リラックス方法について、ためしにAmazonでカテゴリーを「書籍」に絞って検索をしてみると、信じられない数の本がヒットする。
見て安らぐ系のたとえば風景や丸くて柔らかそうな動物などが載っている写真集や、あえて集中力を要する塗り絵によってリラックスを促すものや、ヨガとか睡眠方法の指南書とか料理本から自己啓発本まで、さまざまな種類、ありとあらゆる角度からのリラックス方法が言及されていることがわかるだろう。
私たちはいつだってリラックスを求めている。
かく言う私もその一人で、最近ではリラックスをするために生きているのではないかと思えるほどだ。
究極的なリラックスを習得して解脱を目標に頑張ろうと思う。
私の親戚の、すこし病気がちな叔父(精神病院に定期的に入院している)が、座禅を組むと無になってリラックスできる、と昔教えてくれた。
そういった修行じみた精神世界的なものは、正しい手順を踏んできっちりと思想を勉強したうえで指導の下にやらないと自己流だと時に危険なのでやめたほうがいいのだが、叔父はそれでリラックスができているようなのでなにも言えなかった。私の可哀相な叔父は世界の誰よりも癒しを求めている。
リラックスとはなんだろう。
すぐに浮かんだ言葉は「緊張をほぐす」で、類語の引き出しの一番手前に入っている。リラックスには「緊張」が必要であると言えるだろう。
緊張があるからこそ緩みがあって、その力から解放された状態でこそリラックスは存在できる。
社会人ともなれば常に緊張状態、いつもなにかが足りないのに目一杯なことで溢れた世の中、もうウンザリなこの日々は「緊張」と言えるわけで、家に帰って布団に横になればその解放感は「リラックス」なのだ。
だけど私はさらにリラックスしたい。余計なことを何も考えたくない。
そこでYouTubeをつける。
ひたすらに移ろう興味に沿って動画を流して見ているので、普段自分が何を見ているのかよくわからない。
これはどちらかというと虚無なリラックス方法だ。なにか「時間を浪費している」感覚が付きまとい、虚無感を覚える。でも虚無感を覚えるほどになったら充分にリラックスできた証だ。
それが嫌なら本を読むのがいい。虚構の世界にとっぷりと浸かるのがいい。
集中して文字を追うというその行為に緊張が走り、だけども苦痛ではなくて、いずれ夢中になる。緊張と緩和が矛盾することなく両立し、リラックス状態に入る。
虚構の「虚」と虚無の「虚」は同じ字だが異なるものだ。
YouTubeを見ることも本を読むこともリラックス方法としては「逃避」の部類になる。座禅のように向き合うものではないだろう。
だけど、逃げるにしても逃げる方向くらい決めさせてほしいし、私は逃げ道を楽しいものにしたい。頑張ってリラックスしても意味がわからない。
逃げ道は「無」で埋めるのではなく、花を植えたい。