蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

麦茶は泉のように涌け

く「夫がドリンクピッチャーの底に2センチくらい麦茶を残して絶対に替えを作らない」という文句を目にする。

 

わかる。双方の気持ちがよくわかる。

 

麦茶を作るのって面倒だ。

いや、面倒というほどでもない。面倒というほどの面倒じゃないのだけど、やや手間、じゃないですか?

ピッチャー洗って麦茶のパックを入れて水を注ぐ。2分もあればできることだし、こうして工程を書き出してみると単純で未就学児でもできることなんだけど、ここにこうして文字にはできない、言語化できない「手間」が存在するのが麦茶づくりだ。

残量が一定の量になったら泉のように麦茶が涌けばいいのに。

一日に2分それに費やすとして、一生で換算すると、残り40年生きるとしても29,200分を麦茶づくりに捧げることになる。

こう書いてしまうと麦茶メーカーの方には申し訳ないが、私は29,200分という莫大で茫漠な時間を麦茶に捧げたくはない。およそ20日間、一生のうちで貴重な20日を麦茶づくりに費やすなんて考えられない。20日延命できるとしたら人はいったいいくらの金を払うだろう。なにをするだろう。少なくとも麦茶に20日を使わないはずだ。

私が麦茶を作らなくていいようにするには、大金持ちになって使用人を雇うしかない。単なる一般市民や小金持ちくらいなら、私は死ぬまで一生麦茶を作り続けねばならない。

麦茶を作りたくないから大金持ちになる努力を惜しまないのもまた人生だろう。

 

「夫がドリンクピッチャーの底に2センチくらい麦茶を残して絶対に替えを作らない」

この文句の本質は「どうしても家事をしたくない夫」への文句である。

たしかに麦茶は「家事をしたくない」姿が如実に表れる、いわばバロメーターのようなものだ。

最後に飲んだ人が麦茶を作ればいい。たったそれだけのことがなぜできないのか。時間が惜しいのか。たったの2分が。

たったの2分でも積もれば20日。作るのは楽だけど手間。

ここになにか、麦茶のジレンマがあるように思えてならない。

我が家の場合、私はあまり麦茶を飲まないが(7:3の割合で同棲する彼女の方が多く消費する)、残り2センチくらいだったら見つけ次第飲み干して新しいのを作るようにしている。ただ、彼女が飲み干したピッチャーがそのまま放置されていたりすると、ピリ、とこめかみに青筋が立つような気持になる。

どうして最後に飲んだ彼女が、どちらかといえば多く消費している彼女が、麦茶を作ってくれないのだろう?

朝は特にそうだ。朝は時間が無いからやってちょうだい、ってわけか?

そりゃそうなんだけどさ。

おれは使用人か。

ってイライラしてもこれを読んでいる皆さんが抱くのは「たかが麦茶じゃないの」という感想だろう。

 

これが麦茶のジレンマだ。

家事のバロメーターにもかかわらず卑近で楽でそれでいて手間。

こうして書いて麦茶への憎悪を募らせていると自分がどんどん矮小な存在に思えてくる。病気なんじゃないか。自律神経がずたずたにされているのではないだろうか。やばい人に見えてるんじゃないか。

麦茶に精神を破壊される前に、同居人のために「最後に飲んだ人が次の麦茶を作る」ルールを徹底すべきだ。