カタログギフトをぱらぱらめくっていたら、ひじょうに気になる商品が目に入った。
デジタルオーディオ「デジらくモア」である。
ぼくはこれを、欲しい、と思った。ひじょうに欲しい、と思った。
思ったけど、できれば10分くらい借りて返品したい、とも思った。
カタログギフトは妻の会社から結婚祝いにいただいたものだから商品を選ぶ決定権は妻にある。「デジらくモア」を妻が欲しがるとは考えられない。ぼくだって「10分だけ欲しい」程度なのだ。でも一応提案してみる。
「ねぇ、君のiPodだけどさ、ずいぶん前に壊れちゃったよね」
「そうだね。もう古いからね」
「あのさぁ、新しいの欲しくない?こういうのがあるとお散歩とかさ、もっと楽しくなると思うんだよね」とここでカタログギフトを開いて見せる。「ラジオも聴けるらしいよ。知ってる?楽しいよ、ラジオ」
「いらない」妻は1秒だけ一瞥するとプイと横臥して目をそらしてさらに、「いるわけないでしょ」と念を押して言った。
そう、必要なわけないのだ。
「音楽」とその概念が端的に示された画面。この時代においてタッチパネル式ではなくボタン入力式のシステム。今どき日本語入力でクーラーのリモコンみたいな操作性は珍しくてむしろユーモラスに見えるし、レトロな雰囲気がある。
ここが令和の最新なのか。
たぶんきっと、大きめの字で書かれた分厚い取扱説明書が同封されているんだろうな。
「おさんぽがもっと楽しくなる!」の文句がこの商品の対象ユーザーに狙いを付けている。
おじいちゃんちの押し入れの中から電池の切れた「デジらくモア」が出てきてもぼくは驚かないだろう。
いまはおばあちゃんが一人で住んでいる神奈川の古い家、その押入れの行李の中に、ぼくの母の幼い頃のアルバムとか、なにか透明の液体の入っている一升瓶とかと一緒に、「デジらくモア」を発見した。
おじいちゃんが亡くなって七年、たぶん七年使われていない再生プレイヤー。
おじいちゃんはこれをどういうつもりで買ったのだろう。
ずいぶん前の話だけど、高校生のぼくが使っていたiPodをずいぶん不思議そうに見ていて、このなかにそこのCDラックにあるアルバムが全部入っているのだと説明すると驚いていた。
「おれが昔見たウォークマンはなぁ、カセットひとつしか入らなかったからなぁ」
「今はこんなに小さくなったんだなぁ」
おじいちゃんがそれで、ぼくのiPodに憧れたのかはわからないけど、とにかくそのような存在を知ったのは確かだ。
iPodに憧れて「デジらくモア」を買ったのだとしたら、それはなんだか泣けてくるほどの愛らしさで、おじいちゃんを思い出すと胸がギュッとなった。
いまの機械はよくわからないけど、こういうボタン式の、文字の書いてあるやつなら操作できそうだし、おさんぽしながら聴けるじゃないか。
おじいちゃんはこれで何を聴いていたのだろう。
丁寧に使っていたのだろう、ボタンや液晶は綺麗なままだ。使っていたのかも怪しいくらい。
イヤホンもなければ充電アダプターもない。電源を押しても暗いままで、中のデータを見ることはできない。
あるいは一度も使わなかったのかもしれない。ただの一度も使わずに、いや、使えずに、この中へ仕舞われたのかもしれなかった。新品同様に傷ひとつなかったし、ボタンは押すとまだ固くてカチカチ音がしたから。
ぼくはもっとおじいちゃんに会いにくるべきだったのだ。それでこれの使い方を教えたり、二人でラジオを聴いたりして、この中に何が入っているのか、おじいちゃんの人生の断片のなにが入っているのかを知っておけたのに。
ぼくはそれをもとあった行李の中へ戻した。透明の液体の入った一升瓶の隣に。
何年か経ってまたこの中を整理するときがきたらきっと同じ思いに沈んでしまう、その予感と共に蓋を閉めて、押し入れの奥へそっとしまった。
などとカタログギフトをめくる手を止めて15分ほど妄想していたところ、まだ「デジらくモア」を眺めているぼくを妻が見咎めて「頭がおかしいんだね」と呟いた。
そうです。おかしいんです。