ついにiPhoneを替えた。
iPhone12。以前のiPhoneは6sだったので、倍の進化を遂げたことになる。(この認識で合っているかはわからないが)
以前iPhoneを替えようとして失敗した、その後日談になる。
ノジマで機種変更&ケータイ会社の変更をした。
ノジマには携帯会社の手先がおらず、ニュートラルな立場でどこの会社が安いか、自分の場合どういったプランがオススメであるか相談に乗ってくれて、的確なアドバイスをしてくれる。
以前ビックカメラに行ったときはauの手先の販売員に捕まり、どの会社がいいのか おぞくも相談したところ「お客様の場合ですと、auのプランが最もお得です」とオススメされ、当たり前だろ、とツッコんだものだった。
ノジマでは行ってその場ですぐに交換ではなく、あらかじめ相談を聞いていただき、今後のプランを調整、いくつか資料を頂いて持ち帰ったうえで検討、再び店に行って契約変更などの手続きをし機種を予約、端末が入荷され次第また店に行ってデータ移行→交換、と段階を踏んだ手順で交換した。
慎重だったし、丁寧だった。私がやるべきことを親切に教えてくれた。
ケータイ交換はその場のノリでするものではなく、本来このように慎重を期して、大切にやっていくべきことなのだ。
なぜなら、スマホはほとんど臓器だから。
スマホは臓器である。
血が通っていなくて体内に無いというだけで、現代の生活には欠かせず、社会に組み込まれていくうえで必要となる五臓六腑+αの存在だ。
OSの更新が入って代謝がおこなわれるし、あらゆる情報が入って来てそれを取捨選択し栄養としている。もはや外付け大脳新皮質だ。
スマホは臓器。
キュソネコカミが同じことを歌っていた。
「現実よりも現実な僕らのリアルを蝕む」
「僕らの心と体もいつか電波に乗せて踊り出す日も近い」
いい歌詞だ。
私はこの歌ほど依存してはいないのだけど(友だちがほとんどいないのでLINEも来ない)、生活必需品であることは間違いない。
こんな大事なものをどうして以前の私はノリで交換しようとしたのだろう。
その場のテンションで臓器移植する人なんていない。「すみません、臓器移植したいんですけど。ああ、在庫あるやつで大丈夫です。色は赤で」なんて言う人はいない。じっくり時間をかけて、よく考えて交換すべきなのだ。
新しいiPhoneは画面が大きくてYoutubeは見やすいし、ブログも読みやすいし電子書籍も圧迫感がない。Twitterにも臨場感が生まれた(ある意味最悪とも言える)。
下部中央にボタンが無いことに驚く。今更。
カメラがきれいだ。試しに自撮りしてみたら顔のアラい部分まで鮮明に映されて最悪だった。景色を撮る分には申し分ない。
はやくいい感じのケース買ってフィルム貼りたい。今は裸のままなのでなんとなく落ち着かない(スマホが)。
時々ベッドの上に安置されているスマホを遠くから見つめては「よし、無事だな」と安心している。突然おかしなこと(例:自壊する・燃える・一席設ける・蕎麦を打つなど)になったら困る。
私の臓器なのだから。