あなたは最初にガムを噛んだ日のことを覚えていますか?
私は覚えている。
ただ漠然と、ガムの理不尽さを覚えている。
ガム、理不尽じゃないですか?
なんで飲みこんじゃいかんの?って思わんかった?
子どもが噛むガムってフーセンガムみたいなふざけた、甘いだけの、汁が滴る樹脂の塊であるが、結局そういうのがいちばん美味しいんだよな。
だから初めてガムを噛んだとき、私は迷うことなく飲み込もうとした。
「飲み込んだら死刑ね」と母親に脅されていたので飲み込まなかった。
でも飲み込みたかった。
ガムをはじめて噛んだあの日まで、口の中に入れた食べ物で飲み込んではいけないものがあるなんて知らなかったのだ。それはまったく常識を覆すような存在である。たとえば浮かんでいない雲とか文字が書けない筆記用具とか払ってるのに貰えない年金みたいに意味の分からないものだ。
しかしながらガムとはよくできている。
飲み込みたいと思っても、飲み込ませないなんらかの♰チカラ♰が働いているように思う。
「これを飲み込んでもしょうがないし、飲むほどのものではないな」と思わせる。
その♰チカラ♰の正体は、ガムが噛むにつれて味を失っていくことに由来するだろう。
多くの食べ物は味を失う前に飲み込まれる。味があるということが「飲み込む」ひとつの条件なのだ。だから味覚障害に陥り味を失った人は食べ物を食べなくなってしまう。
ガムは最初の内は味の塊であるため、飲み込むなら最初がチャンスなのだけど、ガムという特性上、味を失うまで味わい続けなければならず、さて飲み込むかと意を決したときにはただのよくわからない「くちゃくちゃのガム」としか形容のできない死んだ物質に変わり果てており、飲み込もうとすら思わなくなる。
そして、死んだ物質を口の中に入れていると栄養がまったくないことが感ぜられ、動物的に、「食っても無意味ですよ」と察して、飲み込んで無駄に消化エネルギーを費やすくらいなら吐き出した方がマシだな、と無意識的な神経で判断される。
現に、ガムは消化されない。なぜなら「死んでいる」から。
ここまで大して興味のないガムについて書きながら考えていたけど、ガムって人間らしい食べ物だ(食べ物ではないな)。
栄養価は無く、「味」だけがあって(あとキシリトール)、完全に「噛む」ことと「味」を楽しむためだけに作り出され、食べるという行為から切り離されているにもかかわらず「食べる」動作をしなければならない、動物的な基準で考えると、まったく無価値。生存になんの効果をもたらさない。せいぜい唾液が分泌されるくらいだ。
じゃあ唾液を分泌させるために噛んでいるのかと言えば、まったく違うのだから、ガムは「動物本能」から完全に隔離された人間らしい営みのたまものなのである。
だからこそ、初めてガムを「噛んだ」あの日、理不尽だと思ったのだろう。
愛したいな。
噛(が)む。
えへへ///(そういう感じで今日はどうでしょうか?)。