たまに、駅とか地下鉄で大声で叫んでる人いるじゃないですか。
誰かと笑ってるんじゃなくて、一人で虚空を睨みながらくすくす笑う人とか、バス停で独りで「議論」する人とか、いるじゃないですか。
わかるなぁ。
そら、そうなりますわな。こんの狂いきった世界では。
私は思う。
駅や地下鉄で叫んだり虚空に微笑みを与えたりバス停で独りで「議論」する人は、素直なのだと。
私だって、ときどき駅のホームにスマホを叩きつけたくなる。
革靴を脱いで電車のドアに投げつけたくなる。
「あああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!」
叫んで、なんだろう、その場でなんかこう、自転に逆らって縦回転したくなる。古いゲームのバグみたいになりたくなる。
↓
今朝悲しかったこと。
ニュースにて。
60代の父親を殺した30代男性の写真が高校の卒アルの写真だったこと。
直近の写真が無い。それはいったいどういうことだろう。社会から隔絶され、誰からも愛されず、自分の存在すら自分でもわからなくなってしまうのだろう。すべての物事を記録しようと食欲旺盛な牛のようになった情報化社会において、ここ3年以内の自分の写った写真がないということは、そういうことなのだろう。
まるで自分というものを失った生活をしていたら、そんな人生を送っていたら、父親を殺したくもなるだろう。同情はしないけど、理解はできる。念のため書いておくが、理解と許しはまったく異なるものである。チーズケーキとサラダチキンくらい違う。
世の中には怖い事件がたくさんある。
その中でも最も怖いのは、理解不能の犯行動機の事件だ。
私怨・復讐・思想などそういった「理由のあるもの」はなんとなくわかる。同情はしないけど、理解はできる。どんなに突飛であれそこにはロジックがあり、説明可能で、まるでお化け屋敷の電気をすべて点けたら全然怖くなくなるみたいに、犯罪を自分の住む世界と同じ次元に落とし込むことができ、あるいは今後抑止できるかもしれないなどと未来のことを考える余裕すら出てくる。
ゆえに社会は犯罪の動機を求めるのかもしれない。
本質を見定めることで脱恐怖化するのだ。
だからこそ、理由なき殺人のようなものは怖い。快楽的な殺人事件も充分怖いものだけど、とくに何も考えてないけど殺しましたなんとなく、みたいなものはかなり怖い。
そういったものは理解したいとも思わない。
あまりにも不健全だから。
よく考えないで書いたら、当初と話が全然違ってしまった。
どうなるかわからないものだ。