週末に恋人の実家へ食事に行った。
恋人の家族と会うのは初めてで、日ごろから話に聞いていた人たちと実際に会うとちょっと芸能人に会ったかのような「これがあの話の人かぁ」となる。たぶんご家族も私を見てそう思っただろう。
快く私を迎え入れてくれて、楽しく食事ができた。
ご尊父の自慢のオーディオも体験させてくれた。話は逸れるが、音楽を聴くための場所を構えているというのは贅沢なことでそれでこそ音楽への向き合い方だと痛感。ちゃんと音楽作品を聴くというのはとても楽しいことだ。
なんだか温かい時間を過ごすことができた。
恋人と出会わなければ永久に会うことのなかった人たちなんだ。今の彼女がいるのはご家族のおかげであるし、こうして新しい関係性を持てたのは恋人のおかげなのだと思うと胸が熱くなった。
そして、おそらく、このままうまく時間が流れれば、私は恋人と結婚して、恋人の家族と私は家族になるのだろう。
私に義姉ができ、義父ができ、義母ができるのだ。同じように恋人に義母ができ、義妹ができる。
もう10年以上父のいない生活を送ってきた私は、恋人のご家族と食事しながら、父がいるっていいな、と思った。なんだか家族がちゃんとひとつの歯車機構の中で動いているような感じがする。
でもたぶんそれは父の存在のおかげだけでなく、恋人の家族が仲が良くてきちんと相手を見て動いているからこそ、他人である私にも伝わった歯車機構の感覚なのだろう。
私もいずれこの機構の中へ入っていくのだろう。
家族っていいもんだ。
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帰りに恋人と二人きりになって、私は彼女に好きだよと伝えた。
彼女も好きだよと言ってくれる。
愛してる、とも伝える。
いくらでも伝える。
でもこういう言葉って、口にすればするほど気持ちの濃度が希釈されていくようで、もどかしい。
一日中愛してると伝えても伝わりきらないくらい愛しているんだ。だけど言葉にすればするほど言葉の意味は薄まっていくようで、たとえばそれはインフレ経済の中で貨幣の価値が下がることと似ている。
私の気持ちは120%伝わらない。もっと他の言葉で気持ちを尽くせればいいのにと思う。たぶんそういうときのために詩があるのだろう。
言葉って本当に伝えたい気持ちの前では不完全な道具だ。
不完全な道具で作った詩もまた120%のものではないのだろう。
どうすれば恋人に120%伝えられるのだろう?
もしかしたら、怖い話、それは永久に無理なのかもしれない。私の愛情が減らない限り無理なのかもしれない。
そんなの嫌だなぁ。
恋人の手を握りながら、そこに実在があることを思う。冷たくて小さくて柔らかい手だ。世界一愛しい手だ。
いくらでも愛してると伝えよう。言葉の前に喜んで挫折しよう。
この気持ちはきっと一生かけて伝えるべきことなんだ。今だけで伝えられるべきものではないのだ。
恋人のご家族を想う。私の家族を想う。恋人のことを想う。私自身のことを想う。
恋人の手を強く握る。