蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

写ルンです のフィルムを巻くときの音

に。

逆に「写ルンです」がいいなと思って、先月初めに購入した。

写ルンです シンプルエース サポート : 富士フイルム [日本]

 

スマホでいくらでも写真を撮れる時代。性能が良いから下手でもそれなりによく写るし、半目になっちゃったらすぐ消してもう一枚撮って、あれ、半目じゃなくても目が小さいからアプリで加工するか、なんて常識なこの時代。

私も写真を撮ってはすぐに消したり、撮ったまま見返さなかったりなんてよくあって、なんか「写真」の価値が自分の中で下落している気がしていた。

スマホで簡単に撮れる写真こそインスタントなのではないか。そう思った。

 

「写真」は時間を切り取る装置だったはずだ。

いつからシェアするためのアイテムになってしまったのだろう。

シャッターを切る瞬間に思いを馳せなくなったのはいつからだろう。

最後に紙にプリントされた写真を手に取ったのはいつだろう。

現像されるまで写真の出来がわからないその「当然」が急に恋しくなって「写ルンです」を購入した。安くない思い出にするのだ。

 

買ってすぐ撮ってみたのだけど、ただボタンを押すだけじゃダメで、フィルムを巻かなきゃいけないという「常識」をすっかり忘れていた。

やったことある人ならわかると思うけど、あのジーコジーコ巻くときの音のチープさと指先がちょっとだけ痛い感じがなんか懐かしい。撮るのにいちいちこんなことしなきゃいけない。それが嬉しい。

ジーコジーコ巻きながら、なんか「写ルンです」は「カメラ」と言うよりも「フィルムにレンズが搭載されているもの」と言った方がいいかもしれないなと思った。大きさもそうだし、なにひとつ調整できないのだ。

そして絶対にフラッシュを焚かないといけない。つまみを上げてフラッシュモードに設定する(できる調整と言えばせいぜいこれくらいのものだ)。

あとはうまく撮れているのを祈る気持ちだけが必要。

そうして私は一か月の間、ジーコジーコ巻いてはなにかとシャッターを切ったのだった。

 

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誕生日ケーキ。

部屋を暗くしていたわけじゃないのにこんなに暗い。フラッシュを焚いてこれだからまいった。

でもなんか風合いがいいですね。決して美味しそうではないけれど、美味しかった思い出はしっかりこの中にある気がする。

 

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今年の梅酒を仕込んだときの。

これも晴れた6月の日中に撮ったのだけど暗すぎる。ちょっとピンボケの梅たちが愛しい。素朴で朴訥で「生活」だ。

 

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私ですね。

夜中にガバッと起きて、ホット―ケーキを焼きはじめたのです。さっきまで寝ていたから寝癖が付いてる。コアラの下は満面の笑み。

平成初期感のある風合いのおかげか、より一層生活感が出てる。

関係ないけどすごい猫背だ。なんだこれ。

 

他にも入籍した日の写真とか、掃除機をかける妻とか、ドーナツを頬張る私とか、それから半目の妻とか。たくさんではないけどおよそ一か月の「瞬間」が似たような風合いで現像された。

「失敗できない」と撮るときに思うからか、それともいちいちフィルムを巻くからか、あるいはその両方のせいか、一枚一枚にちゃんと思い出がある。

スマホカメラよりも明確に撮るときに「瞬間を焼き付ける」感じがして、そこにすごく不思議というかハッとするようなものがあった。その「瞬間」って瞬きよりもはやい刹那で人間には捉えられないほどの速度なのだけど、思い出として焼き付いたその瞬間は永遠になる。

単なる写真ではなくて、そこにはなにか、想いが刻まれているということ。

なんて書くと大袈裟だし「そんな気がする」だけで「写ルンです」にも馴れてしまったら忘れてしまう感覚なのかもしれないけど、今はたしかに、そう思った。

 

スマホにデータを転送できるらしいけど、今はまだ、あえてそうせずに現物の写真を手に取って眺めていたい。