蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

叫ぶための場所が圧倒的に不足している

今週のお題「叫びたい!」

 

市にはさまざまな場所、さまざまな物、そしてさまざまな人がいて、少し歩けば世界中のグルメを堪能できるし、マイナースポーツの団体だってあるし、あらゆる施設が揃っていて一般生活において不便な思いをすることはほとんど機会さえ与えられないだろう。一般人がオリンピックに出場する機会がほとんど無いのと同じくらい。

だけど、ときどき思うのだ。

この街にはすべてがあって、なにもない、と。

 

たとえばそう、私は叫びたい。

叫びたいのだが、叫ぶための場所がない。

いや、あるよ?カラオケボックスなり歌舞伎町なり行けば叫べるのだけど、なんかそういうことではなくて、日常生活をしていて、たとえば駅を出てすぐの駐輪場とか、住宅街の真ん中で「死ね!!!!」と叫びたくなったとき、都会では叫べない。

なぜなら、人が多いから。

密集しているのでリスクが大きいのだ。

誰も歩いていない住宅街だとしても、立ち並ぶ家屋の中で人々が蠢いており、息をひそめてこちらの動向を窺っている。田舎と違って廃屋ではないのだ。

家に帰って叫べばいいのだが、それも正味、あまり気が乗らない。

なぜなら、壁が薄いから。

集合住宅では隣との壁も薄く、一軒家だとしても日が差さないほど壁同士が至近距離に迫っているので、お隣りさんの一家団欒も丸聞こえなのだ。うちの近所では羊羹を薄く切ったような住宅が立ち並んでいて、たぶん会話も聞こえてるだろうし、夜眠るときは足を曲げないと横になれないと思われる。東京の土地は常に不足している。

それに、叫びたいと思ったときに叫ばなければ意味が無い。

「死ね!!!!」と叫びたい感情を、まてまてとマスクの下に抑え込んでそそくさ家に帰り、ネクタイを外してスーツをハンガーにかけ、ちょっと迷って「シワになっちゃうナ」とズボンも脱いでからベッドに倒れて枕を顔に押し当てて叫ぶ「死ね!!!!」と感情のおもむくままに思ったその時に叫ぶ「死ね!!!!」ではライブ感がまるで異なる。

今だよ。生きてるって、今のことなんだよ。

 

このように、都会には「叫べる場所」が圧倒的に不足している。ボッチャ競技場とかレバノン料理屋とかフリーメイソン日本支部とかそういうものはあるのに、随意に叫べる公共の場所はほとんど無いと言ってもいいだろう。

駅前で叫んでもいいけど、できれば地元の駅は避けるべきだ。

田舎だったら、あぜ道で、鹿くらいしかいないんでしょ、どうせ。街灯ひとつなくて、満天の星空なんでしょ。よくわからない鳥の声が聞こえるんでしょ。

なら叫んでも問題ないでしょう。

いきなり「死ね!!!!」と叫べば鹿威(ししおど)しにもなるし一石二鳥だ。

 

でももはやそういう田舎って日本では本当に秘境くらいしかないのかもしれない。一日に電車が2本しか来ないような、周りが森に囲まれている秘境駅。随意に叫ぶならそういう環境に限られてしまう。

でも秘境に行って満天の星空を眺めたら、叫びよりもむしろ感嘆の溜息を漏らすだろうな。

叫ばないでいられるほうが良いに決まってる。