先日博物館に行った際に日本刀の展示があり、まじまじと見てみて、その美しさにゾッとした。
外国人も多く、皆がしげしげと見つめてその妖しい輝きに唸っていたり、考察を述べている人もいたりした。
また、刀剣女子と言うんですかね、そういう人たちもいて、惚れ惚れと見つめておりそれもまたよろしかった。
たしかに美しいのだけれども、でも日本刀って、どこまでいっても殺人道具なんだなと思った。
マグロを捌いたり稲を刈ったり穴を掘るための道具じゃない。ましてや背中をかいたり家具の裏側のホコリを取るための道具でもない。
効率的に敵を殺害するために設計された、武器だ。
ヒヤリと光る刀身は美しいけれども、その美しさが「どうすれば素早く敵の喉元を掻っ切れるか」を突き詰めた先にあるものだと思うとゾッとする。
誰かを切ったかもしれない武器を、こうして展示して惚れ惚れしているのは異様にさえ思う。この武器の先にある血潮にみんなが他人事だ。
その生々しさを想わせないくらい、日本刀は美しい。
切先の鋭さ、流れるような刃紋、光を吸い込むかのような鉄の滑らかさ……ただそこにあるだけで空気をも切り裂きそうな殺意がこもっていて、これを鍛錬を積んだ武士が構えていたら、私は即座にひれ伏すだろう。
そう、この美しさには殺意が込められている。
話は少し逸れるけど、銃も人を殺すために生まれ、人を殺すために発達した武器だ。
こうした純粋な人殺しの道具を所持しておいて、発砲事件が起こったら「使う人間が悪い」として銃を規制しないのはおかしいと思う。
道具を持っている時点でそれはもう、使われるためにあると言っていいのに。
日本刀や銃があるだけで、これを使って誰かを殺すという選択肢が問答無用で生まれてしまう。
でも銃が殺人道具である以前に、モノとして格好良いというのもわかる。
文化ってある。銃も日本刀も、それが工芸品としての価値を持つ文化。
それはまったく良いことだと思うし、私だって日本刀を見て惚れ惚れしたものだけれど、この工芸品の先には「人殺し」があるのだということを忘れてしまうのは無責任というか、ちょっと感性が鈍感なんじゃないか。
戦争とか災害とかも、過ぎてしまえばコンテンツ化される。別にそれでもいいと思うし、私も人がバンバン死ぬ戦争映画は好きだ。
でもその先にあったもののことは、それはそれとして胸に留めておかないと、コンテンツを享受する資格はないのではないかと思う。