蟻は今日も迷路を作って

くだくだ考えては出口のない迷路に陥っている

熊殺し

 は、錆びた骨の折れたビニール傘で小熊の心臓を突きながら、師匠の言葉を思い出していた。

「母熊を殺された小熊は、生涯人間への恨みを忘れず、いつ村を襲ってもおかしくない。だから、母熊を殺したらその子も殺すのだ」

 骨の砕ける不気味な感触が傘の柄から僕の背筋まで震わせる。

 

 尖っていない傘では心臓を一撃で貫くことはできないとわかっていた。だからこそ、正確に心臓を貫かなくてはいけなかった。そうでないと苦しませるだけだ。

 母親についてきただけの、まだ生まれて日も浅い小熊を殺すのが好きなやつなんていない。小熊は既に動かなくなっていたけど、僕は傘の先を心臓めがけて突き刺すのをやめなかった。

 肉の抉れる感触はかたい砂を掘るのによく似ている。

「まだよ!まだ生きてる!殺して!はやく!」

 同い年の女の子が僕の背後でヒステリーに叫ぶ。

「下手くそね!もうおやじさんは仕留めたわよ!」

 うるさかった。ひじょうに。

 師匠の方を見ると、師匠は大きな母熊の背に座り、血のついた傘を放り棄てて、一服していた。さすがは師匠だ。返り血を浴びていない。

 だいたい、師匠は村いちばんの狩人で、経験豊富なのだ。折れた傘で熊を殺すのだって赤子の手をひねるようなものだろう。

 僕は、これが初めての熊殺しだった。

 いつか熊を殺すために毎日ぬいぐるみで練習していたけど、実戦とは大きく異なる。本来熊を殺すために使用するのは先に鉄の矛のついた重い槍で、それなら使いこなせば熊の首を払うように切ることができるのだが、あいにく今日に限って槍は家にあって、手近な武器は折れたビニールが傘しかなかったのだ。初戦の僕にとっても、小熊にとっても不幸だったとしか言いようがない。小熊はいつまでも死ねずに苦しんでいるのだから。

 首と肩の付け根から下に7時の方向、缶ビール一個分のその場所が、どんな大きな熊であっても小さな熊であっても唯一の確かな弱点だった。目や鼻を潰しても動きを止めることしかできない。それ以外だったら、首を斬り落とすしかない。

 

 小熊はもう動かなかった。だけど女の子はヒステリーに叫んでいて、僕は血塗れだった。

「まだ死んでないの!?心臓を触って確認してごらんなさいよ!その穴から!背中にあなたが開けた、無惨な穴から!」

 師匠は僕を厳しい目で見つめていた。その目は「そうしろ」と言っていた。

 

 僕と師匠は山の中腹を軽自動車で走っていた。

 この女の子の家にさしかかったとき、熊の親子が家の敷地に入るのが見えて、師匠は軽を停めた。そして、玄関を食い破ろうとする熊に石を投げ、気を引いたのだ。

「こっちだ!ほら!こっちだ!」

 お前は武器になるものを探してこい、と師匠に言われていたので、納屋に跳び込んで骨の折れたビニール傘を見つけた。

 今思えば、すこし目を凝らして探せば錆びた斧とか鉈とかもう少しマシな武器を見つけられたかもしれなかったが、僕はパニックだったし、うかうかしていると女の子や師匠が襲われるかもしれなかった。もちろん、僕だって。

 

 その傘が、後悔の諸悪だった。

 小熊の背中には肉の抉れた穴が開いていて、そこからどくどくと血が泉のように噴き出ている。血が止まらないということは、心臓が動いているということだ。

 可哀相だ。なんの罪もないのに、ただそこにいたというだけで、下手くそな殺し手に残酷な殺され方をして、痛みのあまり気を失い、それでもなお死ねないでいる。そして今、心臓に触れられようとしている。汚れた手で。

 頬に伝ったものが涙と気付けないほど、僕は夢中になり、自分を失い、はやくこの地獄が終わることだけに心血注いでいた。だからそれは涙ではなくて、血だと思っていた。

 小熊の体内に手を入れるのは気がすすまなかった。熊の血はいちど皮膚につくと数週間はにおいが取れないほど強烈なのだ。ときにそれは夜も眠れないほどきつい。

 

 うつぶせになった小熊を横臥させた。

 小熊は片手で返せるほど軽くて、毛の一本一本は針のように硬いのに、毛並みは柔らかく、温もりを宿していた。その温もりは僕に、去年の暮れに死んだ犬を思い出させた。

 テディベアほどしかない小さな胸に手をあてると、その鼓動は今にも消えそうに小さく、けれどもたしかに動いていて、目を閉じるとその呟きにも似た鼓動は去年の暮れに死んだ僕の大切な家族のものにそっくりで、目を開けると、胴体は犬そのものだった。

 僕が殺そうとしていたのは。

 僕は、僕は、僕は。

 

 月が地平線に崩れ落ちるほど僕は泣いた。山びこが日本中に響くほど叫んだ。雲が霧散するほど身を震わせた。そうしながら、僕は背中に空いた穴に手を入れて、心臓を握りつぶした。

「愚かね!愚か!」

 女の子が気が狂った人みたいに、笑いながら叫んだ。

 

 その血のにおいはいつまでも皮膚にこびりつき、記憶から消えないのだ。

 

 ↓

 

 そんな夢から目が覚めると、頬がひりひりして、目がゴルフボールくらいに腫れているような気がした。鏡を見るとひどい顔をしていた。眠りながら泣いていたのだ。

 今日一日、このどうしようもない悪夢のようなものに思考を遮られていて、なにかに書き留めたくてしかたがなかった。

 私の一週間は最悪の目覚めであった。