蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

桃太郎の犬・猿・雉についての簡単な考察

太郎のツレといえば、犬・猿・雉だ。

私だったらもうちょっとマシな仲間にするが(管理会計ができたり楽器を演奏できたり多言語話者だといい)、でもまぁ、結果として鬼退治はできたわけだし、動物を連れてファンシーな絵面になっただろうから、良かったんじゃないかなと思う。

 

それにしても。

犬・猿・雉。

この並びに違和感を覚える。

犬、猿、と来たら「鳥」になるのが自然ではないだろうか?

犬とか猿という呼び方は種族、概念としての動物を示している。猫とか魚みたいに。

好きな乗り物はなんですか?という問いに対してクルマ、電車、ボーイング747、と答えてるみたいなもんだ。

だから本来は、「雉」ではなく「鳥」であるほうが犬猿に対してフェアだ。

それなのに「雉」とかいってさ。

雉っつーのは概念じゃなくて特定の具体例でしょうが。「科」のレベルでしょうが。

どうして雉だけ、鳥ではなく、具体例として示されたのだろう。

 

いろいろ考えた結果、ひとつの結論が導き出された。

結論👉『桃太郎』が成立した当時、犬も猿も特定の種まで分けて認識されていなかった。

 

犬といえば日本には柴犬とか土佐犬とか秋田犬とかいろいろいるけれど、『桃太郎』の成立した大昔は雑種の野良犬とかムク犬みたいに、そこら中にいる犬に対しては犬種を特定していなかったのではないだろうか。

血統書なんてない時代だ。

今のように人権を獲得しつつある犬はいなくて、犬といえば犬でしかなかった。

犬=そこらにいる犬だった。

猿はおそらく日本猿しかいなくて、チンパンジーとかオランウータンとかボノボは日本にいないので、猿といえば日本猿を指し、それ以上でもそれ以下でもなかったのだろう。

犬は犬。猿は猿。

 

では鳥はどうだったかというと、当時から多様性を重んじられていたと考えられる。

カラスとか鳩とか、メジロとかウグイスとか、ホトトギスとかトンビとか、知らないけど万葉集とか古事記にも出てくると考えられる。たぶん。

そういった多様性があったため、鳥、とだけにしてしまうと読者(聞き手)は「どの鳥?」と疑問を呈してしまう。

大きい鳥も小さい鳥もいる。スズメを仲間にするのとダチョウを仲間にするのとでは話も変わってくる。

そのような経緯があって「雉」と明記したものと考えられる。

 

では、どうして雉なのか?

それは知らないけども、雉って鍋にしたりご馳走の象徴なんですよね。たぶん。良い鳥ってイメージある。

「高貴」のイメージもある。

羽根は美しく、尾は長く凛として、高潔だ。

こういう時代に言うのも何だけど、ルッキズムです。見た目が良かったから、に尽きる。すみません。

だから、日本にクジャクがいたら、雉の座はクジャクになっていた。そのほうが明らかに盛り上がるから。

 

以上、桃太郎の仲間に関する簡単な考察でした。

いかがでしたか?(感想の強要)

現代版にするなら、犬と猿も具体的にしたほうがいいのか、それとも雉を鳥として、読み手が感情移入しやすいように抽象化したほうがいいのか。

そもそも、仲間の種類を特定してしまっているのがよろしくないという見解もある。

n、n+1、n+2くらいの表記にとどめておいたほうが親切ではないだろうか。