれ、射精した」の略)までも、なにからなにまで村上春樹だった。僕の作った主人公はある朝恋人が部屋にいないことに気付き、人妻と肉体関係を結び、なんやかんやあって不思議な少女と出会い、その少女の言葉に導かれるまま地下世界を冒険して、再び部屋に戻ると今度は少女も失っていたが、恋人から手紙が届き……みたいなやつで。
 やれやれ。
 この間に主人公は何回射精しただろう?何回ルイ・アームストロングを聴いただろう?何回やれやれと呟いただろう?
 僕は嫌になった。
 村上春樹を完コピできているならまだしも、どう読んでも劣化版なのだ。
    意識的すぎる。そして無意識的すぎる。病気だ、これは。ハルキ病。
 僕はまた「やれやれ」と言いそうになって、はっとした。口癖になってる。
    やれやれ……。
 10万2764文字で死んだと思われた小説は、最初から死んでいたんだ。僕は死体で遊んでいたに過ぎない。
 あーあ、いっそ村上春樹になれればな。


「諸君が思っているより、あたしはずっと大変なのだよ」


 背後から気の狂った男の声がした。僕は驚き跳んで、コタツに腿を強打し、のたうち回った。
「あたしのせいではあらない」
 のたうち回った目線の先に立っていたのは、身長60センチほどの、「村上春樹」だった。
「いかにも、あたしが村上春樹である」
 はあ?
 村上春樹じゃねーだろどう見ても。顔だけだ。
 声も村上春樹じゃねーだろ。喋り方も村上春樹じゃねーだろ。ラジオで聞いた声とは、話し方とは、まるでそうじゃねーだろ。
 身長も小さすぎるし、幼児体型なのにしかし顔だけは白髪の生えた村上春樹そのもので、不気味と言うほかなかった。そしてこの服装は何だ?突撃隊か?濃いグリーンの軍服。
 僕は言葉を失った。
「言葉を失ったら、物書きとして終わりだぜ」
 なんだこいつ?
「あたしは村上春樹イデアだ。生霊みたいなものだと考えればよろしい。諸君の願いに呼び寄せられたのだ。だからといって、決して諸君が創り出したものではないし、あたしはあたしでしかない。ドラえもんでもハットリ君でもあらない。ましてや あくびちゃんでもあらない」
 イデア?そう言えばこいつ、話し方が『騎士団長殺し』の「騎士団長」にそっくりだ。
「騎士団長でもあらない。似て非なるものだ。メタファーでもあらない。あたしはあたしだ」
 おれの心読むし。
「一人称は統合した方がよろしい」
 僕。
「それでよろしい」
 

 唐突極まりないが、こうして、僕と村上春樹イデアとの奇妙な共同生活が始まった。唐突すぎる。
 どうして村上春樹イデアが僕の前に顕れたのか?「諸君の願いに呼び寄せられた」とはなんなのか?わからない。わからないことが多すぎる。やれやれ、なんてもんじゃない。おいおい、だ。
 村上春樹イデアはしかし、「それでよろしい」と言った後に徐々に色彩を失って、透けるように消えてしまった。
「あたしは限られた時間しかこの世界にいられないのだ」
 どこまでも『騎士団長殺し』の「イデア」にそっくりだ。



 翌日、バイトから帰って、なにをするでもなくダラダラとYouTubeを見ていた。なにか書かなきゃ、と思いながらもこたつから上半身を起こすことができない。書かなきゃ、書かなきゃ、と思うほど体が重くなる。
 昨日のあいつは何だったんだろう、「村上春樹」を名乗る謎の生命体。夢に違いない、冷静に考えて。
「書かないならば食事をして寝たほうがよろしい」そう言って『村上春樹』はこたつの上に胡坐をかいていた。やれやれ、ついに僕も気が狂ったか。神出鬼没なやつだ。
「あたしは神ではあらない」
 イデアだろ。
「いかにも」
 やれやれ、と僕は体を起こし、言った。「なにか食べたりしないのですか?食事はしないんですか?」
「あたしは諸君とは違って、生きるために食物を必要とはしない。食べるとしても余興に過ぎない」
「へぇ。何を食べるんですか?」
「カキフライだ」
 僕は村上春樹本人の好物がカキフライであることをことを思い出した。なにかのエッセイで書いていたな。まったくその通りなんだ。
「その通りだ。あたしは村上春樹イデアであるからな。あたしのことは『村上さん』と呼ぶがいい」村上さんはそう言って、愛おしそうに薄っすら生えた顎髭を撫でた。
それにしても、改めて彼の容姿を見ると、やはり不気味だ。子ども用の突撃隊の衣装に小さなブーツを履き、腰にはナイフが携えられている。衣装だけなら子どものコスプレみたいだが、そこから覗く手の皺や顔のサイズは大人のもので、奇妙だった。
「ところで諸君、さっきから見ていると書かねばならない焦燥感にイラついているようだね。書くことが義務的になっている。プロでもないのに」
「プロになりたいんです」僕がそう言うと村上さんは顔をしかめた。不安な顔つきだ。
「その調子ではたとえプロだろうがアマチュアだろうが、良い文章は書けないぜ。楽しむことを忘れているからな。初期衝動を思い出せ。書きたくて仕方がなかったあの頃の諸君を取り戻すのだ。なにも、書くことを恐れることはない。完璧な文章などというものは存在しないのだ。完璧な絶望が存在しないように」
 村上さんは言って、一人頷いた。
「ためしに、昨日ゴミ箱に入れた小説をもう一度立ち上げて、最後まで書くのがいいだろう。たとえ満足ではなくとも、最後まで書くということは文章を書く喜びを素直に諸君に与えてくれる」
「でも、あれはもう、最後まで書ける気がしないんです。どこまでいっても村上春樹の劣化版で、どこにも終着点がない」
「なら、村上春樹を、このあたしを、超えてみればいいだけのことだ。せこせこ書きなさい。蟻のように」
 村上さんはどうやら気の利いたメタファーは使えないらしい。不安だ。
「それは仕方のないことだ。なぜなら諸君の腹が減っていて、判断力が鈍っておるからな。諸君の体調とあたしはリンクしている。なにか食べるとよろしい」
 僕はまだ夕食を食べていなかった。腹が情けなく鳴った。
「スーパーへ行かねばならない」
「ちょっと行ってきます」

 スーパーで弁当とカキフライを買ってアパートへ戻ると、村上さんは消えていた。僕は弁当を温めて食べ、カキフライを皿に出してレンジで温め、キッチンに置いておいた。結局その日はやっぱり書く気が乗らず、気付いたらこたつで眠ってしまった。
 朝起きるとカキフライは消えていた。



「昨晩はカキフライをどうもありがとう」村上さんはこたつで胡坐をかく僕の膝に鎮座して、言った。鴻毛のように軽くて、貝殻のように冷たかった。
「あたしは諸君らとは異なる次元の概念だからな」村上さんが振り向き体を動かすと、腰に差したナイフが冷徹な硬さで僕の脇腹を押す。頼むから振り向かないでくれ。顔が不気味なんだ。
 村上さんは無表情で目の前のパソコンに向き直り、しばらく画面を睨んでいた。僕の心を読んで傷ついたのかもしれない。
「あたしが読んでいるのは諸君の小説だ。添削してやる。村上春樹らしく」
「添削?」
「いかにも」村上さんは薄く積もった雪のような顎髭を撫でる。「諸君の文章は実に惜しいのだ。よく書けてはいるのだ。でも、諸君の本当の文章ではあらない。諸君が『諸君の文章』を書けるように指南してやるというのだ。なに、簡単なことさ」
「どうしてそんなことしてくれるんですか?」
「なに」村上さんは頭を掻いて、髭を触った。癖なのだろうか。ていうか、村上春樹に髭なんて生えていただろうか。
「あたしを呼んだ、諸君の意志ではないかね」
 こうして、有無を言わさず文章指南が始まった。


「あたしが読者を眠らせないために気を付けていることは2つしかあらない」村上さんは小さく太い指2本を立てた。
「そんなこと言っちゃって大丈夫なんですか?」
「なに、川上君も知っておるよ」
 川上君?
「うむ。ひとつは、言葉の選び方だ」村上さんは構わずに指南をはじめた。「ゴーリキーの『どん底』では「お前、俺の話、ちゃんと聞いてんのか」と一人が言うと、もう一人が「俺はつんぼじゃねぇや」と答える。これが大事なことだ。ここで「聞こえてらぁ」などと答えては、いかんだろうことくらい諸君にもわかるね。ドラマが必要なんだよ」
「つんぼ、なんて今じゃ使いませんよ」
「そして二つ目」村上さんは続ける。僕の冷やかしには答えないつもりらしい。つんぼか。「比喩だ。チャンドラーの比喩で「私にとって眠れない夜は、太った郵便配達人と同じくらい珍しい」というものがある」
 おお……と僕は唸った。
「わかるね?これこそが比喩だ。なんでもない文章を比喩にすることで、読者に「おっ!」と思わせるのだ。これだけで抜群によくなる。諸君の物語にはこういった文章のドラマがあらないのだよ。ありのままをありのままに書いている。これでは読者にとってはまさに、眠れない夜は珍しくなってしまう」
 なるほど。僕は悔しくも、納得した。
 僕の文章はとにかく退屈なんだ。それっぽい比喩はあるけれど、物事の核心を突いた比喩ではない。だからこそ、その点において、出来損ないの村上春樹だったのだ。
「比喩をうまくなるには、文章を読むしかない。情景を愛でるしかない。音楽を聴くしかない。それしかあらないのだ。感性を磨くしか」
「文章のコツはあと他になにかありますか?」
「うむ」村上さんは僕の質問に答えてくれるようだ。「リズムだろう。書いたら声に出してみるといい。不足がすぐにわかるはずだ。これは都市伝説なのだが、夏目漱石の文章は音読しても決して声が詰まることはあらないのだそうだ。なぜなら、漱石漢詩で文章の素養を養い、漢詩は音読こそが肝だったのだから」
 本当かどうかわからないが、僕は今度、漱石を音読しようと思う。
「コツはそれだけだ。あとは楽しめばいい。楽しくなかったらビーチ・ボーイズでも聴きながらシングルを飲んで眠ると良い。あとは時間がなんとかしてくれる。時間を味方につけるんだ」
 おお、今のはちょっと村上春樹っぽいな。本人はそうしているのだろうか?
「内容のコツはどうですか?」
 僕が訊くと、村上さんは黙った。しばし沈黙して、何回か口を開いては言葉が出てくるのを待っているようだった。俯いたり、瞼を擦ったりして、意味のありそうでなさそうな静寂が部屋に篭った。
「諸君は……」村上さんは口を曲げて言った。「何を書いたらいいのか、わかっていないのだ。諸君らが、そして、あたしが書くものは、決まっている。決然として」
「なんですか」
「心の地下2階だよ」



「心の地下2階?」
「そうだ。深層心理だ。すべての文章はそのメタファーでしかあらない。諸君はまだ自分の心の底を見つめてはあらないのだ。だから、途中で詰まってしまった。なぜなら、この物語は諸君の深層心理ではなく、あたしの真似事で、要するにあたしの深層心理の出来損ないなのだよ」
 心の地下2階。深層心理。
「うむ。しかし、そこへ潜るには才能と訓練を要する。どれ、仮に、あたしが諸君を誘ってやろう。諸君の地下2階へ」
 村上さんが僕の手を握って、目を閉じるよう促した。貝殻のように冷たくて、重力のない太い指。僕の手も次第に、透けていった。



 次の日、学校もバイトもサボった。今の僕には書くことしかできそうもなかったのだ。それはどう考えても昨日、僕が村上さんと心の地下2階に下りたせいだったが、そんなこともどうでもよく思えた。僕は貪欲に文字を打ち込むことしか考えられない、文学的動物。
 僕は自分の心の地下2階がどうなっていたのか、覚えていない。ただ、あれから、湧き出る泉のように書きたい気持ちが溢れてきて、画面に向かうと書きたいこと、書くべきことが自然と文脈を繋いで画面に刻まれていくのだ。その感覚だけが僕を支配している、文学的動物。不思議には思わなかった。自然に出来たことだったから。きっと僕は、心の地下2階を覗いて、そこの記憶を失った代わりに何かを得たのだろう。
 喉が乾いたら蛇口から直接水を飲んだ。腹が減ったらしけったせんべいを齧った。雨戸を閉めたまま、夜なのか昼なのかもわからない。気を失ったように眠り、起きるとまた文章を書いた。
 自然に口が動いて、呼吸に任せて文章を吐き出した。文字が浮かんでいって、そっとワードファイルの原稿用紙に吸い込まれていく。
「それでいい」
 村上さんがどこかのタイミングで顕れ、言った。僕はそれにも構わずに書き続けた。彼がいつこの部屋に来たのかわからないし、いついなくなったのかもわからない。
 僕は獲物を狩るヤマネコのように夢中になっていた。世界はワードファイルの中にあった。文学的動物。


 いつ眠ったのかわからないけど、随分長く眠っていたような気がする。目を覚ますとひとつの短編小説が出来上がっていた。
 10万字は大いに削られ、4万字のささやかな物語がそこにはあった。
僕は喜びに打ち震えて読み通す。感動する。まだまだ文章は粗削りだけど、内容はとても良い。的確なメタファー、文章のドラマ。よく書けてる。科学的な論理の伴わない文脈は、それこそが心の地下2階の文章であることを示していた。僕は文章を通して自分を見ている気分になった。これは鏡だ。まるで村上春樹の小説を読んでいるみたいにワクワクする……。
 

 そうか。
 あることに気付いて、僕は深く絶望した。イカロスが太陽に昇りつめて地上に堕ちた気分だった。あまりにも絶望して、僕は打ち砕かれて、寝込む。文学的動物の眠りはしかし、浅く深い。



 村上さんはそれから僕の部屋にしばらくは来なかった。
 僕はバイトを無断でサボってクビになり、大学の講義も休み続けて、いくつかの単位を期末前にも関わらず、落とした。お腹が減らないので一日一食、冷蔵庫にあるものや、しけったせんべいを気が向いたときに齧った。半月ほどそうしていたら体重計に乗るまでもなく頬がこけて、目の下は酷いクマができていた。
 でも、そんなことは何もショックじゃない。むしろ、そういった現実が突きつけられるたびに、僕は僕の書いた4万字の小説の現実に向き合わねばならなかった。それが、何よりもショックで、生活の堕落はその余韻でしかなかった。
 だからと言って4万字をどうすることもできなかった。僕はそれに触れることすら恐れ、何度か吐いた。
 半月の間に何度か細かい雨が降った。僕はただその音を聴いた。
 部屋の湿度が増して、ひどい雨が降り、いよいよ春が声を潜めたその日の夜、村上さんはこたつの上に鎮座していた。
「やあ」
 僕は村上さんを枕から見ていた。
「お久しぶりですね」
「諸君に呼ばれたのだ」
「呼んでませんよ」
 僕が言うと、村上さんは何も言わず、腰に差したナイフを抜いて、僕の枕元にぽい、と投げた。これで死のうかな。死んだ方がマシだ。あれ以上のものを書けないならば。
「いや、あたしを殺すのだ」きっぱり、村上さんは言った、空洞のような顔で。「諸君は才能がないのではない、あたしに才能を食われているのだ」



 4万字の小説は、僕にしてはよく書けていた。今までで一番よく書けていた。自分でも惚れ惚れするほど。それはもう村上春樹の劣化版ではなかったし、まるで、村上春樹そのものだった。
 そう。
 村上春樹そのものだったのだ。
「なぜこうなってしまったのか?諸君は良くも悪くも純粋なのだね」憐みとも同情とも嫌悪ともわからない声で村上さんは言った。

「あの日、あたしが諸君を連れて行った地下2階で、諸君は諸君の深層心理を垣間見た。そこはなだらかな砂地の海底のようだった。諸君はそこの一握の砂を握って、持ち帰ったのだ。その中にある物語の核と共に」
「そして、それをもとに諸君は4万字を書ききった。素晴らしいことだった。純粋に書く喜びがあった。しかし、悲しいことに、諸君が書いたのはあたし、村上春樹の物語そのものだったのだ。それが何を意味するかわかるだろう。だから寝込んでいるのは、諸君が文学的動物であるからだ」
「そうだ。諸君の深層心理にあたしがはびこっていたのだ。諸君の素晴らしい過去も憂鬱も喜びも、すべてあたしの色に染まっていたのだ」
「ああ、悲しいだろう。なにせ、諸君の中の諸君は、村上春樹だったのだから。そこから導かれるものは村上春樹でしかない」
「どうすればいいか?」
村上春樹は尊敬する作家だ。彼に傾倒して、私淑して、すべての著作を穴が開くほど読んでいる。短編も中編も長編も、関連を見出し、独自の考察を得るほどの、ファンだ。ハルキスト中のハルキストだ。しかし悲しいかな、そこで諸君の書くものは村上春樹の影響を受けすぎて、いつしか自分の心の底までをも、村上春樹の文体とリズムと思想に支配されておったのだ」
「どうすればいいか?」
「諸君が諸君であるために。諸君が諸君の物語を書くために」
「どうすればいいか?」

 村上さんは枕元に膝立ち、布団の中の僕の右手を伸ばして、ナイフを握らせた。
「もう、わかっているはずだぜ。諸君は毅然として、あたしを殺さなければ先へ進めない」
 ナイフは村上さんよりずっと重かった。刃渡り15センチ弱のそれは冷たく光り、貝殻のようになんの音もしない。ナイフのわずかに震える光線は、僕の手の震えだった。それだけが生命を持っていた。
「そんなこと、できません」
「できるさ。なにせ、これは諸君が望んだことなのだ」
「そんな……」
「そうだ」村上さんは僕の手をぐいと引っ張って、膝立ちさせた。そして、腕を広げて頷いた。
「さあ、心を決めて、一突きにやるのだ。大丈夫。あたしには痛みもなにもあらない。村上春樹本人にもわからない。あたしはあたしの形状を失って、諸君の中から消えるだけだ」村上さんはどの時よりも厳しい目つきで言った。
「わけがわからない」ナイフに走る光が激しく揺れていた。



「諸君は最初からわかっていたのだ。望んでいたのだ。こうなることを。諸君の地下2階であたしの見たものは、この場面だった。この場面だけが、諸君の中で唯一、『村上春樹ではないもの』だった。そして、諸君が生んだあたしは、こうなることを望んで諸君の前に顕れたのだ」
「そんな……」
「もうわかっているはずだ。諸君は賢い。そして才能に溢れている。あたしを殺すことができたなら、蕾が芽吹くだろう。水を与えて暖かな陽をそそげば、いずれ花は咲くだろう。その花に蝶が集い、命を育むだろう。あたしを殺せば」
どうすればいいか?言わせるな。過去を切り裂き、その鮮血で文字を刻むのだ」
「諸君が殺すのは村上春樹ではない。村上さんでもない。忌々しい過去そのものだ。憎しみそのものだ。憧れそのものだ。あたしそのものだ。諸君そのものだ」
「大人になる時が来たのだ」
「どうすればいいか?」
「やれ。今が時だ」
 ナイフが手に吸い付いて、そのまま村上さんの胸に飛び込んだ。



 村上さんの心臓に突き刺さったナイフはもう震えてなどいなかった。羽毛のように軽い村上さんはしかし、大人の男の筋肉質な力で、ナイフを内側から押し戻そうとして、口から血を吐き、ナイフを抜くと、見たこともない量の血を噴いた。突撃隊の制服の濃いグリーンに血が滴ると、そこは影のように黒くなった。
「やれば、できるじゃ、ないか」倒れた。
 僕はもう一度村上さんを刺した。何も考えていない、動物のように、そうするべきことがわかっていた。
頸。薄く積もった雪のような無精髭が赤く染まる。温度のない血が僕の顔面に飛沫(しぶ)く。ひゅうひゅうと呼気が傷口から漏れ出て。
 そのとき部屋は無音で、深海のような無音で、音など概念すらなくなったようで、僕は雨が止んでいることに気付いた。村上さんは動かなくなった。
 静寂。どこかで聴いた静けさ。
 部屋の隅で床の扉から何かが僕を覗いていた。それは逞しい顎髭をたくわえた、何者かだった。
 静寂は地下2階の音だった。

 


 気付いたら朝になっていた。僕はいつの間にか眠っていたらしい。

 あれだけの飛沫をあげた血潮も、村上さんの死骸も、そこにはなかった。床の扉も無ければ、覗いていた何者かもいなくなっていた。
 パソコンの中を確認すると、4万字の小説は消えていた。代わりに、元のままの10万字の小説が行き場を無くした猫のようにファイルにおさまっていた。
 わけがわからない。
 すべて夢だったのかもしれない。もう一度枕に戻ると、ごつ、と綿の下に硬い感触があって、枕を除けるとそこには、村上さんのナイフが冷たく光っていた。
 朝日を反射したナイフの光が僕の網膜を震わせた。



 こうして僕は、物語を完成させた。

 


 (終)

 

 

 

 


   (あとがき)
 本編は『騎士団長殺し』のノリを踏襲しています。文庫版が出ましたね。ぜひお買い求めください。
 また、つんぼ、という言葉は現在では差別用語となっていますが、表現のために使用はやむをえませんでした。お許しください。

 


   (参考文献)
川上未映子村上春樹『みみずくは黄昏に飛びたつ』
村上春樹『職業としての小説家』
村上春樹『雑文集』
河合隼雄村上春樹村上春樹河合隼雄に会いに行く』
村上春樹風の歌を聴け
村上春樹ノルウェイの森