昔は──私がまだ小学生くらいで携帯電話を持っていなかった頃は、待ち合わせが不安で仕方がなかった。
あいつはちゃんと時間通りに来るだろうか、もしかして急遽来れなくなったなんてことはないだろうか、私はいつまでこの雑踏の中で待つのだろうか、と不安だった。
時間を過ぎても待ち人、来ず、の場合はさらに不安になり、弱い心で雑踏の中にいると孤独が増悪して自分が何者なのかも見失い、宇宙船から投げ出されて宇宙空間の虚無にたった一人浮かび酸素が尽きて死ぬのを待っているような、耐え難い孤独感に襲われて、狂乱してしまう。
この孤独はどうすることもできぬ。待ち人が来ない限り。他力本願だ。
死のう。そう思う。
昭和時代や平成の初期はケータイなんてなかったわけで、待ち合わせは常にそういう不安が伴っていたのだと思うと、考えるだけで胃がきゅっとなる。よかった。平成7年生まれで。ケータイが普及してからの方が人生長くて。
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中学くらいまで、友だちの家の最寄り駅に伝言板が設置されていた。
「大好き byかんた」ってなんだよ。インターネッツの拾い物だ。
最寄り駅にあった伝言板はもっと小さく、かなり年季の入ったもので、チョークがしけっていて数か月前の伝言がずっと残ってるような、時代を漂流した遺品みたいな代物だった。
まさかそこに「XYZ」と書く人間もいないし、私も使ったことはない。待ち合わせするときに、目の端に入っていただけだ。
たぶん、その伝言板はもう撤去されたと思う。
今思えば、伝言のひとつでも書いておけばよかった。
「参上!」とか「アベやめろ!」とか「リメンバー・パールハーバー」とか「色即是空」とか「春暁 春眠不覚暁 処処聞啼鳥 夜来風雨声 花落知多少」とか、そういったことを自由に書けばよかった。
「いつものバーで」なんて書いておけば、それを見た誰かが物語を思いつきそうだ。
あるいは大喜利のお題を書いておけばよかった。
「こんな車掌さんはクビだ。どんな車掌?」
駅員が答えてくれたかもしれない。
伝言板絶滅した説、ある。
だってもう令和だ。伝言板が設置されてる駅がある邑(むら)は恥じた方がいい。その地域ごと時代の遺品になってしまうぞ。
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今の時代、ほとんどの人がケータイを持っているわけで待ち合わせ相手とすぐに連絡が取れるし、しかも待ち合わせの暇な時間にTwitterを眺めたりまとめサイトを見たりゲームをして時間を潰していられるわけだから、待ち合わせにより生ずる不安はほとんどない、と言える。
特に慣れた相手だと不安なんてまったくない。
あの不安感も、時代の遺品になってしまうのかもしれない。
そう思うと、今一度あの絶望的な他力本願的孤独に浸りたいと思ったりもするのが人間の勝手な情緒で、今度のデートはあえてスマホを家に置いていき、カメラもインスタントカメラを持っていこうかしらなんて思ったりもする。
やらんけど。